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ひとつ、またひとつと花が咲く。
ぽとり、ぽとりと花が落ちる。
花弁のような紫色の花心を持つ、白い花。
緩やかな曲線を描いて広がる、紫の花。
光を奪ったように黒く、だが仄かに混じる紅色が艶やかな花。
風がそよぎ、花弁が散ってゆく。花香が広がる。
ああ、なんて――
芝居小屋で賑わう大通りから少し離れた奥まった場所に、その茶屋はあった。
立派な門構えのその建物は、料亭のような風格ある佇まいをしていた。事実、腕のある料理人を抱え、料理の提供も行っていたが、その店を訪れる客の大半の目当ては美食に舌鼓を打つことではなかった。
格子門戸を潜り、土間を上がった先にある一階には、大小様々な座敷が設けられていた。客を通す部屋は、それぞれの会話や音が漏れないよう、厚い壁やいくつもの襖で隔てられている。客同士が顔を合わせることのないよう行き来にも配慮がなされ、そこでのひとときを内密に過ごせるようにと徹底されていた。二階の窓は千本格子となっており、窓際から誰かが外を覗き見ても、外から中の様子を窺うことは出来ない作りになっている。
そこから一人の少年が外を眺めていた。長く伸ばされた、癖のない艶やかな黒髪が顔の左側に垂らされ、白い肌を覆い隠している。
不意に、何かを見つけたように一点を注視する。少年は立ち上がると、部屋から廊下に出て階段を降りた。
「チヒロ」
勝手口から外に出ようとしたところで背後からかかった呼びかけに、少年――チヒロは足を止めて振り返る。そこにゆっくりと歩み寄る男がいた。少し長い前髪が、男の右目を隠している。
「……薊さん」
「どこに行くつもりだい?」
穏やかな口調で訊ねられ、チヒロは真っ直ぐに、この店の楼主である薊を見つめ返して言った。
「ちょっと、湯屋に」
「……内風呂があるだろう」
「気分転換です」
表情を変えず臆面もなく宣うチヒロに、薊は額を押さえた。
「もう……言っても聞かないことは分かっているけど……せめて、柴を連れていってくれ。何かあったら大変だから」
「少し表に出るだけですよ。それに、まだ昼日中ですし」
少し鼻白んでチヒロが返すも、薊は譲らない。
「柴を連れていくこと。それが君の外出を許可する、最低条件だから」
「そんで、薊との根比べに負けたと。珍しいこともあるもんやなぁ」
可笑しそうににやけながら柴が言った。
癖のある、少し長めの明るい色彩をした髪は撫でつけられている。六尺は優に超えそうな身の丈とその恰幅の良さは周囲に威圧感を与えそうなものだが、チヒロに向けられる表情は柔らかく温かで、その印象を緩和していた。
「……薊さん、言い出したら聞かないから」
ぼそりとチヒロが呟くと、柴は「君がそれを言うか」と言いたそうな顔をした。
薊に言われた通りに柴を伴ったチヒロは、店の裏通りを抜けて湯屋の方向へと歩いていた。柴が不思議そうに言う。
「あれ、本当に湯屋行くん?」
「他に用事もなくなっちゃったので」
薊に掴まっている間に、本来の目的であったものは何処かへと姿を消していた。だからといって薊に嘘をついてまで外に出ようとした手前、やっぱりもういいですと言を翻す訳にもいかない。
「すみません、巻き込んで」
「別にええで、俺も広い風呂にのんびり入るの好きやし。それに、薊が心配するのも分かるしな」
「……二人とも、心配性すぎませんか」
実際、チヒロ以外の店の者に対しては薊がここまですることはない。
チヒロが身を寄せる薊の店は、陰間茶屋と呼ばれるもので、遊郭とは違い、遊女ではなく陰間と呼ばれる男娼を斡旋する茶屋である。陰間の多くはチヒロのような少年で、中には歌舞伎役者の修業中の身である者や、若衆などもいた。遠出する場合には流石に許可がいるものの、店の近場にある湯屋や表に出る程度で楼主が口を出したり制限をかけることはなかった。
「他でもない君のことなんや、これでも緩すぎるくらいやと思うけど」
「……」
柴にそう言われると、チヒロは何も言えなくなる。
分かってはいるのだ。二人がこんなにも自分に対し過保護に振る舞う理由を。分かってはいるのだ、自分の置かれた立場を。
ただ、それはチヒロにとって足枷でもあった。
柴が足を止める。
