テラーノベル
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棪堂哉真斗(α)+焚石矢(α) ×桜遥(Ω)
雰囲気オメガバース設定。
(複数人のαが同時にΩを噛むことで、複数人と番うことができる特殊設定あり)
六方一座vs.GRAVELの抗争後。
棪堂が実は桜と顔見知りだったifストーリー。
成田しずかを巡る六方一座とGRAVELの抗争は椿野と硯の一騎打ちひいては和解を経て、終結した。怪我人も多く心身ともに傷付いた者も多数出たが、歓楽街に大きな被害はなく生死につながる怪我人も出なかったのは不幸中の幸いと言えるだろう。
GRAVELの面々が自分達を変えることを望み、そのために椿野と中村幹路の手を取ったことがこの抗争で何よりも大きな意味を持つ。変わりたいと願う気持ちを口にすること、そしてその気持ちを信じて支えること。双方の強い意志によってこの抗争は幕引きとなった。
しずかさんへの謝罪と決意表明を口にした硯さんを受け入れるように椿野さんと中村さんが微笑む。俺の隣でその一連の流れを見ていた蘇枋さんと桜さんも黙って、硯さんの誠意ある言葉を聞いていた。
すると、中村さんが覚悟を決めた硯さんに向かって心配するような表情で声をかけた。
「それにしてもお前は大丈夫なのか。話しぶりだとしずかを攫うように依頼してきたヤツがいるんだろう」
その言葉に先程まで安堵の顔を浮かべていたGRAVELのメンバーがざわつき始めた。
その顔色は青白く「やっぱりまずいよな…」「報復されるだけじゃすまねぇよ」と何やら不安げな雰囲気が漂っていた。
その空気感を察したのか、硯さんは仲間達を安心させるように芯の通った声で「大丈夫だ」と言い放った。
「俺がなんとか話をつけてみる」
「話ねぇ………」
硯さんの台詞に続いて、何処からか嘲るような声が辺りに響き、俺たちは瞬時にその声が発せられた方向へとバッと身体を向ける。
すると、そこには抗争現場の真横に聳え立つ建物の屋上からこちらを見下す影が一つ揺らいでいた。
「負けたヤツの話なんて誰が聞くんだよ。中途半端な仕事しやがって…本当オレ人を見る目ねぇなぁ…」
影の正体は一人の大柄の男だった。
黒のタンクトップから覗く腕や首には無数のタトゥーが彫られており、癖っ毛のある黒髪が夕暮れどきの秋風によって靡いていた。
そして、ニッと笑った拍子に開かれた双眼からはギラリと翡翠色の眼球がこちらを覗いていた。
その男の雰囲気は明らかに異端で、椿野さんや中村さん、蘇枋さんは瞬時に臨戦体制を取り、一歩前に出て戦う構えをしてみせた。
「なんでアンタがここいるのよ…棪堂。いえ、愚問だったわね…このタイミングで姿を見せるってことはこの事件の黒幕はアンタってことね」
椿野さんは硯さんの表情を確認すると、棪堂と呼んだ男を睨みつけてそう言い放った。
______この事件の黒幕。
つまりこの男がしずかさんを攫うようにGRAVELに依頼を流した人物ということだ。
平和的に抗争が終結した今、何故その黒幕が現場に姿を現したのか。
それはおそらくGRAVELのメンバーが気にしていたように、依頼に失敗した挙句に敵に寝返ったGRAVELへの報復をしにきたのだろうか。その場にいる誰しもが棪堂という男が現場にやってきた意図をそう解釈した。
けれども、たった一人だけ報復以外の理由で棪堂が姿を現したことに強い確信を持った人がいた。
それは蘇枋さんと同じように俺を庇うようにして両手で拳を構えている桜さんだった。
その横顔は血の気が引いたように青褪めており、拳を握る手は僅かだが震えていた。
そして、桜さんは近距離にいる俺や蘇枋さんに聞こえるか聞こえないかの小さな声で「なんで…」と言葉を漏らした。
______そこにあったのは明白な恐れ。
こちらを見下ろしている棪堂に対して、桜さんが恐怖を感じているのは明らかだった。
