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チャイムが鳴って、誰もが教室を出ていく。下校か、部活か、塾か、友達とどこかへか。
遥は、自分の鞄を持って立ち上がろうとした。
けれど、鞄の肩紐を掴まれる。
「どこ行くの、今日の“分”まだだろ」
振り返る間もなく、腕を引かれた。
教室の出入り口からすぐ隣、掃除用具室の扉が開く。
ちょうど人の動線から外れた位置。
中にはモップ、バケツ、雑巾の入った棚。
湿った埃のにおいと、閉じ込められた空気。
扉が閉まる音がした。
鍵はかけられていないが、開ける者はいない。
「見せろよ、さっきの顔」
「なあ、泣いてんじゃねぇの? 確認しとかなきゃ」
制服の襟が掴まれる。
腰が棚にぶつかって、鈍い音がした。
背中の下で、雑巾バケツが倒れる。
「やめろって」
遥の声はかすかだった。
しかし、それでも喉は震えていた。
「やめろ? マジで? 今さらそれ言う?」
「じゃあ、さっきのはなんだったんだよ、“触んな”って。お前が喋ったせいで、また新しい遊び増えたんだけど」
笑い声。
小さく、でも歪んだ笑いが、密室の中で壁に跳ね返る。
「お前、嫌がるのうまいよな。反応、すげぇ良い」
「ほら、力抜いて。すぐ済むから」
抵抗すれば、余計に面白がられる。
動かなければ、押し潰される。
けれど──遥は目を逸らさなかった。
震えながら、腹筋に力を入れて、歯を噛んだ。
「……楽しいか?」
誰にも聞こえないような声。
だが、確かにそこにあった。
「オレひとりで、よくそんなに盛り上がれるな」
瞬間、押さえつける手が強くなった。
返事はなかった。
代わりに、腹を殴る拳と、床に叩きつけられる膝。
視界が暗転しかけたそのとき──
掃除用具室の前を、誰かが通った気配がした。
ほんのわずか、扉の隙間から靴音。
遥は目を開けたまま、気配を感じ取っていた。
(──誰か、いた)
けれど助けは来なかった。
当然だった。
助けなんて、最初から想定していない。
その後も、数分間。
殴打と、嫌悪と、嘲りと。
汗と埃の匂いが混ざり合い、遥の中に沈殿していった。
──
後になってわかる。
そのとき通り過ぎたのは、日下部だったのだと。
何も言わず、何もしなかった。
ただ通り過ぎた。
けれど、遥の存在を、彼は確かに見ていた。