「君の気持ちも分かるが、焦りすぎも禁物や」
チヒロが見上げると、柴は先程までとは打って変わった真剣な目をして言った。
「君自身の身を危うくする訳にはいかん。虎穴に入らずんば虎児を得ずとはいうが、だからといって無闇に動けば良いというものでもないやろ」
チヒロが顔を背けると、柴は追うように手を伸ばす。チヒロの髪に触れ、指を滑らせて黒髪越しにその左頬の輪郭をなぞる。
「……もっと、君自身を大切にしてくれ」
「……」
チヒロは応えず、ただ唇を噛み締めた。
それは夜更けのことだった。その時、チヒロは熱を感じて目を覚ました。
その頃は納期が迫った依頼が溜まっていて、日中目が回る程に忙しく、夜は泥のように深く眠っていた。夜半に目が覚めることなんてなかったから、訝しく思いつつも身を起こす。
『いたっ』
左頬にひきつるような痛みを感じて触ってみると、何かヌメリとしたものが手に付いた。
『……あれ……なんで、血……』
怪我をした覚えもないのに、手に赤い血が付いていた。
そもそも、夜更けで明かりも消したはずなのに、どうして手元が見えるのか。起き抜けでぼやける目を擦って開き、辺りを見回して、チヒロは絶句した。
家が燃えていた。家の中は夜なのに、あり得ない程煌々と赤く照らし出され、障子は焼け崩れ、視界は異様に開けたものになっていた。
畳の上に、何か大きなものが倒れていた。家を焼く炎の赤とはまた別の、赤黒いものでそれは染まっている。
ぴくりと、それが微かに動く。
『……ち、ひ……ろ……』
燃え盛る炎の音に掻き消えそうな程、弱弱しい声。だが、チヒロの耳は確かにそれを聞き取った。
普段とは比べ物にならないほど小さく掠れたその声は、それでも確かに、チヒロの父のものであった。
『……父さん?』
『……に……げ、ろ……』
『……父さんっ!!』
駆け寄ろうとした体に誰かが腕を回し、引き戻される。
『離してっ、父さんが……っ!』
『もう無理やっ!せめて、君だけは逃げな!』
背後から現れた柴が、チヒロの体を羽交い絞めにするように抱えて叫んだ。
『いやだ……父さん、父さんっ!!!』
声がしたのだ。名を呼ばれた。まだ生きていた。まだ、まだ父は生きている。だから、まだ、救えるかもしれないと、そう思って必死で手を伸ばした。
『父さんっ!』
轟音がして、天井の一部が崩れ、父の真上に降りかかる。
『っとうさ…』
『っ駄目や、見るな!!』
目を覆われ、柴の胸に顔を押さえつけるようにして抱え込まれた。轟音と地響きが続き、徐々に収まる。
『……すまん』
柴がそう呟いた。そしてそのままチヒロを抱えて、燃え盛り崩れゆく家からチヒロを連れ出した。
チヒロは何も出来なかった。何も出来ず、途中で気を失い、柴に身を委ねてただ助け出された。
父を一人、そこに残して。
「……っ!」
がばりと起き上がり、伸ばしかけた手に気づく。
(……ああ、夢か)
手を戻し、目元を覆った。今自分がいるここがどこであるのか、意識と記憶が現在まで戻ってくる。
あの後、気を失ったチヒロを抱えて柴は薊の元に転がり込んだ。襲撃者からチヒロの存在を隠すため、そして、その襲撃者の情報を得るために。チヒロが自分も陰間となって情報を集めたいと言うと、反対されたり業を煮やして軟禁されそうになったりと色々あったが、すったもんだの末、結局チヒロが最初に申し出た通り陰間となって薊の店に身を寄せ、今に至る。
ここは、焼け落ちたあの家ではない。あの家はもう、どこにもない。父の体も、亡骸も。
全て、土の中。
口元を押さえる。胃からせり上がってくる感覚に吐き気を抑えきれず、チヒロはえずいた。
口からぽとりと何かが落ちる。それは嘔吐物にしては確固たる形を保っていて、花のような香りまで漂わせている。
そう、それは花であった。柔らかな花弁を持った、美しい花。本来、人の体から排出されるべきではないもの。
落ちた花は、純白の鳥が羽を広げたような形をしていた。
「鷺(さぎ)草……また、あの時の夢を見たんか」
花から目を離して顔を上げると、開いたままであった部屋の襖の横に柴が立っていた。柴が部屋の中へと入ってくる。
「……柴さん」
「あんまり、思い詰めたらあかんよ」
柴はチヒロの傍まで寄ると屈みこみ、持っていた火箸でチヒロが吐き落とした白い花を摘んだ。そしてそれを寸の間眺めた後、抱えた桶の中に入れる。
