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……翌朝、病室のカーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいた。
朝が来た、というだけの事実が、こんなにも重く感じる日があるなんて、昔は知らなかった。
「……ん」
らんが、微かに身じろぎする。俺は、反射みたいに声をかけた。
「いるよ」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の眉間の皺がほどける。まだ目は開いていないのに、分かるんだ。俺がここにいるって。
「……よかった」
眠りの底から浮かび上がる途中の、弱い声。俺はその手を包んだまま、動かなかった。
——これが、良くない状態なんだろうな。
頭では、分かっている。でも、この一言を奪う勇気が、どうしても持てない。
朝の回診は、今日も簡略的だった。
医師はドアの近くに立ち、俺を見て一度だけ小さく頷く。らんには、直接近づかない。
「体調はどうですか」
その問いに、らんは答えない。代わりに、俺の服をぎゅっと掴む。
「……大丈夫です。夜は眠れてました」
俺がそう答えると、医師はそれ以上踏み込まなかった。それが「配慮」だということも、「回避」だということも、分かってしまう。医師が去ったあと、病室に静けさが戻る。
「……先生、こわかった?」
そう聞くと、らんは少し考えてから、小さく頷いた。
「でも……元貴がいたから……」
それ以上は、言わなかった。それ以上、言わせちゃいけない気がした。
昼前、看護師が検温に来た。事前にノックがあって、名前を名乗って、それでも、らんの肩は強張る。
「俺が言うからな」
耳元で囁くと、らんは俺の袖を掴んだまま、頷いた。
「今から体温測ります。腕、触りますね」
一つ一つ、確認するように。看護師の動きに合わせて、らんの呼吸が浅くなる。
俺は、ただ、同じリズムで息をした。彼女の背中に手を置いて、「ここにいる」を、言葉じゃなく伝える。
検温が終わる頃には、らんはぐったりしていた。
「……つかれた」
「うん。頑張ったな」
それは、嘘じゃない。
本当に、毎日、少しずつ、削られながら耐えてる。
午後、らんがうとうとし始めた頃、俺は意を決した。ほんの、数分。医師が言っていた「ほんの数分」を、試してみようと思った。
「らん」
「……なに?」
眠気の中で、不安が混じる声。
「俺、廊下でコーヒー買ってくる。すぐ戻る」
「……すぐ?」
「三分。ここ、見えるところにいる」
ドアを指差すと、らんはじっとそれを見つめた。
「……いなくならない?」
「ならない」
少しの沈黙。
それから、震える息で、頷く。
「……じゃあ……いって……いい」
胸が、痛んだ。俺は、ドアの前で一度だけ振り返る。
「すぐだぞ」
廊下に出ると、心臓の音がやけに大きい。自販機までの距離が、やけに遠い。
——今、呼ばれてないか。泣いてないか。パニックになってないか。
コーヒーを取る手が、震える。戻る途中、病室の前で足を止めた。
中から、声は聞こえない。そっとドアを開ける。
らんは、ベッドの上で、じっと天井を見つめていた。両手は、シーツを握りしめている。
「……らん」
名前を呼んだ瞬間、彼女の視線が一気に俺に向く。
「……っ」
息を吸って、吐いて。そして、崩れるみたいに、俺を見た。
「……おそかった……」
責める声じゃない。怖かった、という事実だけを、置いてくる声。
「ごめん。ちゃんと、戻った」
そう言って近づくと、らんはすぐに俺に縋りついた。
「……いなかった……」
「うん。でも、戻った」
抱きしめる腕が、いつもより強い。でも、完全には崩れていない。
——三分。
それだけで、これだけ。
「……こわかった?」
「……ちょっと……」
“ちょっと”と言えたことが、奇跡みたいだった。俺は、彼女の髪に顔を埋めながら、静かに息を吐く。
依存かもしれない。歪な関係かもしれない。
でも——
完全に手を離すか、完全に縛るか、その二択しかないわけじゃない。
ほんの数分。ほんの一歩。らんが世界に戻る速度に、俺が合わせるしかない。
「……次も……戻ってくる?」
「戻る」
即答する。
「約束?」
「約束」
らんは、少し考えてから、小さく笑った。
「……じゃあ……がんばる……」
その一言で、胸がいっぱいになる。
俺は、逃げ場でいい。でも、出口も、ちゃんと一緒に探す。
世界は、まだ怖い。白衣も、病室も、音も。
それでも、少しずつ。俺の腕の中から、外を覗けるようになるまで。