テラーノベル
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降りしきる冷たい雨の音だけが、薄暗い部屋に響いていた。親の作った多額の借金のカタとして、十六歳の橘陣(たちばな じん)が一条家に連れてこられたのは、初夏の湿気が肌にまとわりつくとある夏の日のことだった。
あてがわれたのは、広大な一条家の敷地の最果て、雑木林の奥にひっそりと佇む古びた離れ。
本家の豪奢な邸宅とは比べものにならないほど静まり返ったその場所で、陣は出会った。
「……誰だ、お前」
部屋の隅、埃っぽいソファの影で膝を抱えていたのは、弱々しく痩せこけた九歳の少年――一条蓮(いちじょう れん)だった。
愛人の子として生まれ、本家の人間から「愛人の子」「出来損ない」と蔑まれ、この離れに閉じ込められているのだという。乱れた黒髪の間から覗く大きな瞳は、道端の野良犬のように激しい警戒心と不信感をもっていた。
陣が「本日よりお世話をさせていただきます、陣と申します」と深く頭を下げても、蓮は膝を抱える腕にギュッと力を込め、激しく威嚇してくるだけだった。
「出ていけ! 本家の回し者だろ! 俺を笑いに来たんだろ!」
投げつけられた小さな置物が陣の額をかすめ、床で乾いた音を立てた。
だが、陣は眉一つ動かさず、静かに落ちた置物を拾い上げる。
「 笑いに来たのではありません。私は今日から、貴方だけの従者です」
…その日からの毎日は、根比べだった。
食事を運んでも拒絶され、声をかけても無視される。けれど陣は決して諦めず、毎日部屋を清掃し、蓮の服を洗いたたみ、静かに傍に寄り添い続けた。
変化が訪れたのは、梅雨の冷え込みが激しいある夜のことだった。
「……う……ぁ……」
静まり返った離れに、小さなうめき声が響く。
異変に気づいた陣が部屋に駆け込むと、蓮はベッドの上で真っ赤な顔をし、荒い息を吐いていた。高熱で全身を激しく震わせている。
「蓮様……! 待っていてください、すぐに冷たいタオルを――」
慌てて身を起こそうとした陣の裾を、小さな、小さく震える手がギュッと掴んだ。
「……行くな……っ……置いて、いかないで……」
熱に浮かされた瞳から、ポロポロと大きな涙がこぼれ落ちる。
普段見せている強がりも威嚇もすべて剥がれ落ちた、ただの傷ついた九歳の子供の素顔だった。
本家の誰からも見捨てられ、熱を出しても放っておかれた恐怖。
その小さな身体が背負ってきた孤独の深さに、陣の胸が締め付けられた。
「……行きませんよ。どこにも行きません」
陣はベッドの脇に膝をつき、湯分を含んだ冷たくて小さな蓮の手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
「寒かったですね。怖かったですね……」
汗ばんだ蓮の額に手を当て、そっと撫で下ろす。
冷たく握り返してくる力は驚くほど弱く、けれど必死だった。
「蓮様。お聞きください」
陣は蓮の濡れた瞳をまっすぐに見つめ、優しく、けれど絶対に破らない誓いを立てるように囁いた。
「私は、借金のためにここへ来ました。ですが……いま貴方の手を握っているのは、私の意思です。本家が何と言おうと、世界中が貴方の敵になろうと……ずっと俺が、蓮様の味方です」
『味方』という言葉を聞いた瞬間、蓮の瞳が大きく揺れた。
「ほんと……? 」
「ええ、お約束します。ですから、安心して眠ってください」
握りしめた手のひらから伝わる熱。
陣が朝まで片時も手を離さず、一晩中額のタオルを取り替え続けたその夜――幼い蓮の心の中で、世界を構築していた絶望がガラガラと崩れ去り、代わりに「橘陣」という唯一の光が永遠に刻みつけられた。
(これが、のちに財閥を揺るがすほど重く歪んだ『執着』の、始まりの日だった)
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あの日から、十二年の月日が流れた。
かつて小さく冷たかった手は、今や陣の手を軽々と握り潰せるほど大きく、強靭なものへと変わっている。
「……陣。ネクタイの角度がずれている」
低い声が頭上から降ってきた。
姿見の前で着替えを手伝っていた陣は、小さく息を呑む。
二十一歳になった一条蓮は、もはや過去の面影を探すのが難しいほど、美しく、そして圧倒的な存在感を持つ男性へと成長していた。
一流大学に通う現役の学生でありながら、すでに独立した子会社も立ち上げ、冷徹かつ鮮やかな手腕で利益を叩き出している。