強者に自ら飛びかかり、危険を顧みずに応戦するあの桜さんがこんなにも怯えるなんて、何かがおかしい。そんな桜さんの異変に隣にいた蘇枋さんも気づいたのか「桜くん…?」と声をかける。
そして、さらにおかしなことに棪堂と呼ばれた男は自分の依頼を反故にした硯さんや旧知の間柄であろう椿野さんには目もくれず、ただ真っ直ぐ俺たちを三人を見ていた。いや、正確には三人のうちの桜さんだけをその蛇のような鋭い瞳に映していた。
「……椿野さん、あの男は一体誰なんですか」
沈黙を破ったのは蘇枋さんだった。
そして、椿野さんがギリッと奥歯を噛み締めるようにしてその問いに応える。
「アイツは…あたしと同じ世代の元風鈴生…棪堂哉真斗。蘇枋、桜…アンタたち絶対に手出すんじゃないわよ」
椿野さんから発せられた男の名前に、桜さんがビクリと身体を震わせたのを俺も蘇枋さんも感じ取った。
元風鈴生の棪堂哉真斗。
この地区の人間でその名前を知らない人はいない。
風鈴の伝説と呼ばれた男。
蘇枋さんもその名前に聞き覚えがあるのか、妙に納得したような顔をしていた。
そんな会話が繰り広げられようとも、相変わらず棪堂は桜さんの姿だけを凝視していた。そして、なにやら今の状況を自分なりに考察し終えたのか、棪堂はニコッと不気味な笑みを浮かべて笑い声をあげた。
「ははっ、今夜は最高の気分だぁ…本来なら仕事もロクなできねぇゴミ共を殺そうかと思ってきたんだがな…これは最高の収穫だ」
棪堂の狂気に満ちた笑みと周囲に漂う殺気に空気がピリつく。
そんな不気味さに耐えられなくなったのか、椿野さんがガッと前に出て、棪堂に向かって声を張り上げた。
「相変わらず意味わかんない野郎ね、アンタの目的は一体何!?これ以上街を荒らすつもりなら容赦しないわよッ!!」
「そんなカッカすんなよ、椿。オレは今すげぇ気分がいいんだからよぉ…」
棪堂はニィっと口を三日月のようにして笑うと、こちらを見下ろすように佇んでいた建物の屋上からその身を落とし、勢いよくアスファルトの地面に着地した。いきなり近づいてきた狂犬を前に、先頭に立っている椿野さん、中村さんは再び警戒心を改める。
そんなことにもお構いなしなのか、棪堂は着地後、何事もなかったようにスタスタと軽い足取りでこちらに向かってきた。
「実はなぁ…半年前に飼い猫が逃げ出しんだわ。真っ黒の首輪をつけた白と黒のツートンカラーの仔猫でな、ずっと探してたんだよ」
棪堂は椿野さんも中村さんも無視して、こちらに向かってやってくる。
狂犬がジリジリと迫り来る感覚に俺は思わず腰が抜けてしまい、その場にへたり込んだ。
そして、先程棪堂の名前を聞いてから固まったまま動かなくなっている桜さんの前に棪堂は立っていた。
「さーくーらっ、オレも焚石もずっと探してたんだぞ♡」
「………………」
「お前が逃げたときの焚石の暴れようは今思い出すだけでも鳥肌もんだぜ。まぁオレもブチ切れてたけどな」
桜さんは蛇に身体を這われたように、ガタガタと震えて動けずにいた。そして、そんな怯える桜さんの首元を守るように装着されていた黒のチョーカーを棪堂は可笑しそうに笑って撫でる。
「こんな紛いモンの飾りまでつけて…お前は本当に可愛いなぁ…今更首を守ったところで何も意味なんてねぇのによ」
「やっ、やだ、離せッ、触るなっ」
桜さんは棪堂の腕を払おうとするも、完全にその動きを読み切ってきた棪堂は桜さんの反撃をスッと躱すと、腕を払う動作のために一瞬無防備になった隙をついて桜さんの身体を抱きしめた。
「あぁー……桜の匂いだぁ。まさかお前が逃げ込んだ先が風鈴だったとは盲点だったよ。
でも残念だったなぁ、もう家出はこれで終いだ」
棪堂は桜さんの首筋に顔を埋めると、チョーカーで守られた頸に舌を這わせる。ちゅっちゅっと肌を吸う音が聞こえて、桜さんのくぐもった苦しそうな声が響く。
「やだっ、んっ、やめ、ろっ、あっ」
「桜……オレの可愛いオメガ」
こんな不快な状況を前にしても俺たちは誰も動けずにいた。
大好きな人が、憧れの人が、辱められている。
