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ファミリーレストラン「ガストン」でランチを楽しんだ後、日和美は「大丈夫です」と嫌がる不破を半ば無理矢理脳神経外科へ引っ張って行った。
病院では頭に衝撃を受けたと言う事で画像検査(MRIとCT)をし、医師の問診を受けたのだけれど。
比較的大きな病院だったからだろう。
画像検査の結果は日を置くことなく一時間足らずで出て、それを見る限りでは脳の方への異常はなさそうとの事でホッとする。
不破は疾患発症前に起こった出来事を思い出せないので、逆行性健忘だろうと言われ、状況から見て外傷性記憶喪失でしょうと診断された。
外傷性記憶喪失は、普通自動車事故などで頭に強烈な打撃を受けた場合に起こるらしく、患者は意識の喪失や昏睡を経験することがあるらしい。
確かに不破も布団が降ってきてしばらくの間、意識を失っていたことを思い出した日和美は、医師にそれも告げた。
こういう場合の記憶喪失は通常一時的らしいのだが、実際にどれくらいの期間持続するかは傷害がどの程度深刻かによるそうだ。
不破は脳に異常があるわけではないし、比較的早く記憶が戻るかも?と思った日和美だ。
それはきっと不破にとっては幸せな事なのだが、記憶が戻ったら記憶障害の間に起きていた事を忘れてしまう場合もあるらしく。
それを聞いて悲しくなった日和美に、不破は「僕は日和美さんの事、絶対に忘れませんから」と言ってくれた。
気休めでもそんな風に日和美の事を気遣ってくれる不破の優しさに、日和美はじーんときてしまう。
「そうだ。日和美さんが不安ならこのあと一緒に写真を撮りませんか? その写真の裏に僕が知る限りの日和美さんの事、出会ってからの事をメモしておきます。それを僕が肌身離さず持っておいたらもしもの時にもきっと、安心ですよね?」
不破にそう言われて、うるうると涙腺の緩んだ日和美は院内であるにも関わらずほろほろと泣いてしまった。
不破はそんな日和美が周りから死角になるようにそっと抱き寄せて頭を優しく撫でてくれる。
多分、記憶を失う前の不破もこんな風に女の子に優しく出来る素敵な男性だったんだろうなと思って。
こんな不破に彼女がいないわけがない気がした日和美は、自分が思い浮かべた勝手な妄想でさらに悲しくなってしまう。
日和美の大好きなティーンズラブの展開ならば、そんな障壁の全てを乗り越えて、二人はハッピーエンドになるのだけれど……現実はそう甘くない事も知っているつもりだ。
「不破譜和さんの馬鹿ぁ……」
勝手に一人で盛り上がってこんな暴言を吐くなんて最低だと思いながら、日和美はそうつぶやかずにはいられなかった。
***
「山中さーん」
受付に名前を呼ばれて日和美はグシグシと涙をぬぐって立ち上がった。
現在絶賛記憶喪失中の不破だ。
問診票を書く際、患者氏名の欄に仮名として「不破譜和」と書こうとして。
さすがにこれはない!と躊躇った日和美は、結局「山中譜和(仮名)←記憶喪失のため」と書いてしまったのだが。
書きながら(ヤダッ。婿養子!)なんて思ったことは内緒だ。
「お会計は四万二千五百円です」
さらりと言われて、内心ヒエッ!と思ったけれど、不破に要らぬ気遣いをさせるわけにはいかない。
平常心を装って「カードでお願いします」とフルフル震える手を必死に押さえながら極力スマートに(?)財布からクレジットカードを取り出す。
心の中、(カードが使える病院で良かったぁぁぁ)と思っているのも顔には出さなかったつもりだけれど。
「患者さんの記憶が戻られて保険証が出てきたらお金、戻ってきますから。その際この明細書と領収書が必要になりますから絶対なくさないようにしておいて下さいね」
さすがに十割負担ともなると検査費用など高額になってしまう。
受付スタッフにニコッと微笑まれて、日和美は「はい」と返事をしてお会計を済ませながら、(もしや顔が引きつってたのがバレてた?)とソワソワする。
受付の人にも分かったと言う事は、そばにいる不破にも高額請求にひるんだことがバレバレだったかも知れないではないか。
高額な請求額のお陰で涙が引っ込んでよかったと思う反面、カードの請求が来るまでに払い戻しの手続きが出来ますように、と思って。
「さぁ、行きましょう」
言いながら何事もなかったように微笑んだつもりだったけど、そこでふと、(でもそうすると不破さんの記憶が戻っていることが前提なんだよね)と気が付いて、複雑な思いに眉根を寄せてしまう。
「日和美さん、すみません僕のせいで」
そんな日和美を見て不破が心底申し訳なさそうに泣きそうな顔をするから。
日和美は慌ててフルフルと首を振った。
「病院は嫌だって言ってた不破さんを無理矢理連れてきたのは私です! なので不破さんは気になさらないで下さい!」
「でも……」
気にするなと言われても、そりゃあ気になるだろう。
日和美が不破の立場だってきっと、申し訳なさにいたたまれなくなるはずだ。
日和美は不破に変な愁いを与えてしまった自分の財力のなさを恨みがましく思って。
「大丈夫です! 私も来週の今頃は立派な社会人ですから! 大富豪もびっくりなくらい稼ぎまくるのでドンウォーリーです!」
わざと下手な発音の英語を織り交ぜて滅茶苦茶大袈裟に言ってみたけれど、不破はそれでも暗い顔のままだ。
「僕、一日も早く記憶を取り戻しますね」
ややして決意したようにそう言われて。
さすがに『いや、でも……それでは私との記憶が消えてしまうかも知れませんよ⁉︎』とは言えなかった日和美だ。
あちらを立てればこちらが立たず。
本当に事実は小説よりも波乱万丈だよぅ!と思ってしまった。
***
通院の後、恐縮しまくる不破を説得した日和美は、『ファッションセンターしまむた』や家具と雑貨が安い『INEA』にも寄って、彼のための生活必需品を買い揃えた。
『しまむた』で、着たきりスズメ状態の不破に普段の着替えや夜用の部屋着と言った諸々を見繕ったら、いくらファストファッションのお店と言えども万札がヒラヒラと羽を生やして飛んで行って。
ひとつひとつは安価でも、ちりも積もれば山となる。
例え数千円前後の商品でも、五点も買えば一万円を超すのなんていとも簡単なことだと思い知った。
商品がレジを通るたび、目の前でどんどん増えていく金額表示画面を見詰めながら、日和美はお財布のお札を数えながら心の中で一人、『足りるの? ねぇこれ、足りるの!?』と顔には出さず声にならない悲鳴を上げた。
『INEA』に移動してからも、食器類に加えて枕や布団カバーを新調したので、こちらでも結構な出費。
『ガストン』と『しまむた』への支払いでお財布の中に入れていた資金をほぼ使い果たしたので、『INEA』ではしれっとカード払いに切り替えた日和美だったけれど、病院の検査費用と合わせると、後々の請求書に戦々恐々間違いなし!
