わたしの指輪印章から発せられた強烈な光によって狼たちは目くらましを受けたのか、いっせいに襲ってくる気配もなく、むしろこちらの出方をうかがうように草の陰で息をひそめていた。
狼たちがしきりに目もとをかいているところをみると、彼らが正常な視界を取り戻すまでには少し時間がかかるかもしれない。
――いまのうちに、少しでもこの剣を使えるようにしないと……!
食い入るように短剣の刀身を見つめていると、レインがそんなわたしを心配げに見守りながら呟いた。
「……やはり海春にも女神からの剣が与えられたのだな……」
え……?
やはりって、どういうこと……?
わたしが問いかけるよりも先に、レインが前方で動きをひそめている狼の群れを見すえたまま言いつぐ。
「海春、印章使いに選ばれた者は、そのしるしとして、女神セーラの聖なる力を与えられた剣を授かるんだ。それを用いて、聖女神修道院までの苦難を乗り越えられるように……。けれど――」
そこまで言って、レインが視線を伏せる。
「……俺は、『聖女』であるおまえは女神から剣を授からないものだと思っていたんだ。おまえは俺たち騎士が命がけで守る者であって、おまえ自身が剣をとって戦うことは――おまえがそんな危険な目に遭う必要はないと思っていたからだ。それなのに……」
まるで自分自身の力不足やふがいなさを悔いるように言うレインに、わたしは当惑して、剣を持ったまま所在なげに彼を見上げる。
レインにとって、わたしが武器を持つことはよくないことだったんだろうか。
わたしなんかじゃ、まともに戦えないから……?
そう思いはじめると無力な自分が情けなくなってきて、ごめんなさい……とうなだれると、一連のやりとりを聞いていたサフィヤが首を振った。
「違う違う、海春、そうじゃない!レインが言いたかったのはそういうことじゃねぇんだ。ったく、レインは不器用だから言葉足らずなんだよな」
「――海春、レインはおまえのことを自分の力で守りたかったんだよ。おまえが、剣をとって人を斬らなくてすむように」
「え……?」
人を、斬る……?
目をまばたくわたしに、サフィヤが自分の剣を一振りして狼たちを牽制しながら言う。
「そう。武器を手にとるってことは、さっきの俺のように目の前の獣を斬ることはもちろん、自分の身を守るためとはいえ、場合によっては人を斬ることもあるかもしれない……ということだ」
「だから、たとえどんな理由があるにしろ、剣を持つのなら生あるものの命を奪う覚悟も一緒に持たなけりゃいけねぇってことだ。レインは、その重みをおまえに背負わせたくなかったんだよ」
なあレイン、と唇を持ち上げるサフィヤに、レインはそれを肯定するように目を伏せる。
……そうか。
剣を持つということは、誰かの命をこの手で奪う可能性があるということ。
自分や大切な誰かを守るために剣を振るったとしても、それが相手の命を奪うことに変わりはないんだ。
(だから、レインは――……)
わたしがその悲しい痛みと重みを背負わなくてすむように、自分が騎士として剣を持って代わりに敵を斬ってくれることで、わたしを守ってくれようとしていたのかもしれない。
レインは心が強くて、とてもやさしい人だ……。
わたしは、そんな彼に守ってもらうにふさわしい、彼の期待に応えられるような『聖女』にならなければいけないんだ。
わたしは、ぎゅっと短剣を胸に寄せると、決意を固めるように目の前のレインを見上げる。
「――……ありがとう、レイン。いつも、わたしのことを守ってくれて。わたし、またレインやみんなに心配や迷惑をかけちゃうかもしれないけど、自分にできることを精いっぱいやってみたいんです」
……まだきっとわたしは、人を傷つけることの重みも、その責任も、これっぽっちも理解できていないのかもしれない。
それでもわたしは、守られるだけじゃなくて、大切な人たちをこの手で守れるようになりたいと思う。
わたしは、短剣を握りしめてしゃんと顔を上げると、みんなの顔を見まわす。
「みんな、わたしが弱いばかりに、たくさん力を貸してくれてありがとう。みんなの言うとおり、誰かを傷つけることは、とても怖くて、悲しいけれど――それでもわたし、みんなを守るために戦いたいんです」
胸に手を当てて、自分に言い聞かせるように言ったわたしは、たしかな決意と覚悟をもってみんなに頭を下げる。
「だからわたしも、みんなと一緒に戦わせてください……!」
そうして、ぐっと頭を下ろしてみんなの反応を待っていると、最初に聞こえてきたのは、サフィヤのどこかうれしそうな笑い声だった。
「だよなあ! うちの聖女様は、俺の言葉くらいで尻込みするようなやわな女の子じゃねぇよな! おまえのそういうところ結構好きだぜ、海春!」
「え……」
「おい、サフィヤ、誤解を招くような言い方をするな!」
即座にレインがさえぎるように言って、それを受けたサフィヤがにやにやと唇を持ち上げる中、レインはそれを完全に無視してわたしに向き直る。
「海春、俺もおまえのそういう強さのあるところが、とても……その、こ、好ましいと思う。だから、剣を持つことはかまわないが、その代わり俺のそばを離れるな。約束できるな?」
わたしの顔を覗きこんでどこか気恥ずかしそうに言うレインに、わたしはこんなときなのに思わずどきどきしてしまう。
レ、レインが言いたいのは、戦うときはそばにいろってことだよね……?