「……君の体が、持たんくなる」
「……」
「今日は休み。薊には、俺から言うとくから」
そう言い残すと柴は身を翻し、部屋を出ていった。その背を目で追った後、チヒロは俯く。
瞼を閉じれば、暗闇の向こうにあの日の赤がまた見えるようで、込み上げる激情に追従する吐き気をやり過ごし、チヒロは畳の目を睨みつけた。
その病は、花吐き病といわれた。
想いを拗らせては花を吐き、花を吐き出せば吐き出すだけ体力を奪われ、徐々に衰弱していく病。そのまま衰弱死する者や、花を喉に詰まらせて窒息死する者もいる、場合によっては致死的な不治の病ともいわれるもの。
感染者が吐いた花に他者が直接触れると感染することもあるが、感染した者が強い想いを抱く相手をもたなければ顕在化せず、潜在的にあるだけの不顕性感染に留まる。この病は感染者が誰かを強く想った時に症状が現れ、花を吐く。想う頻度が上がれば上がるだけ花を吐いてしまうので、体が弱っていく。
ただ、完治は出来ずとも対症療法というか、対応策がない訳ではない。
花吐き病の症状は、相手への想いが強まった時に現れる。つまり、想う頻度が減れば、想いが薄まれば症状は改善する。時間の経過が心を癒すというが、この病もまた、時が過ぎるまで体が持ちこたえられれば寛解する者も多くいた。
時を重ね、忘れられさえすれば。
(……忘れる?)
左頬に触れる。他の肌とは違う、傷痕の感触。あの日、恐らくチヒロの父を殺した襲撃者が、どうしてか眠るチヒロを殺さずに残していったもの。
忘れられる訳がなかった。
繰り返し夢に見る。あの日の炎、血溜まりの色。横たわったまま動かない父の上に雪崩れ込んだ瓦礫と、その轟きを。
強まる嘔気にチヒロは喉元を押さえ、手で口を覆う。何度もえずき、漸く治まると、その手の中には色鮮やかな花々があった。
濃い黄色の小花を囲むように薄紫の舌状花が連なった花。
鮮やかで澄んだ青色をした小さな花。
げほりと一段と強くチヒロが咳き込むと、またその口から花が転がり落ちてくる。
光を奪われた闇夜のように深く黒く、血のような赤が混じった花。
(……ああ)
忘れられる訳がないのだ。この情を、この想いを、この苦しみを。
遺されたのは、この身と、思い出と、この激情のみ。
あの日以来、ずっと縋りついてきたもの。
それを手放しては、生きてゆけなかった。
「……父さん」
涙腺は疾うに涸れ果てて、何度も濡らした頬ももう、カラカラに乾いていた。
チヒロの父、六平国重は名を知られた刀匠であった。
その刀を求めて大名の名代が何人も訪れる程で、その分、やっかみや面倒事に巻き込まれることも多かった。
だから用心はしていたのだ。国重の友人であった柴も心配して六平家の傍に居を構え、何かあればすぐに駆け付けられるようにしていた。
だがあの夜、柴は間に合わなかった。
数日前から六平家の傍をうろつく怪しい影があった。その夜、柴はその影と行き会い、追いかけた。そして影を見失い、戻った時には既に六平の家は燃えていた。止めようとする近隣の人々を振り払って中に押し入った時にはもう、国重を救える手立てはなく、父親の元に行こうとするチヒロを無理矢理連れ出すだけで精一杯だった。
守ると誓ったのに、守れなかった。
何とか助け出したチヒロは、燃える家から脱出した時には気を失っていた。体はあの炎の中で奇跡的にも軽い火傷程度に済んでいたが、その左頬には大きな刀傷があった。傷自体は大きさの割に浅く斬りつけられた程度であったが、傷痕は残った。
そしてチヒロが意識を取り戻して状況を把握した時、チヒロはえずき、花を吐いた。
黄色い小花と薄紫の舌状花をもつ花、紫苑を。
それからも、チヒロは父のことを想う度に花を吐いた。薊の元に身を寄せ、医者にも見せたがどうにもならなかった。どんなに滋養の良い食事を用意しても、少しでも何か口に出来るものはないかと駆けずり回って探してみても、どんなものもチヒロの体は受け付けず吐き戻し、過呼吸をも引き起こし、その身はどんどん痩せ細っていった。
このままでは、チヒロまで喪ってしまうと思った。柴は思ってしまったのだ。
――そのくらいなら、と。
『……なあ、チヒロ……六平を、君の父さんを殺した奴らは、あの家から刀を奪っていった』
