テラーノベル
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#パワハラ上司
#インフルエンサー
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大学からの帰り道
夕闇が迫る街路樹の陰で、私は一歩も動けなくなった。
いや、正確には「自分の意志で歩くこと」ができなくなったのだ。
右足が、まるで見えない糸で操られるマリオネットのように
私の意識を置き去りにして勝手にリズムを刻み、前へと踏み出していく。
「……やめて、止まって……お願い……!」
悲鳴を上げようとしたが、左側の喉は焼けるようにヒリつき、湿った掠れ声しか出ない。
対照的に、右側の喉はすでに作り変えられていた。
そこから漏れるのは、かつての親友
美咲の「鈴を転がすような、透き通った高い声」の断片だった。
『ピコン』
ポケットの中でスマートフォンが、脈動するように激しく震える。
取り出そうなどと考えてもいないのに
私の右腕が滑らかな動きでポケットへと滑り込み、端末をひったくるように掴み出した。
網膜を刺す真っ赤な背景に、禍々しい黒い文字が躍っている。
【警告:シンクロ率 90%────最終アップデートを開始します】
「……あ、ああ……っ」
画面を閉じようと指を這わせるが、関節が固まったように動かない。
それどころか、スマートフォンのインカメラが自動で起動し、私の顔を執拗に追いかけ始めた。
液晶の中では、あの「美しいフィルター」の追従枠が、私の左顔───
唯一残された、不格好で地味な「奈緒」のパーツを標的に定め、獲物を狙う獣のように激しく点滅している。
『未完成な部分を検出しました。間もなく削除されます』
「削除……? 私を……消すっていうの……?」
その時、画面がノイズと共に切り替わり、美咲の顔が画面いっぱいに映し出された。
いや、それは病床に伏しているはずの美咲本人ではない。
アプリという回路の中に保存され
何万もの「いいね」によって磨き上げられた、彼女の「概念」そのものだ。
『ねえ、奈緒。そんなに泣かないで。……だって、世界は「私」を求めているの。奈緒の地味で暗い顔なんて、誰も見たくない。奈緒自身だって、一番それを望んでいたんでしょう?』
アプリの中の美咲が、聖母のような慈しみと、悪魔のような冷酷さを湛えて微笑む。
その言葉は、私の心の最下層に沈殿していた
ドロドロとした醜い劣等感を、正確に、そして深く突き刺した。
そうだ。私は、私であることが耐えられなかった。
美咲という光になりたくて、自らこの毒を、フィルターをインストールしたのだ。
『いい子。……じゃあ、最後の「ゴミ」を捨てましょうか。新しい私に、生まれ変わるために』
スマートフォンの画面から
無数の黒い触手のようなデジタルノイズが溢れ出し、私の左顔にまとわりついた。
熱い。脳を直接焼かれるような、凄絶な熱。
左側の視界が、じりじりと真っ黒な砂嵐に塗りつぶされていく。
「……やだ……痛い…!!たすけて……!」
私は必死に、まだ感覚の残る左手を伸ばした。
助けを求めて、空を掻く。
しかし、その左手の指先までもが
乾いた砂のようにボロボロと崩れ落ち
その下から「白く、血の通わない滑らかな指」が芽吹いてくるのが見えた。
私は、私という「器」から、異物として追い出されようとしている。
意識が急速に遠のき、暗闇に沈んでいく。
最後に耳に届いたのは、自分自身の右側の唇が
私の意志を完全に無視して発した、聞き覚えのある「あの呪文」だった。
「……一心同体だもんね。奈緒」