なんだか別の意味にも聞こえてしまって、わたしは気を落ちつけるようにふーっと息をはくと、約束します、とレインに神妙にうなずいてみせた。
そのとき、わたしたちの周囲から、狼たちのグルルルル……、いう低い唸り声が聞こえ始めて、わたしたちはいっせいに剣を眼前に構えた。
いよいよ、狼たちの目くらましが治ってきたのかもしれない。
わたしは、自分がしゃべっていたせいで狼たちの不意をつくチャンスを逃してしまったのではないかと、鞍の前に座るレインに頭を下げる。
「ごめん、レイン……! 狼たちが……!」
「問題ない。狼たちは目つぶしを受けて動けなくなっているとはいえ、あの群れの中にやみくもに突っ込むほうが危険だ。それならば、襲いかかってきたものを迎え撃つほうがよっぽど勝算がある」
そうレインが答えた途端、狼たちが突如、森を震撼させるほどの大きな咆哮をあげた。
四方八方から次々とあがる咆え声に身をすくませていると、レインがわたしを振り向かずに鋭く言う。
「――来るぞ、海春! 構えろ!」
「は、はい……!」
わたしがうなずいて短剣を構えた途端、草陰にひそんでいた狼たちが怒りで顎を鳴らしながらいっせいに飛びだしてきた。
わたしは剣を握る手に最大限に力を込める。
――お願い、力を貸して……!
抜き身の短剣に伝えるように祈りながら、いざ戦いを前にして震えてしまう腕に必死に力を込めながら、襲いくる狼たちを迎え撃つ。
わたしは、当然ながらはじめて剣を持ったはずなのに、なぜか、体がその振り方を知っているように感じられていた。
もしかしたら、これも女神様の恩恵のひとつなのかもしれない。
――けれど。
女神様のお力によって、剣の振り方を瞬時に叩き込まれた状態とはいえ、わたしは、生き物に刃物を向けたことは、なくて……。
殺さなければわたしたちが殺されてしまう状況だと頭ではわかっているのに、獰猛に唸りながらとびかかってくる狼たちも、その狼に刃を振り下ろすことも、怖くて、怖くて、怖くて――わたしは、極度の緊張から、激しく脈打つ心臓を抑えきれずにあえぐような息を繰り返す。
――でも……!
もうわたしは、弱い自分から逃げないんだと決めた。
怖くても、逃げだしたくても、そんな自分に負けたりしないって誓ったんだ。
(だからこれは、わたしの……)
――わたし自身の、戦いだ……!
狼の一匹が軽やかに跳躍して、こちらに食らいつこうと、くわっと裂けた熱い口を大きく開く。
うねるような赤い舌と、よだれをまき散らした鋭い牙のある口が、わたしのすぐ目の前に迫る。
「――海春っ!」
「大丈夫!」
レインに短く返してから、わたしはぐっと歯を食いしばって短剣を両手で振りかぶり、とびかかってきた狼の目もとを狙って力のかぎり振り下ろした。
(――――!)
斬りつけた瞬間、刃が肉を切り裂いた鈍い感覚が腕にはしって、息のつまるような思いがする。
思わず目を閉じたくなってしまうけれど、ここで目をそむけてはいけないんだ。
わたしが斬り飛ばした狼は、眉間から鮮血を噴きだしながら、全身の毛並を真っ赤に染めて地面に叩きつけられる。
すぐさまその死骸を仲間たちが裂き、そして踏みつけて、次の狼たちが怒りの唸り声をあげた。
はあ、はあ、はあ、とわたしは肩で激しく息をしながら、はじめて生き物の命を奪ったという冷たい衝撃を受けて、手先がいっきに冷えていく。
なにかを守るために剣を振るうということは、なんて、重いことなんだろう……。
震える切っ先を定めようと必死に短剣を握り直すわたしに、すぐ目の前で狼たちを次々と斬り伏せていたレインが少しだけ後ろを振り向いて、柄を握るわたしの手にそっと自分の手を添えた。
「――海春、大丈夫だ。すべての責任をひとりで負おうとして、自分を追い込んではいけない。おまえは、ひとりで戦っているわけではないのだから」
「あ……」
はっと気づいたように目を 瞠(みは)るわたしに、レインがうなずいてみせる。
「そうだ。おまえには、俺たち仲間がついている。ともに戦う仲間がいると思えば、心が折れそうになっても踏んばって頑張れるだろう?」
レインのおかげで冷静になって周りを見渡してみると、サフィヤや護衛の二人の剣が閃くように輝き、群がってくる狼たちを目にも留まらぬ速さで切り結んでいた。
彼らの足もとには、狼たちのこと切れた遺骸がいくつも折り重なっている。
(みんな、強い……!)
なんて……なんて心強いんだろう。
――そうだ、わたしはひとりで戦っているわけじゃない。
みんなが一緒に戦ってくれるのだから、みんなから勇気と力をわけてもらって、ちゃんと前を向いて戦い続けるんだ。
そう思った矢先だった。
一瞬のうちにわたしの背中側の木に這いのぼった一匹の狼が、突如、わたしの後ろをとったことを知らせるように、勝ち誇ったような大きな咆哮をあげたのだ。
(え――――……)
不意をつかれたわたしは、背中が一気に冷える思いで目を見開く。
弾かれるように後ろを振り返ったそのとき――牙をむきだしにした狼が、やにわに頭上からわたしに向かって飛びかかってきたのだ……!
―つづく―