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薬の出所を探るために
ソーレンは会場を後にした。
形の上では
主の命を受けて
妻を追ってレストルームへ向かう護衛──
そう見えるよう
周到に段取りされた退出である。
アラインは
その広い背中が
重厚な扉の向こうに消えていくのを
わずかに顎を傾けて見送った。
視線が扉から離れるまでに
ほとんど一拍も置かない。
蛇がとぐろを巻き直すよりも自然な動作で
彼の意識はすでに別の獲物へと滑っている。
クリスタルのシャンデリアが
天井から星座のように吊り下がっていた。
幾百という切子に反射した光が
会場の隅々まで薄く降り注ぎ
白磁の肌や宝石の面に細かな光条を描き出す
弦楽四重奏が奏でる緩やかな旋律が
グラスの触れ合う澄んだ音と重なり──
ここが〝医療チャリティー〟と銘打たれた
人身売買の闇市場であるなどと
誰が一瞥で見抜けるだろうか。
アラインは、ステムを摘まんだグラスを
指先で軽く回した。
深紅の液体が
ランプの光を受けてゆっくりと渦を巻く。
細く伸びた脚線のように
ワインが硝子の内側を滑り落ちていく様を
ひどく楽しそうに眺めた後──
彼は一口だけ、舌に乗せるように含む。
(⋯⋯ふむ)
瞼が、わずかに伏せられる。
唇の端は微笑の形を崩さないまま
味覚だけが鋭敏に働いている。
(最近市場を賑わせている〝アレ〟で
間違いないね。
けれど、この配合は──
ボクの手帳には載っていない。
既知のレシピに
〝悪趣味なひと手間〟を加えた香りだ)
甘さがある。
砂糖のそれでも、熟れた果実の甘露でもない。
舌で解けないまま
喉の奥に薄膜のように貼り付く甘さ。
それは、たとえば──
(絶望の後味、ってやつかな)
アラインの目尻が、愉悦に細くなる。
一歩、絨毯の上に足を踏み出した。
黒のタキシードは縫い目ひとつ乱れず
ボタンの配置に至るまで
計算され尽くしている。
胸元に挿した黒薔薇のブートニエールが
他の男たちの薔薇よりも
わずかに深い影を帯びているのは
照明のせいばかりではなかった。
彼が歩くたび
周囲の空気が、ごく自然に割れていく。
道を譲るとは意識せずに一歩退く者
視線だけを滑らせてその姿をなぞる婦人
笑顔を保ちながら
ほんの瞬きの間だけ緊張を走らせる紳士──
誰もが
〝自分からは見ていない〟──
そう言わんばかりの仕草で
しかし確かに彼の存在をなぞっていた。
(ここにいる連中は、皆──
〝自分が選ぶ側〟だと思っている。
寄付の金額で命の値段を決め
拍手の数で罪悪感を薄める。
善と悪の天秤を、自分に都合よく
振り子で叩く術を覚えた
〝可愛らしい化け物〟たち⋯⋯)
グラスを持たぬ左手の指先が
無意識のような動きで手袋の縁を撫でる。
白い手袋の上に乗る骨ばった指は
それだけで
〝断罪〟のジェスチャーのようにも見えた。
近くのテーブルでは、髭を整えた中年の男が
胃袋と財布の容量を競うように笑っている。
皿の上の肉は、完璧な焼き加減だ。
滴る肉汁の艶やかさは
シャンデリアの光を受けて
まるで宝石のように煌めいている。
(うん、料理人はいい仕事をしている。
妊婦の子宮よりも贅沢に肥え太らせた
〝家畜〟の肉だとしても──
焼き加減が悪ければ台無しだからね)
男の笑い声の裏から、微かに上ずった心音が
聞こえるような気がした。
それは薬のせいか、興奮のせいか。
アラインは興味を持ちながらも
わざわざ観察するように心を覗きはしない。
今夜は〝観測者〟であることよりも
〝鑑賞者〟として立ち回る方が
愉快そうだった。
次に目を留めたのは
若い男に腰を抱かれた貴婦人だった。
肩のラインが露わなドレスの背に
男の掌が浅く沈んでいる。
彼女のグラスはすでに半ば以上空で
眼差しは春のようにとろんと緩んでいた。
笑みを絶やさぬ唇だけが
かすかに震えている。
男の囁きは
耳朶を甘く撫でているようでいて
その実、言葉のほとんどは
彼女の虚栄心と不安を
戯れに撫でているだけだ。
(いいねぇ。
愛だと信じたまま
薬と酩酊の境界を通り抜けていく。
〝自分で選んで堕ちた〟と信じられるように
手綱を緩めてやるのがマナーというものさ)
