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学園を半ば強引に「欠席」させた中也が、太宰を連れてやってきたのは、帝都の喧騒を見下ろす高台にある、一軒の瀟洒(しょうしゃ)な喫茶店だった。レンガ造りの建物には蔦が絡まり、庭には季節外れの薔薇が、中也の異能の影響か、生命力に満ち溢れて咲き誇っている。
「……中也。……本当に、いいの? 授業、サボっちゃって」
車から降りた太宰は、新調された制服の裾を所在なげにいじりながら、隣を歩く中也を見上げた。 中也は、太宰の細い腰に自然に手を回し、彼をエスコートするように店へと導く。
「いいんだよ。学園の勉強なんて、俺もお前もとっくに終わらせてんだろ。……それより、お前のその『死にそうな顔』をなんとかするのが、今の俺の最優先任務だ」
中也の言葉に、太宰は頬を微かに赤らめた。 「死にそうな顔」なんて、今まで誰にも指摘されたことはなかった。太宰家では、死んでいるのが当たり前だったからだ。だが中也は、その死にかけた魂を、無理やり現世へと引き戻そうとしている。
店内は、香ばしい珈琲の香りと、焼きたての菓子の甘い匂いで満ちていた。 中也が予約していたのは、一番奥の、周囲から隔離されたテラス席だった。眼下には帝都の街並みが広がり、遠くには海が夕陽に染まり始めている。
「……綺麗……」
太宰の口から、感嘆の声が漏れた。
「だろう? お前、今までこういう景色をゆっくり見たことなかっただろ。……今日は、お前の胃袋と目ん玉を、全部俺が贅沢させてやる」
中也は椅子を引き、太宰を座らせた。 やがて運ばれてきたのは、宝石のように色鮮やかなフルーツが山盛りに盛られたパフェと、最高級の茶葉を使った紅茶だった。 太宰は、目の前の甘い香りに、どう反応していいか分からず固まってしまった。 太宰家での食事は、常に「生存のための最小限の燃料」でしかなかった。冷えた粥、傷んだ野菜。そんなものしか口にしてこなかった彼にとって、このパフェは、あまりにも「幸福」の純度が高すぎた。
「……食べていいの? 私が、こんな綺麗なものを……」
「当たり前だ。お前のために注文したんだからな。……ほら、口開けろ。……あーん、だ」
中也が、スプーンですくい上げた苺を太宰の口元へと運ぶ。
「えっ……!? 中、中也、自分で食べられるよ!」
「うるせぇ。……俺がやりてぇんだよ。……ほら」
中也の琥珀色の瞳が、真っ直ぐに太宰を射抜く。 その瞳には、一欠片の「黒い感情」もなかった。あるのは、ただ純粋に、目の前の愛おしい少年を甘やかしたいという、少年のような熱情だけだ。 太宰は、顔を真っ赤にしながらも、ゆっくりと口を開いた。
甘い。 苺の酸味と、生クリームの濃厚な甘さが、太宰の口の中で溶けていく。 それは、彼が今まで知っていた「味」という概念を、根本から覆すものだった。
「…………おいしい」
太宰の瞳に、ポロリと一粒の涙が溜まった。
「……おい。……美味すぎて泣く奴があるかよ」
中也は苦笑しながら、太宰の目尻の涙を指で優しく拭った。
「……お前は今まで、苦いもんや冷てぇもんばかり食わされてきたんだ。……これからは、甘いもんだけで腹を満たせ。……お前の人生の残りは、俺が全部『甘く』してやるからな」
太宰は、中也の手のひらに自分の頬を預けた。
「……中也は、ずるいね。……そんなこと言われたら、私、本当にダメになっちゃうよ」
「ダメになれよ。……俺の腕の中で、骨抜きになって動けなくなればいい。……そうすれば、お前はもう二度と、あのゴミ溜めに帰ろうなんて思わねぇだろ?」
中也は、太宰の手をとり、その指先にそっと唇を寄せた。 純粋な、独占欲。 太宰は、その重厚な愛に窒息しそうになりながらも、初めて「心地よい」と感じている自分に驚いていた。 歪んだ心。傷だらけの身体。 それら全てを、中也は「愛おしい」と言って受け入れた。 太宰の心を満たしていた虚無の空白に、中也という重力が、温かな光と共に流れ込んでいく。
(……ああ。私は今、本当に……溶かされているんだ)
二人が、そんな甘やかな時間に浸っていた、その時。 テラス席の入り口に、不穏な影が立った。
「――おやおや。中原様、こんなところで『ゴミの処分』にお忙しいようだ」
冷ややかな声に、太宰の身体が目に見えて強張った。 中也は、太宰を自分の背後に庇うようにして、鋭い視線を入り口へと向けた。 そこに立っていたのは、数人の黒服の男たちを引き連れた、太宰信治だった。 信治の顔は、昨日のプライドを粉砕された屈辱と、復讐心によって醜く歪んでいる。
「……信治。……手前、何の用だ。死に場所を探しに来たのか?」
中也の声が、一瞬で温度を失い、周囲の空間がミリ、と軋んだ。
「ふん。中原様、あまりその『呪われ子』に深入りしないことです。……そいつは、太宰家の恥部であり、触れるもの全ての異能を腐らせる毒ですよ」