かつて蓮を「愛人の子」と蔑み、この離れに追いやった本家の人間どもは、今や彼の足元にひれ伏し、媚びを売るのに必死だ。蓮は実力だけで本家を完全に屈服させ、一条財閥の正当な『次期当主』として正式に指名されるに至った。
広大な敷地の中心に建つ、豪華本邸。
当主としての権限を得た蓮には、あの上品な本館の主室を使う権利がある。だというのに、蓮は頑なにそこへ移ろうとせず、今なお敷地の最果てにあるこの古びた「離れ」で、陣と二人きりで暮らし続けていた。
「申し訳ございません、蓮様。……ですが、私が見る限り完璧に整っておりますが」
陣が手を伸ばし、ネクタイに触れようとした瞬間――ガシッと強い力で手首を掴まれた。
「ぐっ……」
引き寄せられるまま、陣の身体が蓮の分厚い胸板にぶつかる。
一八〇センチある陣の身長を、蓮はいつの間にか軽々と追い抜いていた。見上げるほどの体躯、スーツ越しでもわかるしなやかな筋肉、そして逃げ場を塞ぐような男としての強い圧迫感。
「お前は昔から、俺のネクタイを結ぶのが下手だな」
「……蓮様、近すぎます。お戯れはお控えください」
ポーカーフェイスを貫こうとする陣の耳元に、熱い吐息が吹きかけられる。
離れで二人きりの時、蓮が見せる瞳の熱は、主人から従者に向けられるものにしてはあまりに濃厚だった。
捕まえられた手首に、骨が軋むほどの力が込められる。痛みに耐えながら陣が視線を向けると、蓮は獲物を品定めする肉食獣のような瞳で、陣の顔を舐めまわすように見つめている。
「戯れ? 俺がいつ、お前相手に戯れたことなんてある?」
「……蓮様」
「本家の奴らがまた何か吹き込んできたか? お前は俺の側にいればいい。他の奴の言葉に耳を貸すなと言ったはずだ」
執着。それも、年々増していく恐ろしいほどの独占欲。
かつて膝の上で守っていた幼い少年は、いつの間にか自分を檻に閉じ込めようとする猛獣になっていた。
だが――陣の胸の奥を占めていたのは、恐怖や困惑だけではない。
(……ああ。でも、それももうすぐ終わる)
陣はそっと目伏せ、感情を覆い隠すように完璧な執事の笑みを浮かべた。
「本家の方々からは、蓮様の来月のお見合い……名門・鷹司家のお嬢様との縁談についてお伺いしていただけです。蓮様が大学を卒業し、正式に社長へ就任される頃には、素晴らしい良縁かと」
「……縁談?」
瞬間、陣の手首を掴む蓮の手に、さらに異常な力が加わった。
蓮の整った顔から一切の温度が消え、底知れない闇のような瞳が陣を射抜く。
「お前は……俺がその女と結婚すればいいと思っているのか?」
「はい。蓮様が立派な当主となり、温かいご家庭を築かれることこそが、私の最大の願いでございます」
陣は言葉を続けた。
これが、自分の「引き際」なのだから。
親が作った多額の借金を背負わされ16歳で売られてきてから長年ここで働き詰めたことで、蓮が大学を卒業するこの春、ちょうど全額の返済が完了する。
蓮はもう、小さい子供ではなく自分がいなくても一人で立っていられる立派な大人になった。
自分を縛り付けていた借金という名の鎖が解けたなら、自分は静かにこの離れを出ていくべきだ。蓮が自分以外の可愛い彼女や美しい妻を娶り、名実ともに幸せな当主となる――それこそが、売られてきた自分の最後の役割だ。
(少し寂しい気持ちもあるが蓮様も大人になった。借金ももうすぐ返し終わる……。大学の卒業と同時に、私は身を引こう)
静かに心の中で決意を固める陣。
その決断が、どれほど目の前の男の『狂気』を呼び覚ますトリガーになるのか、この時の陣はまだ知る由もない。
「……そうか。お前は、俺に結婚してほしいんだな」
低く落ちた蓮の声から、すっと一切の熱が引いた。
嵐の前の静けさのようなその冷酷な笑みに、陣の背筋を冷たい汗が伝った。
コメント
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おお……これ、めっちゃ刺さるわ……! 幼い蓮の「置いて行かないで」がもう、心臓にグサッときた。陣が唯一の味方になって、その執着が歪んでいくフォールが憎い。そして陣は「借金返済=身を引く時」って勘違いしてるけど、蓮は絶対に離さないタイプやん……最後の「そうか」の冷たさが恐怖すぎる。続きが気になりすぎる🔥
comi
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70
14号車怪獣担当@プロフ重要
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