アラインは、ふっと目を細めた。
視線を少しだけ滑らせれば、隣のテーブルで
同じような構図で笑っている別の男女がいる
少し年老いた男、若すぎる女。
差し出されたグラスは
先程よりも〝濃厚な香り〟を帯びていた。
(分かり易いなぁ。
あれはワインの中の甘さに気付いてるね。
初めての〝玩具〟は
どれが一番よく壊れるか⋯⋯
見てみたくなるものだ。
現場のセンスとしては、五十点。
でも──)
アラインは、グラスを再び唇へ運んだ。
今度は、香りだけを静かに吸い込む。
(この配合を思いついた頭の中は
もう少し見てみたい。
きっと──ボクと話が合うだろうねぇ)
わずかに視線を上げると
ホール中央に据えられた
大きな花台が目に入る。
白百合と深紅の薔薇が
過剰なほどに飾り立てられていた。
その足元──
見えない位置に、ワインのデカンタが
いくつか、さりげなく並べられている。
ボトルのラベルは慈善団体のもの──
説明文には〝Finale d’Exception〟
と控えめな文句。
特別とは何か、と問われれば──
この会場の誰もが、きっとこう答えるだろう。
〝忘れられない〟──と。
(忘れられない夜を、ね。
翌朝、鏡に映る自分の〝目の濁り〟を見て
何度も思い出せるような)
彼は花台の脇を通り過ぎるとき
ほんの気まぐれのように
百合の花弁へ指先を滑らせた。
純白の花弁に、一瞬だけ影が差す。
その陰りは
光の角度が変われば
すぐに消えるほどの儚さだった。
(美しいものは、正しく汚されるべきだ。
そうでなければ──〝完成〟と呼べない)
彼の歩みは、決して早くはなかった。
しかし、ゆっくりとも言えない。
楽団のリズムと
会話のざわめきの間を縫うように
一定のテンポで進んでいく。
通り過ぎるたびに
視線の尾が彼の背を撫でる。
若い子爵家の娘が
扇子の陰から一瞬だけ頬を染める。
隣の老侯爵夫人が
子猫のようにそれを肘でつつく。
遠巻きに見ていた新興成金の令息が
羨望と猜疑を
ごちゃまぜにした眼差しを向けてくる。
(飢えているね、皆。
愛に飢え、残酷さに飢え
退屈を忘れさせてくれる何かに飢えている。
善悪なんてラベルは
とうに味がしなくなっているのに──
まだ、大事そうに舐めている。
まったくもって、滑稽だねぇ)
アラインは、わずかに肩を竦めた。
吐息とも笑いともつかぬものが
喉の奥で静かに零れる。
彼の視線は、会場全体を
一枚のキャンバスとして捉えていた。
人々の立ち位置
光の当たり具合
ワインの減り具合
グラスを持つ指の力の入り具合。
それらすべてが
ひとつの絵画を構成する要素であり
同時に──
(この夜会そのものが、一枚の〝習作〟だ。
ボクが仕上げるには、少し安っぽいけれど──
悪くない下地だね)
グラスの中で、深紅が静かに揺れる。
液面に映り込んだシャンデリアの光が
彼のアースブルーの瞳の底で砕けては消えた。
彼は歩き続ける。
まだ、何も始めない。
ただ、観る。
ただ、美を選別する。
どの瞬間がもっとも美しく壊れるか──
それを見極めるためだけに。
⸻
アラインは
グラスを片手に会場を一巡りした頃になって
ようやく、その〝違和感〟の輪郭を掴んだ。
笑い声は満ちている。
香水と肉とワインの匂いも
過剰なほど混ざり合っている。
音も光も足りているというのに──
肝心なものだけが
不自然なほど抜け落ちていた。
彼は足を止めることなく
微笑の角度ひとつ変えぬまま
視線だけをそっと流していく。
煌びやかなドレスの群れ。
胸元をこれ見よがしに飾る宝石。
仕立ての良い燕尾服に包まれた男たちの背筋。
どこを切り取っても
〝成功した者たちの夜会〟という看板には
なんら不足はないはずだった。
だというのに──
(⋯⋯おかしいね)
アラインは
手袋越しにステムを指先でなぞった。
クリスタルが、きわめて微かな音を立てる。
耳を澄ませなければ
聞こえないはずのその音が
自分の内側ではやけに大きく響いた。
(この規模の
〝裏医療チャリティー〟とやらにしては──
顔ぶれが〝貧相〟だねぇ)
本来なら、目につくはずの輪郭が
どこにも見当たらなかった。
古くから続く名家の紋章も
政界の梟と呼ばれる老獪な議員も
