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#初心者
ゆいぽん
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いちごバナナスムージー
すいか
2,832
#死ネタ、流血表現、暴力表現
穏霞 乃矢
2,812
大して好きではないホットコーヒーにミルクとさらにシュガースティックを二本ほど入れて、さらに大して読めもしない書類に目を向ける。名前と顔がわかれば、他は重要な事項ではない。視界の端に白い髪がちらりと見え、彼は横目でそれを追った。恐怖か、隷属か──はたまた別の感情か。周りがひときわ浮き足立ったのに、コーヒーをひとくち飲むと、その甘さが足りないのかまたシュガースティックをひとついれる。泥色で冷たくはないそれをまた口に運ぶが、それでもほのかな苦味が舌を刺激した。───
食べ物の成れの果てが発する腐臭と、それに伴って発生した泥色の液体を踏みつける。甘くはない。カラスを手で追い払って、少年は固く縛られたゴミ袋の結び目をほどく。色とりどりの果物の皮と、分別されないままのプラスチックの容器の中にある食べ残しを見つける。すぐに小バエがたかってきたので次のものを探すことにした。
「あ!あったよ。アルミ缶」
自身とよく似た少年が嬉しそうに声をあげる。逆さに傾けるとアルコールがぽたぽたと滴り落ちるそれを空にした袋の中に詰めて、一番背の高い子どもがそれを手に持つ。今のもので目いっぱいになったらしく、今日はここで引き上げだ。何円になるかなあ、と子どもたちは期待をふくらませながら裏路地を駆けていく。かしゃんかしゃんと走るたびに音を鳴らし中身が揺れた。
彼らに目を向けるものはあまりいない。まるで古臭い電気屋のショー・ウィンドーに飾られる割引きされきったアナログテレビのように。あるとするならば、それはゴミ捨て場で何時間もなにかいいものを探そうとしてこびりついた悪臭に対する軽蔑の瞳。
「今日はいっぱいもらえたよ」
愛想の悪い質屋の老婆からいくらかの小銭を手にして戻ってきた少年が手を開いてふたりに見せた。すべて合わせて、ざっと二百円といったところだろうか。
「ご飯買いに行こうか」
缶の換金とこの発言、背の高さからしてこの子どもがリーダー的な立ち位置らしい。彼らはここから少し離れた、家の近くにある市場に歩を進める。とても衛生的とは言えないものが売っているが、ずうっと続く物価高の影響により、とてもじゃないが毎日得られるよくて二百円程度、悪くて五十円と微々たる小銭ではとても買えない。それでも、彼らにとってはご馳走の他ではない。
できるだけ蜂の群がっている店を探す。虫が湧いていて、生きているということはおおよそ人間が食べても問題がないし、それほど栄養があるということ。いつものぱさぱさとした安いパンを選ぶ。常連ということでひとつおまけしてもらえた。あとは、贅沢に熟しすぎて地面に半分腐った状態で拾われたレモネードとを買って、それでおわり。残りは、いつかのためにとっておく。底に塩ひとつぶも残されていない、なにかのお菓子が入っていた缶の中に入れた。
からすが鳴いてしまったから、家に帰らなければならない。一番背の高い子どもが汚れた服の中に缶を入れて、二番目に背の高い子どもが玄関の扉を開ける。がちん、とつっかえたような音がして、子どもは服の中から缶を出した。リビングの窓にはカーテンがなかったが、中の様子を見るまでもなく彼らは家から少しだけ離れた石畳の上へ座った。
「新しい母さんかな」
二番目に背の高い子どもが呟く。どこか期待に満ちていた。
「いいや、違うね。もうじき車が来て、女の人を乗せてどこかに行くよ。新しい母さんだったら、もう家の中に入ってるんですもの」
筒の中身をじゃらりと鳴らして一番背の高い子どもがきっぱりと言う。それから、ふたをあけて小銭を地面に並べはじめる。貯金のためでもあったが、兄が唯一弟たちに教えられる勉強であった。ふたりの少年は興味深そうにその話を聞き、時に聞かれる質問に答えながら時を過ごした。
やがて、黒い外車が家から出てきた女をすばやく連れ去ってしまうと、半刻ほど待ったあとに片付けて、扉を開ける。玄関のタイルは足の裏にひんやりとした感触を残す。階段を足早に登ろうとした時、背の高い子どもがより大きな男にぶつかる。服の中に隠した筒の中身が床に金属音をたくさん立ててぶちまけられる。ぶつかられたことか、音を立てたことに腹を立てたのか、その子どもの腹を蹴り飛ばす。尻もちをつき、立ち上がろうとしたその子の頭が床に打ちつけられ、ふたりの弟の似つかない温和そうな目元がゆがみ、色の違う髪が広がった。
「アリア兄さ」
「行こう」
一番小さい子どもが声をあげようとした時、その子どもと容姿がよく似た子どもが口を手でおおった。手を引くと、アリア、と呼ばれた子どもを見て悔しそうに唇を噛んで、そして弟とともに階段を駆け上っていった。
「繧ィ繧、繝吶Ν、大丈夫だよ、大丈夫……きっと」