その事実には頭が沸騰しそうなほどの怒りがあった。しかし、現実では指先一本も動かせなかった。
何故ならば、辺りには棪堂が発する威圧がまるで牽制するかのように張り巡らされ、ベータの俺さえもあまりの息苦しさで窒息しそうだった。
桜さんも棪堂の圧に当てられているのか、抵抗という抵抗もできずに棪堂の胸の中に囚われている。
「桜、一緒に帰ろうな。もうお前が逃げ出そうなんて思わないように家でまたたっぷり躾けてやるからなぁ」
棪堂が桜さんの身体を抱き抱えようとしたその時、鋭い蹴りと拳が棪堂目掛けて飛び込んできた。
「あーしの可愛い後輩どうするつもりよッ!!!この外道がッ!!」
「桜くんはうちの大事な級長なんで、連れて行かせませんよ」
反撃に出たのは、椿野さんと蘇枋さんだった。二人のバース性は棪堂と同じアルファなのだろう。故にどれだけ強力な牽制をされても他の人間よりは動ける。
棪堂は二人からの怒涛の反撃をヒラヒラと躱しながら、深手を食らわないように後ろへと下がった。
そして、二人の反撃によって棪堂から解放された桜さんは苦しそうな声をあげて、その場に倒れ込む。
俺は慌てて地面に崩れそうになる桜さんの身体を抱き止めてその場にしゃがみ込んだ。
棪堂が離れたことで落ち着きを取り戻したのか、肺に空気を送り込むために必死に呼吸をする桜さんの背中を摩り、戦況を見渡す。
棪堂と椿野さんと蘇枋さん。
互いに一歩も引く気はないようで、緊迫した空気が辺りを支配していた。このまま戦争が巻き起こっても不思議はない。
俺と同様に戦況を傍観していた六方一座やGRAVELの面々も誰が始めに動くか固唾を飲んで見守っていた。
結果として先に動いたのは棪堂だった。
だが、棪堂は椿野さんや蘇枋さんに殴りかかるわけでもなく、その場で両手をバッと挙げて声を上げた。
「わぁーった、そんなに睨むなよ。不本意だがお前らにはオレの仔猫が世話になったみたいだしな、今日はこのくらいにしといてやる。今日は桜の居場所がわかっただけでも大収穫だ」
「……あらそう、なら金輪際あたしたち風鈴にも桜にも近寄らないって誓ってもらえるかしら」
「はぁ?風鈴はともかく桜はオレの飼い猫だ。もちろん日を改めて迎えにくるぜ」
「桜くんはもう風鈴で自由な地域猫やってるので、ちょっかいかけないでくれませんか?」
「はっ、地域猫ねぇ……桜のことを思えば手を引くべきなのはお前らだ。番と離れ離れなオメガほど可哀想なモンはねぇだろ?」
棪堂の口から発せられた「番」という言葉に椿野さん、蘇枋さん、そして桜さんが反応を示す。
確かに桜さんの第二の性はオメガだ。
これは本人から聞いた話で、実際に桜さんはアルファ対策として首筋を守るチョーカーを転校初日からつけていた。チョーカーの機能はオメガのフェロモンに当てられたアルファから無理やり番にさせられるのを防ぐため。つまり、チョーカーをしているオメガには番はいない。何故ならば正式な手順で双方が認める相手と番になった場合、オメガのフェロモンは番となった相手のみに効果を発揮し、他のアルファに襲われる心配はないからだ。
だから僕たちは転校初日からチョーカーで首を守る桜さんには番がいないと思い込んでいた。
「そんな紛いモンの首輪で頸を隠したところで、オレと焚石と番った現実は変わらねぇのに。現実から目を逸らすんじゃねぇよ」
棪堂は舐め回すように桜さんの身体を見つめた。それに対して、桜さんは両手で自分の身体を抱き締めるようにして必死に震えを抑えていた。
「桜、近々迎えにくるから、それまでにオトモダチにはさよならしておけよ」
「い、嫌だっ、俺はもう…お前らのとこには…戻らないッ」
「そんな意地悪言うなよ、桜。オメガは本能には逆らえねぇ…現に今のお前は今すぐにオレに抱かれたくて仕方ねぇってツラしてるくせによ」
棪堂の吐く呪いの言葉に桜さんは歯を食いしばってただ俯くだけだった。
「それじゃあ今日のところはこの辺でお暇するわ…またな、桜」