裏の医療利権を牛耳る学会の重鎮も──
この会場には──いない。
代わりにいるのは
どこかで見たような顔立ちの男と女たち。
高級な布を身に纏い
洗練をなぞった仕草をしてはいるが
その足元にはまだ〝土埃〟が残っている。
新興の企業家。
一代で金を成した成金。
地方に根を張っていた商家が
時流に乗って膨張させた富。
磨かれた靴の先に
見えない泥がこびりついたままの
者ばかりだった。
アラインの視線が
ふと一人の男の襟元に留まる。
ネクタイの結び目は
遠目には整って見える。
だが、プロの仕立屋が結んだそれとは違う
僅かな歪みがあった。
手慣れぬ指で何度も直し
鏡の前でようやく許容できる形に押し込んだ
そんな捩れ方。
別のテーブルでは、若い医師らしき男が
同業者同士で虚勢を張り合っている。
学会の権威を背にした余裕ではなく
ここを足掛かりにして上へ登るのだと
焦り半分の笑いを浮かべている種類の若さ。
(なるほど。
どれも名前を覚えるほどの相手ではないね)
唇は微笑を保ったまま
瞳の奥だけが冷えていく。
表向きの礼節と内側の冷笑の温度差は
彼にとって
呼吸と同じほど自然なものだった。
(今後のために
何人かとは親しくなっておいてもいいかと
思ったんだけどなぁ)
軽く首を傾げる仕草で
遠くのテーブルと視線を交わす。
彼の名を聞けば
目を輝かせて近づいてくるだろう顔が
いくつかある。
だが、そのどれもが
〝駒としては使えても
盤面を変える手にはならない〟
類の輝きだった。
(〝切り売り〟──
人身売買オークションの本番に
真の首魁たちは姿を現すつもりなのか。
それとも、最初から
〝観客席〟にすら座らないのか⋯⋯)
シャンデリアの光が
グラスの液面で細かく砕けた。
アラインは、何気ない風を装って
ゆっくりとそれを口許へ運ぶ。
甘い香りが、鼻腔を擽る。
先程から舌の上で転がしている薬の残り香と
会場に満ちた虚飾の匂いが
奇妙に調和していた。
(表に出てこない本物たちは
こういう夜を
〝消費される舞台〟としか見ていない。
──それは、ボクも同じだけれど)
足元の絨毯は厚く、靴音を吸い込んでいる。
彼が歩いても、ほとんど音は立たない。
それでも、すれ違う者の気配が微かに揺れる。
振り返りはしない。
目線の気流だけで、彼の歩いた軌跡が知れた。
(どいつもこいつも、二流、三流。
出た杭に見えるのも、足場が浅いからだ。
打ち込まれる前に摘み取るのか、それとも──
都合の良い柵として育てるのか)
ホールの端に設えられたバルコニーの扉が
夜気をわずかに滲ませている。
そこから外へ出れば
冷たい空気が酔いと薬を
いくらか鎮めてくれるだろう。
だが、アラインは近づこうとしなかった。
(この〝温度〟のまま観ていたいんだ。
薄暗い劇場で、幕が上がる前のざわめきを
最後の一滴まで味わい尽くすみたいにね)
彼の視線が
会場中央に据えられた長机の端へ滑る。
そこで、フロアスタッフが
密やかに談笑していた。
衣装は控えめ。
立ち居振る舞いには 妙な緊張が混じっている。
──だが、その中に
アラインが〝情報を握っている顔〟は
ひとつもない。
(ボクの耳に届いていない計画が──
ここにある。
さて⋯⋯)
グラスの中のワインが
最後の一筋を硝子に残して消える。
空になった器を
彼は何事もなかったように
近くのスタッフへ差し出した。
「少し歩き疲れたよ。
新しい一杯を
あとで持ってきてくれるかい?」
「かしこまりました。ゼーリヒカイト様」
敬意の籠もった声が
乾いた空気に吸い込まれていく。
アラインは微笑でそれを受け流しながら
なおも会場をゆっくりと見渡した。
名を覚える価値のある者は少ない。
だが──
壊れ方を観察する価値のある駒は
いくらか紛れている。
(切り売りの幕が上がった時
誰が笑い、誰が泣き、誰が沈黙するのか。
そして、その光景を──
どこで、誰が眺めているのか)
アラインは再び歩き出した。
蛇が輪を描くように
ゆるやかに円を描きながら
ホールを一巡りする。
この夜会が〝二流たちの宴〟で終わるのか。
それとも
〝真の化け物たち〟が背後から手を伸ばし
舞台ごと引き摺り下ろすのか──
その境界線を
誰よりも美しく見届けるために。