(私の貯金、大ピーンチ!)
子供の頃からコツコツとお年玉などをストックして……大人になってからはバイト代もそこに貯め込んでいたけれど。
ここ数年はTLへのつぎ込みが甚だしくて残高は目減り傾向だった。
加えて、今日使ったアレコレの請求がくることを考えると、さすがにしばらくは節約しないといけないな、と思った日和美だ。
でも、そんな状態なのに不思議と気持ちは穏やか。
だって不破のように素敵な男性のため、庶民でモブキャラな日和美が役に立てちゃうなんてこと、恐らく一生に一度あるかないかの僥倖なんだから。
日和美の中での不破は、未だに亡命中の某国の王子様か、はたまたどこぞの御曹司様。
あんな布団が落ちる様な出会いがなければ、絶対に接点なんて持てなかった人なのだ。
そんな不破に感謝されたり申し訳なさに眉根を寄せられたりするなんて、光栄の極み、快感しかないではないか。
(新生活にお金が必要なのは当然のことだもん。こんな時のための貯金じゃないの♪)
元々そんなに大金を蓄えていたわけでもないくせに、すぐにドロ舟に乗れてしまう日和美はある意味鋼の心を持つ女だった。
***
(しまったぁぁぁぁあ!)
家に帰るなり日和美は心の中で声にならない悲鳴を上げた。
不破譜和効果ですっかり舞い上がって散財しまくった挙句、ここを出る時に「買わねば!」と決意していたはずの一番の目的を買い忘れたことに気が付いたのだ。
「不破さん、テレビでもご覧になられながらちょぉーっと待ってて下さいねぇ~?」
震える手でテレビのリモコンを持って、電源ボタンを押してから不破にそれをフルフルしながら手渡す。
「あ、あの日和美さん?」
そんな日和美の挙動不審な様子に、不破が不安そうな顔をして。
日和美は彼をなだめるよう努めて自然に見える笑顔を取り繕ったつもりなのだが、実際は極めて不自然な笑みを顔に張り付けた状態で寝室に足を踏み入れる羽目になった。
そんな日和美の様子が、不破をさらにソワソワさせているだなんて気付かないまま。
リビングにしている部屋との境目の仕切り戸を細心の注意を払って細々と開けた日和美は、ぎりぎり横向きに通り抜けられる程度の隙間からカニみたいにススッと横スライドするようにそこを通り抜けて、後ろ手にピシャッと引き戸を閉ざした。
(私、くのいちになれちゃうんじゃない!?)
実際には胸がそんなに豊満じゃなかったことが幸いしたのだけれど、そこにはあえて目をつぶった日和美だ。
くのいち日和美が隣の部屋に不破を置き去りにしたまま忍び込んだ寝室は、思わず吐息が漏れてしまうほど趣味に溢れた素敵空間で。
(はぁ~。この毒々しいまでにド・ピンクの背表紙にガツン!と踊る茨のような飾り文字が堪らないのよっ♥)
なんて壁一面を埋める本棚を前にうっとりする。
(ってそれがまずいんじゃないの!)
そう。
この一見しただけで分かるピンク色の背表紙の群れは、どう見ても妖艶でいかがわしい香りを放っていて。
とてもじゃないけれど「こう見えて全部普通の文学作品なんですぅ~♪」と言うには無理があった。
だからこそ布で覆って目隠ししてしまう予定だったのに!
日和美は不破への買い物に浮かれポンチになっていて、布を買うのをすっかり忘れてしまったのだ。
「どうしよう……」
声に出してつぶやいてみたら、ちょっとだけ気持ちが整理出来てきた。
そう。不破は紳士的な人なので、きっと日和美の許可なくこちらの部屋に入るような無粋な真似はしないに違いない。
何せ――。
(そうよ! ここは仮にもレディの寝室なのよ! 殿方が勝手に入っていいような空間じゃないわ!)
とりあえず、本棚目隠し用の布を買ってくるまでは、不破にそれとな~く、しつこいぐらいに「こちらの部屋には立ち入るべからず!」と申し伝えておこう。
そうすれば日和美の秘密はきっと守られるはずだ。
しかし、日和美は自分の名案(迷案?)に溺れるあまり、人間の心理についてすっかり失念していたのだ。
人は禁忌だと言われれば言われるほど、破りたくなってしまう生き物だと言う事を――。