棪堂はにっこりと胡散臭い笑みを浮かべると、右手をヒラヒラと振って煌びやかに飾られた歓楽街の奥へと消えていく。
そして、棪堂の醸す威圧的な空気感から解放された途端に椿野さんと蘇芳さんがその場にへたり込んだままの桜さんに駆け寄った。
「……二人とも悪いな、手間かけさせて」
「なに言ってるんだい、桜くん。頼ってもらえる方が俺としては嬉しいよ」
「そうですよ!俺たちはいつでも桜さんの味方ですからねっ、桜さんは俺たちが守ります!」
あと男の放つアルファ特有の重圧から解放された俺は楡井と蘇枋に支えられて、地面から立ち上がった。
二人の声色と表情からは心の底から俺のことを心配してくれていることが伝わってくる。
コイツらも聞きたいことや言いたいことはたくさんあるだろうに、問いただすことなどせず、親愛を向けて接してくれる。
二人の優しさに触れると、自分が今この場に、風鈴生の一人として立っていることを、これまで防風鈴として胸を張って生きてきた現実を実感できる。
そして、それと同時に最悪の再会を果たしたあの男、棪堂の言葉が脳裏で再生される。
「またな、桜」と愉悦に満ちた表情で笑った棪堂が、忘れ去りたいあの過去が、再び俺を蝕んでくる。
俺が呆然と棪堂の立ち去った方角を眺めていると、何かを察したのか、蘇枋と楡が俺の顔を覗き込んできた。
「桜くん、今日はアパートに帰らないほうがいい。俺の家で良ければ泊まってほしいな。君のアパートはあまりにもセキュリティが心配だからね」
「そうですよ!あの家だといつ襲撃されてもおかしくないですッ、俺の家も大歓迎なんでうちでもいいですよっ」
そう言って誘ってくれた二人。
本来ならばここで素直に頷き、誰かの家に数日間身を寄せることが最善なのだろう。
けれども、俺は次に取る選択肢を棪堂に再会したあの瞬間に決めていた。
「いや、今日のところは適当にネットカフェにでも泊まるわ。お前らも色々聞きたいことあるだろうけど…今は一人になりたいんだ」
確かに誰かの家で世話になる方が、一人で家にいるよりは数十倍安全だろう。
けれども周囲はどうなる。
棪堂に居場所を知られた今、あの男ならば俺が拠り所にする場所を一つ一つ破壊していくに違いない。大事な仲間やその周囲に危害が加えられる可能性が高まる。そんなリスクの高い選択肢は選べない。それならば、俺が一人で遠くに逃げたほうが賢明だ。
しばらく学校には顔を出せないだろうが、ほとぼりが冷めるまで今は一刻も早くこの街から去りたい。やっと手に入れた居心地の良いこの街を俺が原因で汚すわけにはいけないんだ。
俺が真っ直ぐに楡と蘇枋を見つめると、二人は俺の決意が固いことを悟ったのか、それ以上の提案をしてこなかった。
その代わりに「何かあったらすぐに連絡してね」「どんな些細なことでもですよ!」と強く念押しをしてくれた。
その後、椿野にもアンタを一人にさせられない。梅も呼んでるから、今夜は自分たちと一緒に過ごしてくれ。これからのことも話し合いたいと強く懇願されたが、俺はその申し出を断った。俺の問題に風鈴を巻き込むわけにはいかない。
俺は「話なら明日以降で頼む。俺は平気だから」と落ち着きのない椿野を諭し、梅宮が到着する前に逃げるようにして歓楽街から立ち去った。椿野も最後には俺の気持ちを汲んでくれたのか、楡と蘇枋と並んで不安げな顔をしながらも俺の背中を見送ってくれた。
そう、これでいいんだ。
誰かに頼ることよりも、風鈴に留まって打開策を考えることよりも、今は一刻も早くこの場から立ち去りたい。
棪堂の手から逃れられるように、少しでも遠くに逃げなければならない。
そうした焦りから俺は走り続けていた。
アパートにはもう帰らない。
少なくとも今の状況では到底帰れない。
ひたすらに走る俺の足が目指していたのはここから一番近い最寄り駅だった。適当な電車に飛び乗って、当てが無かろうともひたすら遠くにいきたい。
あの入れ墨だらけの腕にもう一度囚われたら、もう二度と逃げ出せない。
そう本能が訴えていた。
