──そして、時は流れ。
天井高く吊るされた
シャンデリアから 零れる光は
まるで星辰が砕かれ
その残滓が地上へと
降り注いだかのようであった。
幾万もの結晶が孕む輝きは
乳白色の大理石の床に細かな粒となって散り
ひとつひとつが
微かな呼吸を宿したかのように脈打ちながら
そこを歩む者たちの影を淡く曳きずっては
静かに揺らめいている。
その光の中心で──
時也はアラインの腕に抱かれていた。
彼の掌は
絹のドレス越しに腰へ添えられている。
添える──と呼ぶには些か強すぎる圧が
観客の視線には
〝情熱〟として映るよう 計算され
当の時也には〝逃げ道を塞ぐ枷〟として
過不足なく伝わってくる。
照明は陽光にも似た柔らかさで彼らを包み
完璧に結い上げられた黒褐色の髪を
肩へと滑らせる。
伏せられた睫毛は、光を掬い上げる度に
ほとんど不可視なほど僅かに震えた。
その震えだけが
長いここまでの道程の果てに 積もった
精神の疲弊と、 今なお続く緊張の持続を
かすかな兆しとして語っている。
だが、遠目にはそれすらも
〝愛される妻の慎ましい羞じらい〟としか
見えぬだろう。
この場に集う上流の人々にとって
真実とは常に〝美しく解釈される側〟であり
彼らの目は
用意された物語以外を映すようには
出来ていない。
ただひとり
その物語の中心に立つ時也だけが
この抱擁の内側に潜む意図を
別の名で理解していた。
──これは〝嫌がらせ〟だ、と。
逃げ場のない位置に腰を固定され
腕の角度も、顔の向きも、歩幅すらも
制御される。
愛情の演出に見えるその手は
実のところ
彼の自由を奪うための最も洗練された
拘束具だった。
それでも、時也は微笑みを崩さない。
仮面は、決して割ってはならない。
「まぁ⋯⋯見ないお顔ね。
震えていらしてよ?」
隣席の女性が
深紅の扇を緩やかに揺らしながら
声を掛けてきた。
その瞳は
光を掬い上げる水面のように澄んでいながら
その底には〝噂〟という名の餌を求め続ける
上流階級特有の飢えと渇きが
薄い膜一枚の下で蠢いている。
時也は、静謐な微笑を返すのみであった。
ここで声を出すことは許されない。
許されない──
というより
言葉を紡ぐことを徹底して禁じている。
声は──〝真実〟を連れて来る。
ひとたび口を開き
言葉が音となって空気を震わせれば──
そこから漏れ出す声色は
どこまで塗り隠そうとも〝男〟のものだ。
その瞬間
この舞台装置は音を立てて崩れ落ちる。
ゆえに、沈黙は盾であり
沈黙の仮面こそが
この夜を乗り切るための最も強固な
防壁であった。
「お優しいお心遣い、感謝しますよマダム。
彼女はね⋯⋯大勢の前よりも
ボクと二人きりの〝熱い静けさ〟を
好む性質でしてね。
ねぇ──モナムール?」
アラインの声は
氷砂糖を燭火でゆっくり溶かしたかのように
甘い。
だがその奥底には、聖職者の説教にも似た
逃れがたい押しつけがましさが
ひっそりと潜んでいた。
言葉が終わるより早く
腰を抱く腕にさらなる力がこもる。
細身の身体が、意図的に密着させられた。
続けて、指先が時也の顎へと滑り上がる。
唇が触れる寸前──
わざとらしいほど、計算された距離。
周囲の空気が
浅く吸い込まれる気配に満ちる。
視線が彼らの口元へと一斉に集まり
これは愛の誓約であり、夫婦の蜜月だと
誰もが半ば当然のように
〝そうであるはずだ〟と信じ込む。
だが、その仮面の裏で
時也の笑みの奥には
別種の光が静かに刃を成していた。
(僕が声を出せないとご存じで⋯⋯
ずいぶん、好きに振る舞われますね?
