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足が勝手に動く
それは私の意志など介在しない
まるで重力を無視したかのように軽やかで
それでいて機械的な足取りだった。
抗う術もなく、私は吸い寄せられるように美咲の住む高級マンションへと向かっていた。
右側の視界は、恐ろしいほど鮮明に世界を捉えている。
対照的に、左側の視界は砂嵐のようなノイズが混じり、音を立てて闇に溶け落ちようとしていた。
「私」という個の意識が、脳の片隅へと無残に追いやられていくのを感じる。
「……あ…ぁあ……っ」
掠れた声を絞り出そうとしても
喉の奥は焼けただれたように熱く、もはや意味をなす音を紡ぐことはできない。
美咲の部屋の前に辿り着くと
鍵もかかっていない重厚なドアが、獲物を招き入れる口腔のようにゆっくりと、音もなく開いた。
部屋の中に一歩踏み入れた瞬間、鼻を突く饐えた匂いが充満していた。
かつての華やかなトップインフルエンサーの面影は、そこには微塵もなかった。
散乱したブランド物の服や高級な化粧品。
そのすべてに、薄茶色をした「乾いた皮」のような薄膜が、鱗粉のように不気味にこびりついている。
「……来たんだね。奈緒」
部屋の最奥、大きな姿見の前に座り込んでいた人影が、力なく振り返った。
それは、血の滲んだボロ布のような包帯を全身に隙間なく巻きつけた、無惨な姿の美咲だった。
「……み…さき……?」
私が辛うじて形にした問いかけに、美咲は力なく、自嘲気味に笑った。
その枯れ枝のような手には、液晶がバキバキに砕け散った古いスマートフォンが握られている。
「見てよ、これ。……私の『中身』、全部奈緒にあげちゃったから。もう、ここには何も残ってないんだよ」
美咲が、震える手で顔に巻き付いた包帯を、迷いながら解いていく。
ハラリ、と床に落ちた布の下から現れたのは、かつての誰もが跪くような輝きではなかった。
そこにあったのは、地味で、平坦で、どこにでもいるような……
紛れもない「私」の、あの忌まわしい顔だった。
「このアプリ、『フィルター』なんて可愛いものじゃないの。……器を入れ替えるための、ウイルスなんだよ」
美咲の枯れた言葉が、私の凍りついた脳に深く突き刺さる。
戦慄が走った。彼女もまた、かつては別の誰かからこの「完成された美貌」を奪い取り
そして今、維持の限界が来た自分の器を脱ぎ捨てるために、私を生贄として選んだのだ。
「人気者っていう虚像で居続けるのは、魂が削れるほど疲れるの。……醜く朽ち果てる前に、誰かにこの呪いを押し付けて、消えてしまいたかった。……だから、奈緒に教えたんだよ。誰よりも私に、この『型』に憧れていた、奈緒にね」
美咲が、光を失った泥のような瞳で私を見つめる。
その顔は、私が鏡で嫌というほど見てきた「元の私」そのものだった。
彼女は私の平凡で地味な人生を身代わりに引き受け
この世界から静かに消え去る準備を整えていたのだ。
『ピコン』
私の掌の中で、スマートフォンが歓喜の産声を上げるように激しく震えた。
画面には、冷酷なカウントダウンが刻まれている。
【シンクロ率 95%────最終統合まで、あと3分】
「……やだ…返してよっ!!私の、顔を……!!」
私は必死に、私の顔をした彼女に掴みかかろうとした。
だが、私の右腕が、持ち主の意志を嘲笑うように冷酷な力で彼女を突き放す。
私の顔をした彼女は、抵抗することもなく
満足げに薄く目を開けたまま床に崩れ落ちた。
「……おめでとう、奈緒。……今日から奈緒が、新しい『美咲』だよ」
彼女の輪郭が、足元からみるみるうちに透き通っていく。
データが完全に転送され、役目を終えた古い器が
システムによって無慈悲に消去されていくように。
私の絶望をよそに、部屋の空気は静まり返っていった。
#パワハラ上司
#インフルエンサー
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