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──日常のふりをして、今日も「それ」は始まる。
昼休み、教室の隅。
弁当を広げるふりをして、遥はただ机に座っている。箸も持たず、食欲もない。
けれど食べないと、あとで「もっと酷い目」に遭う。だから、口を動かす。味はしない。むしろ、吐き気がする。
「おい、遥。コップ取って」
後ろの席から声がかかる。
誰かが笑った。遥の名を呼ぶのは命令であり、試しであり、軽蔑の証。
立ち上がり、水道まで歩く。
教室の空気が一瞬、ざわついたのを背中で感じる。
蓮司が見ている。
蓮司の机に戻り、プラスチックのコップを差し出す。
蓮司は受け取らず、ちら、と視線を流す。遥の手の中の水面を見ている。
「入ってる量、少なくね?」
たしかに八分目ほどだった。
「やり直し。飲んで」
一拍の間。
遥は黙ってコップを傾け、自分の喉に水を流し込んだ。
ただの水。けれど舌に触れた瞬間、胃の奥がぎゅっと縮む。
蓮司が笑う。隣の席の誰かが吹き出す。
「ほら、もう一回」
──こうして、遥は何度も、ただ水を運び続けた。
ただの水。けれどそれは、誰の体液よりも屈辱の味がした。
ふと、廊下を見やると、日下部がこちらを見ていた。
その目は冷たくも優しくもない。ただ、何も言わない目。
遥は、もう一度だけ、自分のコップに水を入れた。
今度はなみなみと──溢れるくらいに。
蓮司の前に置く。
「おまえがやれよ」
小さく、けれどはっきりと、遥は言った。
教室の空気が一瞬、凍りついた。
蓮司は笑わなかった。ただ遥を見ていた。
その目には、ほんの一瞬だけ、底知れぬ「楽しさ」が宿った気がした。
それでもその日、蓮司は水を飲まなかった。
そして遥は、その夜、家で二倍の仕打ちを受けた。
でも、いい。
「おまえがやれよ」
その一言だけが、遥の中に小さく灯った、
──火種だった。