アラインさん──)
抱き返すように見せかけて
時也の指先はゆっくりと
アラインのタキシードの裾へと潜り込んだ。
外から見れば、ただ愛する夫に縋る妻の
遠慮がちな仕草にすぎない。
しかし
その内側で起きていることは、まるで違う。
指先が絹布の下の肌を捕らえ
躊躇いも容赦もなく──鋭く抓り上げた。
刹那、アラインの表情がわずかに揺らぐ。
まるで氷面に、ごく細いひびが
ひと筋走ったかのように。
それは、知覚できるかどうかの境で
光と影の狭間に紛れ込んだ
ほんの一瞬の歪みだった。
だが
瞬きひとつ分の時間さえ置かれぬうちに
微笑は何事もなかったかのように
元の形を取り戻す。
その完璧さは、もはや〝習性〟と言ってよい
アラインの顔には
再び気障なまでの余裕が満ちていた。
けれど
その絹の下で極僅かに強張った筋肉の動きと
抓られた部分に走る微かな緊張の火花を
時也の指先は確かに感じ取っていた。
ここから先は
表面には映らない〝密やかな駆引き〟である
視線は穏やかに
指先は優雅に絡み合い
呼吸は互いの温度を乱さぬよう
綿密に制御される。
外から見えるものは
あくまで美しく整えられた一枚絵に過ぎない
しかし
その背後で実際に交わされているのは──
互いに一歩も譲らず
己の領域を踏み越えさせまいとする
〝静謐な意地〟の応酬だった。
(あまり調子に乗られると──
こちらとしても考えねばなりませんね)
(ふふ⋯⋯
こんな状況でも
ちゃんとボクに噛みついてくる。
実に──キミらしい)
〝敵意ではない〟
無条件に背を預け合う類のものと
どこか似て──非なるもの。
同じ舞台の上に立つ者同士としての
張り詰めた〝共犯関係〟
柔らかな音楽がホールを満たし
絹の裾が床を撫で
宝石の光が壁面を流れる。
笑い声とグラスの触れ合う微かな音
囁き交わされる貴族たちの会話──
光と影の境を歩くこの夜会の只中で
ふたりだけが、別の水脈に身を浸している。
まるで、月下で対峙する二つの影が
光に溶けることなく
音も立てずに刃を
交わし続けるかのようであった。
時也の瞳は柔らかな光を湛えながらも
その奥底は凪いでいない。
彼の心の中心には、潜入任務の緊張と
この状況を仕組んだアラインへの
寡黙な怒りが 静かに沈んでいた。
怒りは炎ではない。
むしろ、水面の下に沈む刃──
見えるよりも深く、冷たく、確実なもの。
アラインはアラインで
その沈黙の刃の存在を
愉悦をもって歓迎していた。
見目麗しい〝妻〟の仮面の裏に潜む──
警戒と殺意。
それを抱えたまま演じ続ける時也の緊張こそ
この上ない美酒であるとでも言いたげに。
「⋯⋯可愛いじゃないか、モナムール。
そんなに震えて。
ボクの隣では、もっと甘えていいんだよ?」
あくまで静かに。
だがその指先は
時也の腰骨を擽るように押し寄せる。
ドレスのスリットから零れる肌の面積が
僅かに広げられる。
観客に見せるための
演技としては──完璧だった。
(⋯⋯なるほど。あなたがそう来るなら──)
時也は、ほんの僅かに身体を預けた。
寄り添う仕草に紛れて、胸元に添えた指先が
静かに衣の内側へと意識を落とす。
そこから──
ごく小さな芽が、ひそやかに顔を覗かせた。
目には見えぬほどの微かな螺旋を描きながら
淡い緑の蔓が絹の内側を滑り
純白のシャツの隙間へと忍び込む。
肌理細やかな布地の下
ひやりとした感触を残して這い進むそれは
やがて胸元の奥で
ふさふさとした穂先をひらめかせた。
──狗尾草
猫の尾にも似た
柔らかな毛並みを持つその穂が
絶妙な加減でアラインの素肌を撫でる。
鋭くではなく、しかし確実に神経だけを擽る
粘つくような違和感。
皮膚の下を
螅が這い回る錯覚にも似た感覚が走り
アラインの身体が
目に映らぬほどの幅でぴくりと震えた。
だが、震えは喉を越えない。
笑みも崩れない。
お互いに、胸の奥で呼吸を噛み殺し──
ただ、完璧な微笑だけを
舞台の上に差し出し続ける。
誰しもそれを
〝夫婦の仲睦まじさ〟と解釈するだろう。
しかしアラインだけは理解した。
〝許してはいない〟という
仮面越しの警告を。
ふたりの間に
目線と指先の無音の応酬が走る。
微笑を保ちながら
互いに牽制し続ける姿は
華やかな宴の中心に立つ〝夫妻〟ではなく
むしろ刹那に命を断ち切りうる
二振りの短剣であった。
彼らの足元で割れる光の粒が
まるで緊張の亀裂を照らすかのように揺れた。
──そのとき。
(⋯⋯おいおい。
潜入中だってのに
あの二人は何をやってやがんだ)
壁際で他の警備員に紛れ立つ
漆黒のスーツ姿のソーレンが
苦虫を噛み潰したように眉を顰めた。
胸元の無線には触れず
ただ視線だけで〝二人の小競り合い〟を追う。
仮面の下で繰り広げられる応酬を
彼だけは完全に理解していた。
(⋯⋯頼むから、任務に集中しろよ。
今落ち合うべき相手は
その悪趣味な紳士じゃなくて
〝この地獄を仕切ってる連中〟だろうが)
しかし、ソーレンは知っていた。
時也は
多少の干渉で平衡を崩すような男ではない。
アラインもまた
目的を忘れ、足並みを乱すほど愚かではない。
(まぁ⋯⋯あの二人が、小競り合い程度で
しくじる馬鹿を踏むわけねぇし)
溜息に近い、諦観の混ざった内声。
その響きはどこか乾いていて
この状況すら〝想定内〟だと告げている。
(勝手にやっとけ──って話だな)
僅かに肩を竦め
再び壁の影へ溶けるように立ち戻った。
彼が抱くのは──
戦場で鍛えられた冷静さでも
仲間への情でもない。
ただ、長い時を共に過ごした者だけが持つ
乾いた呆れと確かな信頼だった。
柔らかな音楽が流れる。
だがその旋律は甘い舞踏曲ではなく
むしろ断罪の前奏のように低く深い。
〝美しい夫婦〟として並び立つ影の中で
二人は互いを制し合いながらも
同じ一点──
この宴を覆う腐臭の源へと
静かに歩みを進めていた。
金糸の光が降り注ぐ大広間の奥へと
ふたりの影がゆるやかに伸びていく。
その歩みは優雅に見えて、実のところ
〝断罪〟へ向かうための静かな行軍であった。
──静かなる戦いは、すでに始まっている。
そしてこの夜
華やかな舞踏の裏で
最初に血の匂いを嗅ぎつけるのは──
彼らを〝同じ〟と信じて疑わぬ観客なのか。
それとも
今もどこかで命を値踏みするように
高みの見物を決め込む愚か者か。
いずれにせよ
この舞踏会はまもなく
〝天使〟ではなく
〝処刑者〟を目撃することになる──
静寂が、ひそやかにその到来を告げていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!