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鏡台の前に座らされた時也は
まるで簀巻きにされた捕虜のように
逃げ場を失っていた。
これまで
幾多の死地を潜り抜けてきたというのに
今ほど自分の心臓の鼓動を
意識したことはなかった。
自分の〝顔面〟が
敵になる日が来ようとは──⋯
鏡の中に映る顔は
たしかに自分のものであるはずなのに──
見知らぬ他人の面差しのようだった。
「動いちゃだめ!
せっかくのラインが崩れるでしょう!」
背後から飛んできたレイチェルの声は
明るく弾んでいながら
刃のように容赦がない。
化粧筆の毛先が頬を滑るたび
時也の肌は新たな色を帯び
骨格の陰影は繊細に削り出されてゆく。
もともとの顔立ちが持つ柔らかな線が
絵筆を入れられた聖画のように
別種の〝完成品〟へと
作り変えられていくのが分かった。
その隣では
アビゲイルがまさしく祈りの 姿勢で筆を持ち
小さく息を整えてから
唇の輪郭をなぞっている。
彼女の指先は礼拝堂で燭台に灯を掲げる
信徒のように慎重で
その所作は化粧ではなく
〝奉仕〟とさえ呼べるものだった。
「はい、少し顎を上げて⋯⋯そうですわ。
ああ、美しい⋯⋯!
まるで〝神の御業〟ですわ⋯⋯!!」
恍惚を含んだ囁きに
時也は鏡越しに目を瞬き
冷や汗を流すしかなかった。
眉尻をわずかに動かすことすら
許されぬ緊張が
肩から背中へ薄い板のように張り付いている。
ほんの僅かでも動けば即座に叱責が飛ぶ。
息を吸うことさえ
筆先の軌跡を乱す〝大罪〟であるかのように
躊躇われた。
少し離れたソファには
アリアが静かに腰掛けていた。
白磁のごとき肌の上を
窓から差し込む柔らかな光が
細く滑り落ちてゆく。
深紅の瞳は瞬きひとつ見せぬまま
変わりゆく夫の姿をただ黙然と見つめていた
表情には驚きも、愉悦も
戸惑いも浮かばない。
ただ、すべてを見届ける者だけが持つ
静かな眼差しだけが、そこにあった。
その膝の上では
ティアナが長い尾をゆるやかに揺らしながら
気まぐれな欠伸をひとつ漏らす。
丸い口の奥で小さな牙が光り
再び瞼が閉じられる。
まるで、時也の受難を見守るようであり
なお興味も示さぬ賢者のような横顔だった。
近くの壁にもたれた青龍は
腕を組み、深く息を吐く。
「⋯⋯時也様。
実に見事な変わりようでございますな」
幼い声に似合わぬその嘆息は、驚愕と
わずかな憐憫の色を帯びていた。
式神として幾世の変転を眺めてきた彼でさえ
主がここまで徹底して
〝別人〟に作り替えられていく光景は
さすがに想定外だったのだろう。
「ふっふっふ⋯⋯さぁ、時也さん!
次は、いよいよクライマックス!
ドレスにお着替えよ!!」
レイチェルが満面の笑みで声を弾ませると
アビゲイルが小走りに奥の部屋から
箱を抱えて戻ってきた。
「知り合いのコスプレイヤー様から
これを拝借してきましたの!!
本物の女優さんも使われる
〝精巧なる逸品〟ですのよ!」
それは──まさしく〝禁断の装甲〟
高らかに掲げられた
その箱の中から取り出されたのは──
あまりにも現実感のありすぎる造形。
質感まで生々しい〝偽の胸部〟であった。
──たゆん!
アビゲイルの手の中で、それがまた
生々しい質感で豊満に弾む。
「⋯⋯っ!?」
時也は息を呑み
鳶色の瞳を見開いたまま
硬直するしかなかった。
顔色が目に見えて変わっていくのを
自分でも止められない。
本来であれば
即、拒否の言葉を紡ぎたかった。
しかし、彼は沈黙を選んだ。
何も言わないことこそが
今の彼に許された最大限の〝抗議〟だった。
「動かないでくださいませね、時也様。
これも〝リアリティ〟のためですわ!」
両手に抱いた偽の胸部を
宝物を扱うかのように
慎重に角度を確かめながら
アビゲイルが真剣な顔でそう告げる。
(リアリティのために
僕の尊厳は〝犠牲〟になるんですね⋯⋯)
喉元まで込み上げた本音を
時也は飲み込んだ。
心の内で小さく溜め息をつきながら
視線だけをそっと天井へと逃がす。
白い天井の隅で、照明の光がひとつ
涙の粒のように滲んで見えた。
部屋の隅では
アラインとソーレンが控えていた。
ソファの肘掛けに腰を預けるアラインは
片足を軽く組み
指先でグラスの縁をなぞるようにしながら
その様子を愉快そうに眺めている。
視線がほんの僅かにそちらを掠めると
彼は片眉を上げ、口元に楽しげな弧を描いた
〝ほら、言った通りだろう?〟
とでも告げるような
悪戯っぽい光がアースブルーの瞳に閃く。
隣のソーレンはといえば
組んだ腕の下で肩を震わせ
唇を噛んで笑いを堪えていた。
時也と視線が合うと
〝すまん〟と
形だけ 口を動かしてみせるものの
その目尻にはどう見ても
愉悦の皺が寄っている。
煙草を咥えていないのは
単に笑い出して灰を零すのを
恐れているからに違いなかった。
そして──
運命の〝衣〟を纏う時が訪れる。
用意されたドレスが広げられると
部屋の光は一瞬、その布の波に呑み込まれた
深い闇と
深紅の月光の狭間のような色合いの絹が
腕の上で柔らかく流れ
床すれすれまで落ちる裾が
静かな水面のようにうねる。
背中から腰まで大胆に開いたカッティングが
露わになった素肌へと
冷ややかな触感を滑り込ませた。
布が肩を包み
腰をなぞりながら落ちてゆくたび
背骨の一本一本がなぞられるようで
思わず息が詰まる。
絹の冷たさが
そのまま羞恥と緊張の温度へと変わり
皮膚の下で赤く燃えた。
肩幅を隠すため
巧妙に配置されたレースとドレープが
視線の流れをなだらかに変える。
胸元から腰にかけて流れる曲線は
男性的な骨格を曖昧にし
柔らかさだけを浮かび上がらせていた。
その仕立ては
ただ誤魔化すためのものではない。
意識して眺めれば眺めるほど
職人の執念にも似た計算と
アラインの悪趣味なまでの〝こだわり〟が
透けて見える。
最後に与えられた試練は──
ヒールだった。
細く高く伸びた踵は
時也がこれまで踏みしめてきた
どんな戦場の足場よりも、不安定に思えた。
足首に悍ましいほど細いベルトが巻かれ
カチリと小さな金具の音が鳴る。
その瞬間
彼の重心は足裏から高みへと持ち上げられ
世界の地平線がわずかに傾く。
一歩。
かかとが床を探し、つま先が先に触れる。
ぐらり、と世界が揺れた。
「ちょっと!