『……』
もう何でも良いと思ってしまった。
『憎くはないか、奴らが』
例えそれが歪んだものでも。
『……にくい』
彼を思うのであれば、本来示すべき正しい道ではなくとも。
『取り返したくはないか、六平の刀を』
良薬なんかじゃない。毒を吹きこんでいると分かっていた。
『……とりかえしたい』
それでも。
(……君の、生きる糧になるなら)
『……なら、生きろ』
ただ、チヒロに生きてほしかった。
『生きてさえいれば、奴らの情報を得て、奴らに復讐し、刀を取り返すことだって出来るかもしれない』
チヒロが息を継げるのであれば、そこが地獄であろうとも、最後まで連れ立っていくと決めた。
例えそれで、無垢であったチヒロを穢すことになったとしても。それは何よりも罪深いことであったとしても。
(君が、生きようと思えるのなら)
毒を盛ってでも、君を生かす。
『……っ』
また口を押さえ噎せこみ出したチヒロの背を、柴は優しく撫でる。
『死んだら、そこで終わりや』
チヒロの耳元に囁く。
『君の父さんの無念を晴らすためにも……君は、生きるんや』
ごほりと、チヒロがその手に花を吐き出す。
それは、月の光の届かない夜の闇のように深い黒に、血のような赤が滲んだ黒百合だった。
まるで自分が犯した罪の色のようだと柴は思った。
その日は宴席の予約があり、それもかなりの上客からのものであったから、店は昼間から準備に追われていた。
「チヒロ、本当に大丈夫なのか?無理しなくても良いんだぞ?」
薊は心配そうに眉を顰め、チヒロの顔を覗き込む。チヒロは一歩後ろに下がり、頷いてみせた。
「大丈夫です。吐き気の発作も治まりましたし、もう座敷に出られます」
「でも、一昨日まで吐いていたんだろう?」
「昨日一日は吐いていないです」
「だが……」
尚も食い下がろうとする薊の目を見つめ、チヒロは「大丈夫です」と繰り返す。
「何かあったら、すぐに下がりますから。他の子もいるし、俺一人じゃないですし……宴席に出させてください」
お願いしますと言って目を逸らさないチヒロに、薊は溜息を吐いて折れた。
「分かったよ。宴席に加わるのは認める。ただし、座敷の外に柴を控えさせることが条件だ。それなら良い」
「座敷の外に、ですか?それだと、お客様がご不快に思われませんか?」
流石にどうかと思い、チヒロが言うと、薊は笑顔を浮かべる。
「大丈夫だ。客から見えず、気づかれなければ何も問題はない」
胸を張って、薊はそう言い切った。
「……やっぱり、薊さんは過保護すぎると思います」
宴席のための身支度をしながら、チヒロはぼやいた。
「いや、まあ、他でもない君のことやし?仕方ないやん」
省みれば薊と同類でしかない柴は、少し目を泳がせながらそう返した。
今回の宴席では客側の要望により、店の陰間は遊女のような華やかな女物の着物を着て接客することとなっていた。そのため、それに合うような化粧をして髪を結う必要があり、その準備にチヒロは手間取った。
着物や化粧、髪結い自体は店側が手配をして手慣れた者を呼び寄せていたのだが、何故かチヒロの装いに柴が口を挟んできて、とにかく首を横に振るばかりでなかなか良しと頷こうとせず、チヒロと職人を困らせた。漸く柴から合格の許しが出た時には、開始から数刻が経とうとしていた。余裕をもって支度を始めたはずなのに、宴会までの時間が大分迫ってきていた。チヒロと職人は大わらわで身支度を進め、そして何とか遣り果せた。
羽織る打掛は、光沢のある紅染めの絹生地に、金糸で金魚が優雅に泳ぐ姿が刺繍されている。中の小袖は黒い生地に水面を揺らす波紋のような文様が描かれ、その下の長襦袢の襟の白さと、そこから覗く首筋の肌の色、首の細さが艶やかに引き立つ。前結びされた帯は、表は金、裏は赤色で、華やかさを添えていた。
目尻と唇には紅が差され、その大きな眼に愛らしさと共に色香を乗せている。長く艶やかな黒髪には螺鈿金絵巻の細工を施された鼈甲櫛が挿され、結いあげられており、その下から白い項が覗いていた。左頬の傷は化粧で誤魔化し、長い前髪を一房垂らして隠した。
「……うん、綺麗やわ」
柴が頬を緩ませて言った。
「……お気に召したようで、良かったです」
チヒロは宴席の始まる前から既にややげんなりした様子で返した。
