テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
――その日々は、静かだけれど、確実にらんを削っていった。
抑制帯はもう使われていない。鎮静剤も、必要最低限まで減らされている。
それでも、恐怖だけは、身体に深く残ったままだった。
廊下をカートが通る音。ナースステーションから聞こえる笑い声。ドアノブが回る、あの小さな「カチャ」という音それだけで、らんの肩は強張る。
「……誰?」
掠れた声でそう聞くたび、俺は作業を止めて、すぐにそばへ行く。
「大丈夫。誰も来てない」
そう言っても、らんは信じきれない。視線が忙しなく動き、出口を探すみたいに揺れる。
俺が手を差し出すと、彼女は一瞬迷ってから、ぎゅっと掴んだ。
「……はなさないで」
「うん」
返事は短く。でも、その手は、絶対に離さない。
ある日、検査の説明に来た医師が、ドアの外から声をかけた。
「少しお時間いいですか」
それだけで、らんの顔色が変わる。
「……やだ」
布団を引き寄せ、身体を丸める。
「元貴……」
「大丈夫。俺が聞く」
俺はらんの前に座り、背中を覆うように抱きしめた。
彼女の視界から、白衣が入らないように。
「本人に直接説明できないなら、ご家族に」
医師の声が、遠くなる。俺は頷き、静かに話を聞く。
治療の話。数字。可能性。
どれも、らんの耳に入れなくていい。腕の中で、らんは小さく震えていた。
「……終わった?」
「もうすぐ」
そう答えると、彼女は俺の服を掴む力を、少しだけ強める。
医師が去り、ドアが閉まる。その音が完全に消えてから、ようやくらんは息を吐いた。
「……こわかった」
「うん」
否定しない。無理に強くさせない。
「でも、ちゃんと耐えた」
その言葉に、らんは驚いたように顔を上げた。
「…ほんと?」
「ほんと」
俺は額に触れ、静かに笑う。
「前より、ちゃんと呼吸できてた」
らんは少し考えてから、また俺の胸に顔を埋めた。
「……でも、まだ、いや」
「それでいい」
治らなくていい。忘れなくていい。
夜になると、恐怖はもっと濃くなる。消灯後の病室。機械の規則正しい音。暗闇。
「……ねえ」
「どうした?」
「もし、また……ああなったら……」
言葉が途中で途切れる。
「そのときも、俺がいる」
即座に答える。
「どんな状態でも、俺は離れない」
らんはしばらく黙っていた。
そして、小さく、でも確かに、頷いた。
「……じゃあ……」
「うん?」
「……こわくなったら、だきしめて」
「いつでも」
その約束を聞いて、らんの身体から、少しだけ力が抜けた。
眠りに落ちる直前、彼女は呟く。
「……元貴がいてよかった……」
その言葉が、胸に刺さる。救われているのは、どっちなんだろう、と。
白衣は、まだ怖い。病院は、まだ敵だ。
でも――
俺の腕の中でなら、らんは「戻ってこられる」。恐怖に沈みきる前に、現実に繋ぎ止める錨みたいに。
それが、今の俺たちの生き方だった。
そして、俺は決めている。らんが世界をまた怖がらなくなるその日まで、この腕を、絶対に離さない。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!