膝が言うこと聞いてないわよ、時也さん!
もっと内側に力を入れて
脚のラインを意識して!」
レイチェルの叱咤が飛ぶ。
彼女は背筋を伸ばして堂々と歩いて見せ
その足捌きのひとつひとつを解説する。
つま先の向き、骨盤の角度、肩の落とし方。
何度も舞台に立ってきた踊り子のように
彼女の動きには無駄がない。
「そうですわ。
体の中心を一本の糸で引き上げるように⋯⋯
はい、肩を落として。──まぁ⋯⋯!
すぐに覚えてくださるのですね」
アビゲイルが感嘆の息を漏らす。
彼女は裾を踏まぬようそっと持ち上げながら
足首の角度が限界まで折れないよう
肩を支えていた。
足首が悲鳴を上げる。
ふくらはぎに普段とは異なる負荷がかかり
筋肉が戸惑うように震えた。
転びそうになるたび、己の矜持を噛み締める
(……これしきで
弱音を吐くわけには参りませんね)
時也は、静かに心の中で呟いた。
陰陽師として
一歩先に何が待つか分からぬ
闇の中を進んだ日々を思えば
この細い踵もまた
ただの〝条件〟に過ぎない。
親指の付け根から土踏まずへ
そこから踵へと
桜の根を張るように意識を降ろしていく。
異様な高さの上で
やがて彼の身体は新たな均衡を学び始めた。
「……ふむ。さすが、と申すべきか」
様子を眺めていた青龍が、小さく頷く。
「時也様。
足運びは既に、舞の型と変わりませぬ。
あとは──その顔に浮かぶ悲壮感を
どうにか隠していただければ
完璧でございますな」
「そこが一番難しいんですけれどもね⋯⋯」
思わず漏れた本音に
レイチェルが声を上げて笑った。
「大丈夫よ、大丈夫!
外見はもう完璧に仕上げたから
ちょっと微笑んでるだけで
勝手に〝淑女〟に見えるわ!」
鏡の前に立たされ
改めて自分の全身を見たとき──
時也は、かすかに息を呑んだ。
そこに立っているのは、たしかに
自分とは似ても似つかぬ誰かだった。
長い睫毛の陰が頬に影を落とし
紅を差した唇は、呼吸と共に淡く艶めく。
頬の骨格は巧妙に削られ
顎のラインは柔らかく細く見えるよう
描き直されている。
結い上げられた黒褐色の髪は
首筋をなぞるように流れ
耳元で揺れる小さな飾りが
わずかな仕草にも光を宿らせていた。
背筋を伸ばし
ヒールの上で重心を静かに整える。
その立ち姿は
既に一人の〝貴婦人〟であった。
アリアですら──ほんの一瞬、目を見開いた
「ふふ⋯⋯」
いつの間にか近づいていたアラインが
鏡越しにゆるやかな笑みを浮かべた。
アースブルーの瞳が
上から下へと彼の姿を
一度だけ撫でるように眺め
その視線の端に
ほとんど陶酔に近い愉悦が閃く。
「⋯⋯完璧だよ、時也。
キミは今日
この国でいちばん美しい〝淑女〟だ。
そう思うだろう?ソーレン」
「⋯⋯あぁ?」
呼ばれたソーレンは、一拍遅れて頷く──が
口元は皮肉を噛み殺している。
「く、く⋯⋯っ!
いやマジで〝綺麗〟だな。
中身お前なのが、気持ち悪ぃけど⋯⋯」
「褒め言葉として、受け取っておきますね」
時也は、諦念にわずかに唇を緩めて答えた。
この衣は、嘲笑のための飾りではない──
これから向かう
〝贖罪と断罪〟の舞台へと
足を踏み入れるための──鎧である。
桜の花弁のように薄い布地と化粧の奥で
炎がひとつ、小さく灯った。
艶やかな外套の下で燃え上がるのは
優しさを断ち切り
根絶を選ぶ者の、静かな紅蓮の火。
「さぁ、時也──
〝夫婦として〟出掛けようか」
アラインがそっと、 時也の手を取る。
彼は小さく、息を呑んだ。
今宵、忌まわしき幕が上がる──