「そろそろ時間やない?移動せんと」
「……はい」
宴席の場となる座敷へと向かうと、もう既に中から人の気配がした。少し予定より早かったが、客ももう到着していたらしい。
「柴さん」
「分かっとるって。気づかれんよう、あっちの襖の裏におるから、チヒロもその辺りにおってや」
「分かりました」
柴の姿が見えなくなってから、チヒロは廊下に座って息を整え、中に声をかける。
「失礼します」
襖をそっと開け、三つ指をついてお辞儀をすると、ゆっくり頭を上げる。中では十名程の客人が席に着き、お膳台も既に運び込まれていた。チヒロは腰を上げ、中へと入る。
「“鉱”と申します」
源氏名を名乗り、挨拶を済ませると宴席の様子を軽く見回し、ある一点に目を止めた。
他の客や陰間などから少し離れたところに一人の男が座り、手酌で静かに酒を煽っていた。男の両目の上には刃物で斬りつけられたような大きな傷がそれぞれ走っており、目が潰れているのか、瞼は閉ざされている。座っているため正確には分からないが、上背もあるようで体格も良く、店の他の者達は怯えて男にあまり近づこうとしないようであった。
「もし」
チヒロは男に声をかける。男は目を閉ざしたまま顔を上げた。
「お隣、よろしいですか?」
「……ああ」
男の横に座ると、空になった男のお猪口に酒を注ぐ。
「変わっているな、お前」
注がれた酒をくいと飲み干し、男が言った。
「……そうですか?」
チヒロは首を少し傾ける。
「ああ。他の奴らは俺の風貌に怯えちまって寄ってこないが、お前は部屋に入って早々、真っ直ぐこっちに来たからな」
「……空いていたので」
微笑んで返すと、「そうかよ」と言って男も笑った。
「ここは初めてですか?」
「ああ」
「普段はどちらによく行かれるんですか?」
チヒロが問うと、男は後頭部に手をやって言う。
「俺ァ、こっちに来たばかりでね。今回の席も、こういう場にも慣れておけって、あそこで騒ぎ飲んでいる奴に連れてこられたんだ」
男が顎でしゃくってみせた先で、ドッと声が上がる。どうやらそこにいる陰間と随分話が盛り上がっているようだ。仲間もそちらに気がいっているから、それで猶更男が一人放置される状態となっていたのだろう。
「だから、馴染みの店なんてものはまだないのさ」
男は苦笑いを浮かべる。
「なら、良ければうちを御贔屓にしてください」
チヒロがそう言うと、「商売上手だな」と笑われた。
「でも、珍しいですね。うちの茶屋でこの規模の宴席を設けられるのは」
「そうなのか?」
「少人数ならありますが、それなりの人数となると、花街の見世に行かれる方が多いですから」
「花魁は華やかですしね」とチヒロが自身の着る衣装の袖を持ち上げてみせると、男がそれに触れる。
「綺麗なもんだな」
チヒロの着物を撫でて、男が言う。
「見えるのですか?」
閉ざされたままの男の両目を見て、チヒロは思わず不躾な問いをしてしまった。
「いや、見えない」
謝らなければと我に返ったチヒロが口を開くよりも早く、別段気にした風もなく男が答える。
「これはな、自分でやったんだ。削ぐべきもの全てに対して、目を瞑るために」
「……削ぐべき、もの?」
チヒロが男の言葉を繰り返すと、男は頷く。
「怒りや欲求は、人を地獄へと導く煩悩だ。煩悩は判断を鈍らせ、剣を鈍らせる。だから、削ぐために塞いだ」
男の声音は静かなのに重く、チヒロの奥底にまで響いた。
「煩悩……」
まるで自分のことを言われているようだとチヒロは思った。
(そうだな……俺はきっと、地獄行きだ)
でも、それで良かった。後悔があるとするならば、それは柴にまで背負わせてしまったことだけで。
「それを僧侶みたいに禁欲していると思われて、女色が駄目ならと、ここに連れてこられたって訳だ」
男が続けて言った。
「そういやぁ、お前の名は、何て言ったっけ」
男の言葉に物思いからハッと意識を戻す。取り繕うように笑みを浮かべて、チヒロは答えた。
「鉱と申します」
「鉱?……いや……」
男は訝しむように眉を寄せる。しばらく考え込んだ後、男は口を開いた。
「お前……六平の倅の、チヒロか?」
「……え?」
咄嗟に返せず、チヒロが口を開けたまま固まると、男が匂いを嗅ぐようにスンと鼻を鳴らす。
