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橋本は仕事の空き時間を上手いこと作って、市内にある実家にこっそり顔を出していた。
「本当におまえは、毎月マメに顔を出すよなぁ。陽の爪の垢を、息子の誠一郎に煎じて飲んでもらいたいくらいだ」
和室に置かれている、こじんまりした仏壇に手を合わせる橋本の背中を見ながら、義父の喜三郎が声をかけた。
「誠一郎兄さんは、会社で役員してるんだから、当然仕事が忙しいだろ。それに年頃の息子がいるわけだし、家に帰っても大変なんじゃねぇの?」
拝み終えてから振り返り、義兄のフォローをすべく橋本が返事をしたが、喜三郎の顔色はすぐれないままだった。
「大変なのは、おまえだって同じだろ。親父の月命日にきちんと顔を出す陽と違って、誠一郎は年始のときに顔を見せるだけで、電話すら寄こさないんだぞ」
「俺は独り身だし、誠一郎兄さんよりも自由がきくから。それよりも、蒼仁(あおひと)は元気なのかな。反抗期がますますひどくなってるようだったら、顔を出してあげないと」
話題を孫の話にすれば矛先が変わると思ったのも束の間、喜三郎の表情は呆れたものへと変化する。
「蒼仁が陽みたいに、聞き分けのいいコだったら苦労しないと、誠一郎は嘆いていたっけ」
「それって父さんと兄さんは、同じってことじゃないか。子どもで苦労させられてるっていうところがさ」
「そういうおまえだって、れっきとした家のコだぞ。いつになったら結婚するんだ?」
言いながら、自分の首の横を突つくように指さす。意味がわからなくて橋本が眉をしかめると、盛大なため息をつかれてしまった。
「恋人がいるんだろ? ここんところに、蚊に刺された痕みたいなのが見えてるぞ」
その言葉にハッとして、視線を逸らしつつ、ワイシャツの襟を引き上げた。つけられた位置にもよるが右側だから、ハイヤーに乗せた客が腰を上げてわざわざ覗き込まなければ見えないだろうと考える。
「陽、どうなんだ?」
「いるにはいるけど、付き合い始めたばかりだし、結婚を意識するにはまだ早くて」
「何を言い出すかと思ったら。30過ぎのいい歳したおまえと付き合って、結婚を意識しない女がどこにいるんだ」
「それは――」
同性婚が合法化された関係で、宮本と結婚することができる。しかし今ここで、そのことを口にするのは躊躇われた。付き合うだけでいっぱいいっぱいになってる、自分の危うさが痛いほどにわかっていたから。
「そんな痕をつけられるということは、陽を遊べないようにした彼女の牽制だろ。ぷらぷらせずに結婚の二文字を出して、彼女を安心させてあげたらどうだ」
(しっかり者の彼女なら、そうするだろうが、相手は天然ドМの宮本。接客業をしてるんだから、そういうのをつけるなと言った俺の言葉を忘れて、うっかりつけてしまったところか……)
「牽制というよりも、独占欲でつけられたと思う。付き合い始めたばかりだからさ」
『付き合い始めたばかり』という言葉を再度使って、初々しさをアピールした橋本の視線は、相変わらず定まらない状態だった。
見るからに微妙な表情の、らしくない息子のセリフを聞き、喜三郎は胸の前で腕を組んで、ニヤニヤしだす。
「いつもならはぐらかすくせに、おまえにしては珍しい切り返しじゃないか。これは年内に結婚があり得るかもな。あの世にいる親父も、きっと喜ぶぞ」
「父さん……」
「親父はおまえの幸せを、一番願っていたんだ。早く叶えてやりたいって思うのが筋だろう? もちろん兄弟として父親代わりとして、俺だって同じ気持ちでいる」
実家に帰ると必ずなされる結婚の話題に、正直辟易していた。大切に思われていることは、嫌というくらいにわかっているつもりだが――。
ジリリリリ♪
黒電話の音が、会話を割くように鳴り響いた。絶妙なタイミングに、橋本は心の中で電話の相手にありがとうを言いまくりながら、ポケットをまさぐった。
「悪い、仕事の電話が入った」
ディスプレイを確認すると、最近知り合ったばかりの藤田という客からだった。
彼との出逢いは、橋本が昼食を買うべく、コンビニ前にハイヤーを駐車させて、車から降り立った瞬間だった。
『誰か、ソイツを捕まえてくれ!』という悲痛な叫びを聞き、こちら側に走って来る男が橋本の目に留まった。
サングラスにマスクで顔を隠している、あからさまに怪しい男の足をひっかけようと、橋本はポケットに手を突っ込んだ通行人のフリをして、絶妙なタイミングで足を前に出してやった。
すると、男の手に持っていたアタッシェケースが吹き飛ぶ勢いで派手に転び、あまりの上出来に片手でガッツポーズをしてしまったことがきっかけで、新しい上客をゲットしたのだった。