テラーノベル
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靴のまま、廊下に倒れ込みそうになる身体を、壁で支える。玄関のドアを閉めた音が、無機質に響いた。
脱ぎかけた制服のシャツには、バケツの水で染みた跡がまだ残っていた。
膝の内側、うっすらと赤い。
腹の奥に残る鈍い痛みは、今日一日で三度目のものだった。
リビングのドアは開いていた。
テレビの音。笑い声。皿の擦れる音。
家族はすでに夕食を終えていて、食卓には空になった器が並んでいた。
「──おそい」
玲央菜の声。
軽い声色なのに、いつも命令と叱責の中間にある。
遥は何も言わずに頭を下げた。
椅子に座ろうとすると、
「座るの?」
沙耶香が背後から声をかけてくる。
問いかけの形をしていて、選択肢はひとつしかない。
「いや、立ってる」
短く言って、そのままキッチンへ向かう。
食器棚の引き戸を開けようとしたとき──
「勝手に触るな、って言ってんの」
頬が弾ける音がした。
玲央菜の手だった。
乾いた音が台所に残る。
反射的に視線を落とした遥は、震える唇を歯で噛む。
なぜか、自分のせいで食器が音を立てたことが、いちばん腹立たしかった。
「どこで何してたの?」
玲央菜の声は柔らかいのに、耳の奥を刺す。
「濡れてるじゃん。もしかして、何か汚してきたの?」
「……別に」
「別に、ってなに?」
沙耶香が椅子に座ったまま、リモコンを弄りながら言う。
「そういうの、ちゃんと説明して? “家庭”で育ててあげてんだから」
“家庭”。
口にするとき、彼女はいつもそこに毒を仕込む。
玲央菜は食卓に戻って、わざとらしく溜息をついた。
「ほんと、父さんがいないと空気だるいわ」
父は遅くなる。
帰ってきたとしても、まともな会話などしない。
帰ってきたほうが地獄が濃くなる日もある。
颯馬が階段から降りてきた。
遥を見ると、ニヤリと笑う。
「またやられてんのかよ、学校でも。顔、すげぇな」
「……お前に言われたくねえ」
とっさに口をついた言葉。
だが次の瞬間、視界が傾いた。
後頭部に、何かがぶつかる音。
沙耶香がリモコンを投げたのだ。
首が壁に当たって、膝が床を打った。
「人に向かって、“言われたくねえ”とかさあ……ねえ?」
「なに、その口の利き方」
玲央菜が追いかぶさるように言ってくる。
言い返す言葉はある。
山ほどある。
だが、言えばまた、口を裂かれるように否定されるだけだと知っている。
「……風呂、入ってくる」
立ち上がり、背を向ける。
肩に砂のような痛み。
制服の中で、湿ったシャツが肌に貼りついていた。
風呂場の扉を閉めたとき、ようやく少しだけ、呼吸が通る。
湿気の中で息を吐いた。
鏡には、傷だらけの顔が映っていた。
濡れていない頬。涙は、まだ流していなかった。
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