「ああ……やっぱり、この匂いは六平のものだ」
「……におい?え…………いや、俺は」
何と言って誤魔化せばいいか分からず、チヒロが言葉を濁すと、男は「いい、いい」と軽く手を振った。
「別に吹聴するつもりはないし、無理に隠さなくて良い。何があったかの概要は、聞き及んではいる……あいつは、死んだんだな」
男は静かに言った。
「……はい」
絞り出せた答えは、是と頷くことだけだった。
「俺は昔、あいつの世話になってな……結局、恩を返せず仕舞いになっちまった」
そう言って男が酒を煽る。
「お前は、どうしてここに……いや、そうか……」
手を伸ばし、チヒロの左頬に触れる。その目は見えていないはずなのに、僅かにもぶれることなく男の手は届いた。
「お前、仇討ちするつもりか」
「……」
チヒロは無言で男を見つめた。
「別に聖人ぶってお前を止めるつもりはねえよ。ただ、お前のこの気配……お前、病を患っているだろう。それも、軽くはないものを」
チヒロの頬に触れていた男の手が、するりと顎を伝って下りてきて、喉元を覆う。
「お前……敵を討って、死ぬ気か」
静かだった男の声に、微かながら感情が混ざった。
「……おい柴、お前、そこにいるんだろう……どういうつもりだ」
男は振り向かず、意識だけを己の背後の襖の外に向けて言う。それに対する応えの言葉も気配の動きも、何もなかった。
「だんまりか……いや、この場で声を発する訳にもいかないか」
男は一人得心が行ったように頷く。座敷では、少し距離を置いたところで他の客や陰間達が笑い合い、時にふざけたりしながら会話と食事を楽しんでいた。チヒロ達の方に注意を向ける者はいない。
「なら後日、改めて話を聞かせてもらおうか」
男がまた背後に向けて言ったところで、向かい側の襖が人の頭一つ分程開き、外から店の者が顔を覗かせる。
「失礼いたします……鉱、ちょっと」
「はい……あの」
呼ばれて応え、チヒロは男の顔を窺う。
「呼び出しがあったようなので、失礼します」
「ああ、すまなかったな、こんな話をして。気にせず行きな」
男は先程までの話などなかったかのような素振りで返した。
「あの……貴方のお名前を伺っていませんでした」
「ああ、そういえば名乗っていなかったな」
男が思い出したように言う。
「俺の名は、座村清市という」
呼び出しのあった部屋は、その男が好んでよく指定してくる部屋だった。
宴席での花魁衣装から普段の仕事用の着物に着替え、それに合わせ化粧と髪型を戻す。
「失礼します」
声をかけ、チヒロは襖を開けた。
「ようやく来たか、待ちくたびれたよ」
そう言って、中でくつろいでいた男は笑う。
「おいで」
「……はい」
逡巡の後、チヒロは男に呼ばれるがまま近寄り、その腕の中に身を委ねた。
「名を呼んでくれ」
男がチヒロに乞う。
「……幽」
チヒロはこの男が――幽が、苦手だった。
この陰間茶屋に幽が訪れるようになってからこの方、幽は他には見向きもせず、毎回チヒロ――“鉱”を指名してきた。何がこの男の琴線に触れたのかは分からない。茶屋に身を置く立場としては、馴染みになってくれるのはありがたいという他ないのだが、それでも、どうしてもチヒロはこの男への苦手意識を消すことが出来ないでいた。
「何をしていたんだ?」
幽がチヒロの髪を掬い、弄びながら訊ねる。
「……宴席があったので、その場に参加させていただいておりました」
幽の好きなようにさせたままチヒロが答えると、幽がその髪を口元まで運び、唇で触れながら口を開く。
「そうか、なら、今日店に来て良かったよ」
「……?」
チヒロが不思議そうに幽を見上げると、幽は笑ってチヒロを見つめ返した。チヒロの左頬の、髪と化粧で隠された傷をなぞって言う。
「“鉱”は、俺のものだからな」
幽の、こういうところも苦手だった。
茶屋界隈ではありふれた言葉であるはずなのに、幽が言うと、まるで別の意味を潜めているように聞こえてきて。
「……そうですね」
どうしても返しがぎこちなくなった。他の客相手だともう少し上手く取り繕えるのに、この男を相手にすると、何故か酷く強い嫌悪を感じて、表情や巧言を弄することが出来なくなる。
幽は口元に笑みを乗せたまま、チヒロの髪を梳く。
「そう固くなるな。“鉱”は陰間なのに、未だに言葉遊びが苦手だな」