半年前、俺は棪堂の元から逃げ出した。
彼奴と出会ったのはほんの偶然で、裏路地でゴロツキ相手に喧嘩をしていた俺の前にあの男が突如現れたのだ。
複数人のゴロツキを殴り飛ばし、たった一人地面に君臨する俺を見て、あの男は顔を紅潮させて近づいてきた。
「お前、さいっこうだなぁ…すげぇ唆るわ。しかもこの匂い…野良のオメガを出会えるなんて今日の俺は本当にツイてるなぁ」
そんな気色の悪いことを言って距離を詰めてくる棪堂に俺は嫌悪の思いを込めて、蹴りを食らわせてやろうと踏み込んだ。
地面でへばってるゴロツキたちも俺がオメガであることを知ると、下衆めいた不細工なツラを引っ提げて俺に迫ってきた。
オメガである俺を弱者と決めつけ、搾取しようとする人間。俺はそういうクズが大嫌いだった。
今思えばあの瞬間、棪堂の姿を視認したときにあの場から逃げ出せば良かったのだ。無闇に奴の懐に入らなければ、俺が奴に執着されることも、ここまで苦しむこともなかった。
なんて今更過去のことを悔やんでも虚しくなるだけだと頭では理解している。
だが、そのことを後悔しなかった日はこの日以降一日もない。
俺の蹴りが棪堂の顔面まで数センチに迫ったところで異変が起きたのだ。
まるで心臓を手で掴まれたかのような鋭い衝撃が俺の全身を駆け巡り、俺はそのまま床にへたり込んでしまった。身体は一瞬にして鉛のように重くなり、じわじわと体温が高まる感覚に俺の脳は危険信号を出していた。
今自分の目の前にいる男は絶対的強者であり、逆らうことは許されない。
視界がぐにゃりと歪んで、息をすることさえも苦しかった。脳内がクラクラして指先すらも動かせなかった。
「おー…すげぇ良い匂い。マジでとんだ拾いモンだな。てか、アルファ相手にこんな一直線で突っ込んでくるとか馬鹿だなぁ」
棪堂は目の前でへたり込んだ俺の身体を抱き抱えると、すんすんと首筋に顔を埋めて人の匂いを堪能していた。
不快なはずなのに拒絶ができない。
今すぐにでも殴り飛ばしたいのに、触れられた部分が熱くて熱くてたまらない。
これまでもアルファ相手に喧嘩をしたことは何回もあった。だが、ここまで頭が狂わされるのは初めてのことで思考が一切追いつかなかった。
棪堂は意識が朦朧とした俺を抱き上げると、鼻歌を口ずさみながら裏路地を後にした。
____そこからは地獄の始まりだった。
次に意識が回復した際には見知らぬベッドの上で、強制的に身体を暴かれていた。俺に覆いかぶさってニヤニヤと気色の悪い笑顔を浮かべ、容赦なく腰を打ちつけてくる棪堂への殺意と恐怖は尋常ではなかった。
絶対に殺してやる、口から漏れる喘ぎ声を必死に抑えながら棪堂を睨みつけると、奴はそんな俺を嘲笑するかのように笑みを深め、「お前は本当に可愛いなぁ」と囁いてから俺の口を無理矢理塞いだ。
その後、棪堂に犯されている俺の前に焚石矢という男が現れた。
二人は共に住んでいるようで、帰宅した焚石は無我夢中で腰を振る同居人には目もくれずグチャグチャに溶かされた俺のことを黙って凝視していた。
棪堂とは違うまた別のアルファ。
明らかに二人はその辺にいる他のアルファとは違った。
焚石は棪堂以上に何を考えているやつか理解できなかったが、気づけば俺は棪堂と焚石に交互に抱かれていた。
一晩中休む間も無く、繰り返される情交に俺の心と身体はおかしくなった。
アルファに求められることが嬉しくてたまらない。
ずっとずっと触っていてほしい。
自分の頸に消えない愛の証を刻んでほしい。
自分の意思とは別にオメガとしての本能が心からそう望み、俺は奴らに揺さぶられながら、無意識に「噛んで」と口走ってしまった。
アルファはオメガからの懇願を無視できない。二人は薄ら笑いを浮かべ、半分ずつ俺を抱きすくめると左右から同時に俺の首筋に噛みついた。
その日から俺は棪堂と焚石の番になった。二人に求められるまま、毎晩のように身体を重ねて欲に溺れていった。