信治は、怯えながらも、背後の男たち――異能犯罪組織の刺客たち――を盾にして、勝ち誇ったように笑った。
「中原家が我が家へ送りつけてきた『査察通知』。……あれを取り下げていただきたい。さもなければ……そこの治が、どうなるか分かっていますよね?」
信治の合図と共に、刺客たちが一斉に異能を解放した。 空間を切り裂く風、地面から突き出す岩の刃。 太宰は、反射的に中也の服を掴んだ。
「……中也、逃げて。……この人たちは、本気だ」
だが、中也は動かなかった。 彼は、震える太宰の手を、自らの大きな手で包み込み、優しく、しかし力強く握りしめた。
「……治。……よく見ておけ」
中也は、太宰を安心させるように、一度だけ微笑んだ。
「……俺の愛が、どんなに『重い』か。……そして、お前を傷つける奴らが、どれだけ『軽い』存在かをな」
中也が、一歩、前に踏み出した。 その瞬間、テラス一帯の重力が、数百倍へと膨れ上がった。
「――ぐあぁっ!?」
襲いかかろうとした刺客たちが、何が起きたか理解する間もなく、石畳の床へと叩きつけられた。 信治もまた、その凄まじい圧力に膝を突き、顔を床に擦り付けながら悲鳴を上げた。
「……お前ら。……俺が、どれだけこの時間を楽しみにしてたか分かってんのか?」
中也の声は、静かだが、それゆえに狂気を孕んでいた。
「……俺と、こいつの『初デート』だぞ。……それを、泥靴で踏み荒らそうとした罪……万死に値すると思わねぇか?」
中也の指先から放たれた黒紅色の閃光が、刺客たちの武器を、そして彼らの異能そのものを、物理的に粉砕した。 圧倒的な、暴力的なまでの救済。 太宰は、中也の背中を見つめながら、息を呑んだ。 自分を守るために、神のごとき力を振るう男。 その荒々しさは、不思議と怖くなかった。むしろ、その激しさが、自分への愛の証明であるように感じられて、太宰の胸は熱くなった。
「……ひ、ひぃぃっ! 助けてくれ! 悪かった、私が悪かった!」
信治が、鼻水を垂らしながら命乞いを始める。
中也は、信治の頭を軍靴で踏みつけると、冷徹に言い放った。
「……助ける? 笑わせるな。……お前らが治にしてきた十年分の『痛み』。……それを、今から一分間に凝縮して返してやるよ」
「――中也」
太宰の声が、殺気立つ中也を引き止めた。 中也が振り返ると、太宰は少しだけ寂しげに、しかし確かな意志を持って首を振った。
「……もう、いいよ。……こんな人たちのために、中也の手を汚してほしくない。……今の私は、あの家の『治』じゃないから」
太宰は、ゆっくりと歩み寄り、中也の腕に自分の身体を預けた。
「……早く、帰ろう? ……あの、温かいおうちに」
中也は、太宰の言葉に、憑き物が落ちたように表情を和らげた。
「………………。……ああ、そうだな。……お前の言う通りだ、治」
中也は、足元のゴミ(信治たち)を一瞥すると、彼らを重力の檻に閉じ込め、警察――あるいは中原家の私設軍隊――に引き渡すための信号を放った。
「……おい、お前ら。……次はねぇぞ。……二度と、このガキ……俺の『相棒』の前に現れるな」
中也は、太宰を横抱きに抱き上げると、壊れたテラスから、夕陽が沈む空へと舞い上がった。
「…………中也。……すごかったね」
太宰は、中也の首に腕を回し、夜の気配が混じる風を感じながら言った。
「……ああ。……あんな奴ら、俺にとっては羽虫以下だ。……お前を怖がらせちまって、悪かったな」
「……怖くなかったよ。……中也が守ってくれるって、信じてたから」
太宰は、中也の胸に耳を当てた。 激しく、情熱的に脈打つ鼓動。 それは、自分を生へと繋ぎ止める、世界で唯一の錨だった。
車に戻ると、中也はエンジンをかけず、静寂の中で太宰を見つめた。 「……治。……さっき、あいつがお前のことを『毒』だの『呪い』だの言いやがったが……」
中也は、太宰の顎を指で持ち上げ、その唇を、自分の唇で塞いだ。 それは、甘いパフェよりも、どの宝石よりも熱く、深い、誓いの口付けだった。
「……たとえお前が毒だろうが、呪いだろうが……俺が全部、飲み干してやる。……お前の歪みは、俺が真っ直ぐにしてやるんじゃねぇ。……その歪んだ形のまま、俺の愛に嵌めてやるんだ」
太宰は、目を見開いた後、幸せそうに目を閉じ、中也の首にしがみついた。
「………………だいすき。……中也」
初めて口にした、剥き出しの「純愛」。 太宰の心に空いていた「空白」は、中也という名の愛と重力によって、完全に溶かされ、満たされた。
だが、夜の闇はまだ終わらない。 太宰家の崩壊は、まだ序の口に過ぎない。 本番は、これから、彼らが最も絶望する瞬間に、最も慈悲のない形で訪れることになる。
「(……おやすみ、治。……明日からは、もっともっと、甘い地獄を見せてやるよ)」
中也は、眠りに落ちた太宰の額に優しく触れ、車を走らせた。 二人の物語は、今、本当の「共犯」としての幕を上げたのである。
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