「……申し訳ありません」
謝るチヒロの唇に人差し指を当て、幽はチヒロの顔を覗き込んだ。
「もっと砕けた口調で話せ。いつも言っているが、その方がお前を近くに感じられて良い」
「……はい」
「ほら」
「……ごめんなさい」
幽が目を細める。
「……まあ、良い。なかなか物慣れず懐かないところがお前の魅力の一つでもある」
幽の顔が離れ、別のどこかに目をやった隙に、気づかれないようチヒロは小さく息を吐いた。
「ああ、そうだ」
幽の顔がまた近づき、チヒロの耳に吐息がかかる。耳に唇が触れる感触。
「今夜も、駄目なのか?」
びくりとチヒロの体が震える。怖気立ち、逃げそうになる体を必死で抑え込んだ。
「……まだ、茶屋の主人から、許しが出ていなくて」
何とかそれだけを口に出す。
「そうか」
チヒロの首筋で、幽が笑ったような気配を感じた。
「残念だ」
それが何よりも、恐ろしかった。
「……で、何でチヒロまでいる?」
座村が柴を見遣って言った。
「俺は別に、今日のことを伝えたりはせんかったんやが……」
「俺が勝手に来ました」
決まり悪そうに口籠る柴を制し、チヒロが口を開いた。
「薊さんに聞きました。こっそり話をするのなら、この店が打ってつけでしょうから。それに、柴さん一人だと、弁明も自己弁護もしないだろうし」
「薊……やっぱり、チヒロに甘すぎるで」
「俺が薊さんから無理矢理聞き出しただけです」
チヒロはそう擁護したが、チヒロ以外の人間が薊にしつこく情報を聞き出そうとした場合には薊は情報を漏らさないであろうことから、どう考えても薊がチヒロに甘く弱すぎるだけである。
「チヒロ……俺は、柴と少し話をしたいだけなんだが」
座村が額を押さえながら言った。
「でも、俺のことですよね」
「……」
チヒロにそう返され、座村は押し黙る。
「俺がこの店で陰間をしながら父さんの仇を探している事は、もう座村さんに気づかれてしまいましたから正直に話しますが、俺が陰間になったのも、仇討ちをしようとしているのも、俺自身が決めたことです」
「……チヒロ、でもそれは、俺が」
「柴さん、貴方のせいじゃない」
柴の言葉を遮り、チヒロは言った。
「確かに、切っ掛けは貴方の言葉だったかもしれない。でも、決めたのは俺自身です。俺が、父さんの敵を討ち、奪われた刀を取り戻すと決めた」
チヒロは柴を見つめる。その顔は凪いでいるように見えるのに、その赤い目には強く揺るがぬものが宿っていた。
「柴さんのせいじゃない。これは、俺自身の欲望だ」
「……チヒロ」
「そうしていないと、俺は、息も出来なくなるから」
「……」
言葉に詰まる二人に、チヒロは微笑む。その目は泣きそうに歪んでいるのに、目頭は揺れず、もう涸れ果ててしまっているかのようだった。
こほりと、チヒロが咳をする。
「っチヒロ!」
蹲り咳き込む体に柴が駆け寄り、その背を擦る。大きくえずいたチヒロの口から何かが吐き出された。花の香りが周囲に漂う。
「……花吐き病か」
座村が呻くように呟いた。
零れ落ちたのは、唇のような形をした花が穂のように連なった、紫の花。
「……立浪草」
命を捧げるという花言葉をもつ花。
「……例え、それで死ぬことになっても」
柴に支えられ、喘ぎながらもチヒロは顔を上げて、赤いその目で座村を射抜くように見る。
「俺は必ず、そいつから、奪われたものを奪い返す」
込められた想いと覚悟は痛々しい程で。
(……もうお前は、腹を据えてしまったんだな)
それに否を唱えられるようなものなど、座村は持っていなかった。
咳き込み、口に添えた手の上に花が落ちる。
花弁のような紫の花心を持つ、真っ白な花。
緩やかな曲線を描いて広がる、紫色の花。
光を奪ったように深く黒く、そこに仄かに混じる紅色が艶やかな花。
ごほり、ごほりと続く咳と共に、更に花が零れ落ちる。
外側は淡い桃色をしているが、内側は純白の花。
鮮やかに赤く、放射状に反り返ったものをいくつか並ばせた花。
唇を拭い、“それ”は笑う。
「……ああ、楽しみだ」
強く立ち込める花の香が、風に乗って広がっていく。淡く薄まって、密やかに。
まるで水に毒を垂らし落としたように。
薊から客と閨を共にすることを固く禁じられていたチヒロは、夜が更けると自分の与えられた部屋に戻り、休むことも義務付けられていた。他の陰間と比べるのも申し訳なくなるような健康的で健全な職務内容である。