二人から囁かれる言葉や与えられる刺激をどれだけ心が拒絶しても、オメガとしての本能と躾けられた身体は従順に従ってしまう。 悪夢のような毎日だった。
しかしながら、奴らの家に監禁されて半年後、唐突に俺に転機が現れた。
いつも通りの激しい交わり合いの後、熱に惚けた棪堂が部屋を出ていったときに俺は気がついた。普段棪堂が肌身離さず持ち歩いている俺を拘束するための手錠の鍵がベッドの下に落ちていることに。
セックスに夢中で落としたことさえも気づいていないのだろう。
棪堂が部屋に戻ってくる気配はなく、俺は暗闇に差し込んだ一筋の光を掴むかのように、床に放置された銀色の鍵に手を伸ばした。
そこからは生きた心地がしなかった。
棪堂は俺を抱き潰したことに満足したのか、そのまま外に出て行ったし、焚石もその日はまだ帰っていなかった。
俺は家の中に人間の気配がないことを再三確認してから、脱兎の如くスピードでその場から逃げ出した。靴や上着も持たずに、床に落ちていたパーカーだけを身に纏い、裸足のまま街を駆け抜けた。
そのときも今と同じように少しでも遠くに、アイツらの手が届かない場所に逃げようと必死に足を動かしていた。
そして逃げ出した俺が見つけた安息の地。
それこそが風鈴だった。
俺のような奇怪な見た目をしたオメガを仲間といって分け隔てなく受け入れてくれた、俺の大切な居場所。
_____失いたくない。
__________手放したくない。
だからこそ今は距離を取る必要がある。
彼奴らに俺が大切にしているものを知られてはいけない。知られれば必ず壊される。
あの男たちは自分以外に俺に拠り所があることを絶対に許さない。
俺はひたすらに走っていた。
この路地をあと百メートルも直進すれば、確か地下鉄が見えてくるはずだ。
電車に飛び乗って、どこか遠くの土地に行って頭を冷静にしたい。
けれども、この世は俺にとって残酷で非情なものだった。
ゾクリと背筋に悪寒が走った次の瞬間、路地の影からスッと姿を表した人物を前に俺は足を止めた。
いや正確には止まらざるを得なかった。
「………桜ぁ」
そこにはへらりと笑って手招きをしてくる棪堂の姿があった。
「なっ、なんで……」
「俺がお前を見つけて素直に手ぶらで帰ると思ったのか?」
「………ッ、俺はお前のとこには帰らねぇ、この腐れ外道が!!」
「はぁー…あんだけ従順に躾けてやったのに少し離れただけでもう反抗期か?まぁその分、また愉しめるからそれもいいか…」
棪堂は何やら胸糞の悪い想像をしているのか、頬を赤らめた顔でうんうんと首を縦に振って唸る。
俺はその隙にこの絶望的状況の突破口を必死に考えた。狭く薄暗いこの路地では第三者の助けは期待できない。仮に助けを呼べたとしても、あの棪堂に対抗できる勢力はこの世界で皆無に等しい。
ではやはり自分の足で来た道を逆走するしかないか。大通りまで出て人混みに紛れれば、此奴を撒けるかもしれない。
俺はチラリと自身の背後に視線を向けて退路を確認する。
すると、俺の思惑に勘づいたのか、棪堂は躊躇うことなく一歩、そしてまた一歩と俺の元へと近づいてくる。俺は棪堂が近づくたびに、無意識に一歩ずつ後ろに後退っていた。
これ以上近づかれるとまずい。
また棪堂の醸すアルファ特有の圧に飲まれたら、今度こそ俺はこの場から一歩も動けなくなってしまう。
ここは一か八か、背中を向けてこの路地を駆け抜けた方が賢明なのではないか。
そう判断しかけたそのとき、棪堂はニヤリと口角を上げ、俺が最も恐れていた言葉を口にした。
「お前が俺たちから是が非でも逃げたいって言うなら俺は止めねぇぜ。逃げるなら追い詰めるだけだ。お前が逃げ込める場所を全部壊してやる」
「なっ!!周りの奴らは関係ねぇだろうがッ!!」
「十分あんだろ。何が風鈴の地域猫だ。人の飼い猫を勝手に手懐けたつもりか?お前が俺たちから離れようっていうなら、お前の居場所ってやつを片っ端から壊せばいいだけだろ」
「……俺はテメェらに飼われた覚えはねぇよ」
