テラーノベル
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桃水
「……ねぇ、こさめ。もう、歌わなくていいんだよ」
俺はベッドの中から、窓辺に立つこさめに声をかけた。
俺の身体は、こさめが歌ってくれるたびに不思議と軽くなる。鉛のように重かった手足に血が巡り、止まりかけていた心臓が、力強く時を刻み始める。
けれど、代わりに。
こさめの身体は、日に日に透き通っていく。
「いいえ、らん様。……僕には、これしか差し上げられるものがないから」
こさめが微笑む。その頬は、今にも朝日に溶けて消えてしまいそうなほど、頼りなく白い。
彼が喉を震わせ、歌声を紡ぐ。
それは、世界中のどんな楽器よりも清らかで、そして、どんな刃物よりも鋭く僕の胸を刺す音色だ。
一節歌うごとに、こさめの指先が透明になっていく。
一節歌うごとに、俺の寿命が一日分、延びていく。
俺が生きるということは、こさめをこの世から削り取っていくということだ。
「やめて……! そんな風に、俺のために消えないで!」
俺は叫んで、こさめを抱きしめようとした。けれど、俺の腕が触れた場所から、こさめの身体は光の粒子となって零れ落ちていく。
実体があるのに、手応えがない。
俺の命を繋いでいるのは、こさめが失った「明日」だ。
「らん様……泣かないで。僕は、あなたの体温になれることが、何より幸せなんです」
こさめの声が、最後の一節を紡ぐ。
その瞬間、こさめの身体は完全に透明になり、窓から吹き込んだ風にさらわれて消えた。
あとに残されたのは、あまりにも静かで、あまりにも健康な、俺の心臓の音だけ。
俺は、こさめの命を食べて生きている。
この胸の鼓動は、こさめが最期に歌った、俺への愛の残響だ。
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