「……?」
不意に鼻孔を何かが擽った。
「……煙?」
外を見るが、周囲で煙の上がった様子はない。
(まさか……)
「チヒロっ!」
胸騒ぎに腰を上げようとしたところで、柴がチヒロの部屋に飛び込んでくる。
「逃げるぞ、こっちや」
「柴さん、何が」
「説明は後や!とにかく今は、早くここから出んと……っ」
柴に手を引かれて廊下へ出ると、もう間違いようもなく何かが焦げる臭いと煙がそこまで漂ってきていた。
「口を押さえ。煙を吸うなよ」
柴に引かれる手とは反対の手を口元にやって、チヒロは口と鼻を袖で覆う。階段までくると、もう視界は上がってきた煙で白く染まっていた。
「……ぐ、ぅ……げほっ」
押さえていても充満した煙を防ぎきれず、チヒロは咳き込む。
「大丈夫か、あともう少しやから」
煙で見通しの悪い視界と息苦しさの中で、柴の声と、チヒロの手を掴んで引く力強い手だけがチヒロにとって確かなものだった。煙は否応なく濃くなり、火の手が見えてくる。どこからか叫び声が聞こえた。
「……皆は」
「分からんが、多分薊や店の者が避難誘導しとるやろう。今は、君がここから無事逃げることが最優先や」
チヒロに答えた後、コホリと柴も咳をする。チヒロは口を引き結んだ。
(今は、喋っている場合じゃない)
そこからは二人無言で先を急ぐ。もう火が辺りを覆い尽くし、通れなくなっている箇所もあった。少しでもマシな抜け道を探し、未だ火の手の届かない中庭に出る。
そこに人影があった。
「っ誰や!!」
柴がチヒロを隠すように前に出て、荒い口調で問う。
「……」
月明かりが差したところに、影が進み出てくる。その頭に被っていた布を外し、隠されていた顔が露わになった。
「……あんた、は……」
光に晒されたその顔に、チヒロは見覚えがあった。つい最近も、その男の酌の相手をさせられたばかりだった。
癖のない黒髪に、両目の上下に掘られた、点と線のような入れ墨。他ではあまり目にしない、耳につけられた装飾品。
「ようやく来たか、待ちくたびれたよ」
男が笑う。いつものように。
「やっとお前に、名乗りを上げることが出来る」
そう言って、一歩二人の方へと近づく。
「……鉱、下がり」
柴がチヒロを源氏名で呼び、背後に伸ばした手でチヒロの体を更に後ろの方へと押しやった。
「……あんたが店に、火を放ったのか」
柴の後ろに庇われたまま、呆然とチヒロは呟いた。
理由なんて分からない。男の動機になるようなことなんて思い浮かばない。だが、ここに居残ってチヒロ達を待ち構え、こんな風に笑う姿を見れば、そうとしか思えなかった。
「ああ、そうだ」
チヒロを見つめ、笑みを浮かべたまま男が首肯する。
「改めて自己紹介するのなら、この方が劇的で面白いだろう?」
「……」
「……いかれてやがる」
男の言うことが理解できず、チヒロは固まり、柴は不快感を隠さずに吐き捨てた。
「お前達は探していたのだろう?“鉱”の……チヒロの父親の仇を」
「っ!!」
男の言葉にチヒロは目を見開く。
「……知ってたんか」
柴は苦々し気に低めた声で言った。
「そうだな、知っていたとも。そのために、お前が陰間になり、身を費やしたことも」
「……っ」
うっそりとした様子で男が言う言葉に、チヒロは怖気立った。
(ずっと、知っていた……?)
どうして、どうやってそれを知ったのか。知った上で、何故、何のためにチヒロの元へ通ってきたというのか。
何一つ分からないことが恐ろしかった。
混乱するチヒロの様子を眺め、男は唇を舐める。そして急に口元へ手をやり前屈みになったかと思うと、手に何かを吐き出し、ゆっくりと体勢を元に戻す。
その手にあったのは、いくつかの花だった。
外側は桃色で、内側が白い、羽衣を思わせる花。
光を失くした闇夜のように黒く、そこに血のような赤が仄かに混じった花。
「……花咲き、病?」
チヒロが呟くと、男は笑みを深めた。
「お前達が求めていた仇は……」
柴が手を構え、印を結ぶ。左頬の傷が引きつれるような感覚を覚え、チヒロはこみ上げてくる吐き気に呻いた。
「六平国重を殺し、刀を奪った盗賊団の統領は……この俺だ」
男は――幽はそう言って、恍惚と笑った。