「ハハっ、最初はどうしてやろうか。あの腰抜かしてへたり込んでた金髪の餓鬼を殺してやろうか。それとも騎士気取りの眼帯野郎を再起不能にするか。街に放火するっていうのも派手で愉しいだろうなぁ」
「………………っ……」
「桜、全部お前が悪いんだからな。お前が俺の元に戻らねぇからオトモダチは大怪我をして、風鈴も街も全部がボロボロになるんだ。お前一人の所為でみんなが不幸になるんだ」
棪堂の言葉は呪禁のようにじわじわと俺の心と身体を蝕んでいく。
この男の言葉は脅しやハッタリなんかじゃない。
俺は半年間此奴と焚石の支配下で、奴らの人間性が如何に破綻しているかを嫌というほど思い知った。此奴なら風鈴生に致命傷を負わせることも、街の住人を傷つけることも平気でやってのける。
怒りと恐怖で身体が震えた。
___俺に残された選択肢は二つ。
自分を受け入れてくれた風鈴や街のみんなを見捨てて、この場から逃げ出すこと。
そしてもう一つは差し出された棪堂の手を掴み、求められるがまま番としてのオメガとしての役目を全うすること。
選択肢なんてあってないようなものだった。
俺は全てを諦めるように身体の力を抜いた。
今の俺には棪堂に反撃することも、棪堂から逃げ出すことも許されない。
大丈夫、ただ戻るだけだ、あの地獄のような日常に。俺が耐えればいいだけなのだから。
俺は後退る足をどうにか固定し、唇を噛み締めて棪堂を見た。
「………わかった。逃げない、どこにも逃げねぇから…誰にも手を出さないでくれ…」
「うんうん、そうだなー…それがいい。オレも別に他の奴に構いたいわけじゃねぇからよ。お前さえいればそれでいいんだ、桜ぁ」
棪堂は俺の選んだ応えに満足げに微笑み、逃亡を放棄した俺を正面からギュッと抱き締める。伸びてきた棪堂の腕に無抵抗のまま囚われた俺は一気に強まる棪堂からのアルファ特有の重圧に顔を歪めた。
触れられた箇所が熱を浴びて、脳が溶けていく感覚に襲われる。
怖いはずなのに、嫌いなはずなのに、棪堂に触れられて嬉しいと感じてしまう、自分の身体が憎らしい。
オメガの本能に支配されるとき、自分が自分ではなくなることが恨めしくてたまらない。
「さーくらっ、ほら顔上げろ…お前の可愛い顔をオレによく見せてくれ」
「んっ…」
「そうそう…良い子だな、桜ぁ」
言われるがまま顔を上げると、即座に棪堂は俺の唇に噛みついた。半年ぶりに交わされるキスは荒々しく、それでいて蕩けるように気持ち良い。
舌を絡め合い、求められるものに必死に応えようと俺は棪堂に身を委ねた。
「帰ったら一緒に気持ち良いことたくさんしような、お前がオレから離れようと二度と思わないように、たくさんハメてやるからな…」
その日、街から猫が消えた。
白と黒のツートンカラーの仔猫はもうどこにもいない。
桜遥(Ω)
首元をチョーカーで隠している。
第二の性に縛られることに辟易としていおり、その手の差別や批判を酷く嫌っている。一年前、裏路地でチンピラと喧嘩をしていたところを棪堂に魅入られ、対峙した後に棪堂の隠れ家に連れ去られた。その際に棪堂と焚石によって強制的に頸を噛まれて番にされた。それから半年間、毎晩のように二人に無理矢理身体を繋げられ、精神が壊れかけていたが、隙を見て逃亡。その後、二人から逃れるために風鈴に転校する。
棪堂哉真斗(α)
暴力と血を愛する快楽主義者。番制度に興味はなかったが、実際に桜を前にして際には絶対に逃したくないと感じ本能のままに頸を噛んだ。桜が逃げ出したときは怒りや殺意に飲まれて破壊行動を繰り返していた。
将来的には桜を孕ませて永遠に自分の手元に置くことを考えている。
焚石(α)
今回出番なし。他人に一切興味がないものの、桜を初めて見た際に所有欲が暴走し、棪堂が桜を犯しているところに乱入した。桜が逃げたと知ったときは逃げるきっかけとなった棪堂を一度半殺しにしている。
桜の発情時には丸一日休みなく犯すのが日課。
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