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#NL
瀬名 紫陽花
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「……ふふ、あのお部屋、なんだか凄くいい匂いがしたのよねぇ」
ナースステーションに戻ってきた里奈は、頬を上気させ、うっとりとした表情で一人ではしゃいでいた。特別室の「織田健司」の姿にすっかり毒気を抜かれ、夢見心地なのだろう。
そんな里奈を尻目に、夜勤帯のナースステーションには不穏な電子音が鳴り響き続けていた。
ピー、ピー、と執拗に鳴り続けるナースコール。
(……また里奈、コールに出てくれない)
穂乃果の胸の奥に、じわじわと不満とストレスが溜まっていく。いつもの事とはいえ、今夜の里奈のサボり癖はいつも以上に酷かった。完全に色ボケして自分の世界に入り込んでいる。
彼女がコールに出てくれたのはたったの一回だけ。
このままでは、里奈と遣り合う余裕なんてとても取れそうになかった。
ようやくコールが落ち着き、巡視が終わって戻ってきた頃には時計の針は深夜を回っていた。
病棟全体がしんと静まり返りぐったりと椅子に座った瞬間。
再び、けたたましいナースコールが鳴り響いた。ランプが点灯しているのは、個室に入院している加藤の部屋だ。
加藤といえば、看護師の間でも有名な「手の早い患者」穂乃果自身も何度か尻を撫でられたりしている。
出来れば関わりたくないし、そもそも里奈の担当する側の部屋な筈なのに。
里奈は一瞬、手元のスマートフォンから目を上げたものの、聞こえない振りを決め込んでまた画面に視線を落とした。
(……ダメだ、私が行くしかないか)
穂乃果は小さくため息をつき、重い足を動かして深夜の廊下を歩いた。
「加藤さん、どうされましたか?」
静かに個室のドアを開け、ベッドサイドに近づいたその時だった。
「おぅ、安住ちゃん。遅かったじゃないの」
ガサリと布団が跳ねる音がしたかと思うと、加藤の濁った瞳がぎらりと光った。
「えっと、コール押しましたよね? 押し間違いですかね?」
何処か具合が悪いわけでも無さそうだし、彼は一人でトイレに行く許可も出ている筈だ。 何なら点滴だって、昨日外れたばかりで……。
「安住ちゃんさぁ、誰とでもエッチする淫乱なんだって? ――だったら、儂にもやらせてよ!」
「えっ……!? きゃっ!」
いきなり、細い手首を強い力で掴まれる。あまりの恐怖に穂乃果は必死に抵抗したが、男の力には敵わない。ベッドの上に引きずり込まれそうになった瞬間、首筋にねっとりとした生温かい感触が走った。べろりと、容赦なく肌を舐め上げられる。
「嫌っ……!! 離してっ!」
今まで、セクハラ発言をしたり、お尻を撫でられたことは何度かあった。 けれど、こんな風に強引に胸を鷲掴みにされた経験は一度もない。
嫌だ、怖いっ!
自分は一体、どうなってしまうのだろう? 恐怖で声も出せない中、
助けて。誰か、助けて――ナオミさん……!!
心の中で、愛しいその名前を叫んだ、まさにその瞬間だった。
スゥっと廊下から差し込む光が広がったかと思うと、
「――全く、騒々しいわねぇ。女の子は乱暴に扱っちゃいけないって、義務教育で習わなかったかしら?」
低く、けれど部屋の空気を一瞬で凍らせるような声が響いた。
「ぅわっ……!」
次の瞬間、穂乃果の上に覆いかぶさっていた加藤の気配が一瞬にして振り払われ、床にどさりと落ちる音が響いた。
何が起きたかわからぬまま、強い力に引き起こされ、そのまま懐に抱きこまれた。
(なに? 何が起きているの? あぁ、でも、この香り、この感触は――)
パニックで激しく波打つ心臓が、その香りとしなやかな体温に触れた瞬間、トクンと跳ねた。
鼻腔を満たしたのは、夜の街を連想させる、あの甘くて深い、大好きな香水の匂い。そして、華奢に見えて実は自分をすっぽりと包み込んでしまう男らしくて逞しい腕の厚み――。
(え……? ナオミ、さん……?)
涙で滲む視界の中、呆然と見上げた先にいたのは、パジャマ姿のナオミだった。けれど、その端正な顔立ちから、いつもの艶やかな微笑みは完全に消し去られている。
「アイタタ……っ。 誰だお前は! 人の部屋に勝手に入ってきやがって!」
床に這いつくばった加藤が、腰をさすりながら声を荒らげた。
ナオミは穂乃果を愛おしそうに引き寄せ、その背中を大きな手で庇うように抱きしめ直すと、加藤を冷徹に見下ろした。
「強姦しようとするクズに名乗る名前なんて持ってないわ」
地を這うような、本物の『男の怒り』を孕んだ声。
鋭く、冷徹な刃のような視線に射抜かれ、さっきまで欲望に目をギラつかせていた加藤が一瞬で恐怖に顔をこわばらせ、喉を鳴らして沈黙した。
一体なぜ、彼がこんなところにいるのだろうか? ナオミの腕の温もりに包まれながらも、穂乃果の頭はまだ現実が追いつかない。