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#胸キュン
ゆき
58
男は環をおぶったまま、神社の石段を一段一段踏みしめている。
「……すみません」
環は言葉少なく恐縮した。
下りの石段、下手に気を散らしては危ないだろうと思いつつも、環は何か言わなければ流れる静寂に押しつぶされそうになっている。
男は、特に何も言わない。石段を降りることに集中しているようだった。
人をおぶって歩くことも大変なのに、それが下りの石段となるとなおさらだろう。そして、おぶさるのは、子供ではなく大人。
環は、申し訳なく思いながらも、見知らぬ男と触れ合っていることにどぎまぎしていた。
ほんのり軍服越しに、男の体温が伝わってくる。
息遣いも一緒に流れてくる。やはり少し乱れていた。
環は申し訳なく思いつつも、恥ずかしさからできるだけ男の背中に密着しない様にした。
「ああ、気を遣わなくて結構。もっともたれかかってください。その方が、こちらも楽なんです」
「あっ……」
返答しながら、環の顔はかっと火照った。
やはり、触れ合うのには抵抗がある。
「あ、あの……」
間が持たなくなり、環はつい男に話しかけていた。
「……どうして、ここまでご親切に……」
「お困りでしたから」
でも、おぶってまで石段を下るまでしなくても──。
「……いや、後悔したくなかった……からかもしれません」
男が、ポツリと言った。
「後悔……ですか」
「ええ、できる事は行っておきたいんです」
何か決意のようなものが見え隠れする口ぶりだった。
「……出兵するのです」
思わぬ男の言葉に環は息を詰まらせる。
近頃、日本がシベリアへ派兵したという話は環も知っていた。だが、どこか他人事だったのに、まさか、身近で、しかも背負われて聞かされるとは思ってもみなかった。
「出兵するのですか」
環の言葉に、男はすぐには答えない。ただ、少しだけ足を止める。
「……ええ」
短く、それだけだった。
再び歩き出す。
石段を降りる足音だけが続いた。
「さあ、もう少し」
石段を下り終わり、男は、環に言い聞かす様に発した。
その肩越しに、人力車が見えた。
車夫がしゃがみこんで休んでいたがこちらに気がついたようで、慌てて立ち上がる。
「あ、あの、でも、お乗りになられていたものですよね?私が乗ってしまったら……」
「ははは、気にしないでください。歩けば良いだけです」
男が笑ったことにそれが思いの外朗らかだったことに、環はドキリとする。
その笑顔は、環が軍人に抱いていた堅い印象を、あっさり覆した
そして、出兵という事実の後だけに環はどう返せば良いのか分からない。
戸惑う環のことなどお構い無しで、よいしょと、小さな掛け声と共に、男は人力車の前で再びしゃがみ込む。
「さあ、降りてください」
環は、慌てて背から離れた。恥ずかしかった事が終わったにもかかわらず、どこか、名残惜しさが残る。
一方、男は車夫に事情を話し、環を送って行ってくれと頼んでいた。
続いて、「これで」と代金を渡している。
「あの!それは!」
流石にそこまでは困る。
止める環に男は微笑む。
逆光で表情はよく見えない。それでも、その笑みだけは不思議と清々しく見えた。
環は思わず目を細める。
何かが眩しく感じられたからだ。
日の光がそうさせたのか。環には分からなかった。
ガクンと人力車が揺れ、環を乗せて動き出す。
(お別れだ……)
とっさに環は叫んでいた。
「あの、どうかご武運を!」
「ありがとう」
言うと男は環に敬礼した。少し照れくさそうに笑いながら。
コメント
1件
先ほど第2話を読み終えました。 男が環をおぶって石段を下りる場面、すごく丁寧に描かれていて距離感がじんわり伝わってきました。 「後悔したくなかった」という台詞と、出兵を背負う男の優しさが重なって、最後の「ご武運を」でぐっと来ました。 時代設定の香りも自然で、続きが早く読みたいです。