子ども部屋のクローゼットを開けた。自分も肩が震えているのに、怯えている少年を抱き寄せて、ろくなおもちゃもないそこに入る。
「ステラ兄さんも、怖いでしょう」
「……お兄ちゃんだから怖かないよ」
小さなダウンコートをとって、ステラは繧ィ繧、繝吶Νの肩にかけてやった。繧ィ繧、繝吶Νはそれを不服に思ったのか、より近づいてステラの肩にも外套をかける。
「このほうがあたたかいから」
「……あはは、たしかに」
下の階から響く怒号に耳を塞ぐ。今宵はここで、自分たちと顔つきも髪色も違う兄を待つことになるだろう。
───
「繧ィ繧、繝吶Νくん、助かったよ。これ、今日のお給料だからね」
「いえ……とんでもない。むしろ貰いすぎな気が……」
形の悪い、出荷はされない野菜や果物と何千円かが入ったビニール袋を覗き込んで彼はそう言った。歳はもうすでに十五を過ぎたあたりだろう。腰を痛めた農夫の代わりに農作業をしたり、力仕事をして食いぶちを稼いでいた。明日も来るという旨を伝えて、彼は排気ガスに覆われてもなお網膜を焼いてしまうような太陽に目を細める。
帰路にはまだつかず、今や形だけと化した病院へ訪れる。何度も何度も通ううちに覚えた病室の番号の扉を開けば、清潔なオキシドールが鼻腔に立ちこめた。黄昏色の髪で、ボブカットの少年は凛とした顔立ちをしていたが、青年に気づくと年相応にぱっと顔を明るくした。
「フィオーリ、身体の調子は」
「今日はげんき!あのね、今日はね、おじいちゃんおばあちゃんたちにあやとりを教えてもらってね……」
うんうんと何度も頷き弟の話を聞いた。近くの椅子を引き、ビニール袋をがさがさと漁ってナイフがなくても手で皮を剥けるような果物を膝に置く。力加減に気をつけながら果実を取り出すと、血の繋がりもない少年の口に持っていくと、ゆっくりと咀嚼させる。
「おいしい!」
ひまわりのように太陽の光を受けて輝く笑顔を見て、思わず口元がほころんだ。繧ィ繧、繝吶Νはどこか物悲しい自身の目とフィオーリの目を合わせる。そして、抱擁を交わした。
「きっと、治るから」
「?」
ちいさな身体は繧ィ繧、繝吶Νの平均的、もしくは平均よりやや低い体躯の中に難なく収められる。この方舟においてフィオーリの病というものは一般階級、もしくは貧困層である彼らにとって不治の病だった。入院、というものは棺桶に片足を突っ込んでいる者たちだけがするものであった。
「明日も調子がよかったら院内のコンビニに行こうか」
「うん、約束ね!ゆびきりげんまん」
嘘ついたら針千本飲ます。指切った。
父は娼館にでも通いつめているのかほとんど家にいなかった。何年も洗っていない色あせた象牙色のカーテンが風に揺れていた。
「これは……」
新興宗教の勧誘のチラシくらいしか入っていないポストの中を整理しようとまとめてテーブルに置いた真新しい手触りのよい上質な紙を見る。「Uterus社 採用通知」と大きな文字で印刷された二枚の書類を見る。そこにはたしかに、ステラ・ベネット、繧ィ繧、繝吶Ν・ベネットとの文字列が記載されていた。かの社は優秀な社員の血族を採用し、無理やり働かせるだとか──そんなでたらめな噂を身をもって体験したのを察した。辞退、という手法は存在していない。明日には送迎車が来るのだから、荷造りをしなければならない。深くため息をついて、肩にそえられた手に気づくのが遅れる。
「……繧ィ繧、繝吶Ν」
自身よりも気持ち背の低い、さらさらの髪をもつ青年が口を開ける。
「その……荷造り、しよっか。政府直属の組織なんだろ?き、給料も今よりかは高いはずだし……フィオーリを治せるかもしれない、アリア兄さんにも会えるはず」
やがて彼らはカバンに衣類や生活必需品を詰めていく。あるかもしれない未来を、胸に抱いて。
朝焼けで誰の体温もこもっていない澄んだ空気を吸いながら、繧ィ繧、繝吶Νは車窓の外を眺めていた。車が病院を通りがかろうとして、止めてくださいと頼もうが、運転という機能だけが搭載されたAIがそれを聞くわけもなく、扉や窓は厳重にロックされている。ため息をひとつついて、ボストンバッグを抱きしめる。横を見やると、ステラの目には昨晩眠れなかったのか隈が焼きついていた。今になって眠気がこみ上げてきたようで、彼は浅い眠りに落ちている。やがて底も見えない人工の海と、無機質なコンクリートの橋とが目に入った。
ピピピピピ──自動運転を解除します、との音声が耳に入ると、扉が自動的に開いて、兄を起こしてからしっかりと整備された石畳の上に降り立つ。ステラは寝ぼけているのかふらりとよろめいたのを慌てて支えると、複数人の人の気配を感じる。
「あー、はじめまして」
気だるげな声の中にはどこかぎこちなさが混ざっていた。瞳と同じ紫のリボンタイと、元は黒髪だったのだろう。ストレス由来の白髪が混ざって、その灰色が瞳によく映えていた。
「新入社員の人ですよね……僕はリリオンです、ここの幹部です。気は使わないでください。こっちのは部下のロゼとシエロ」
明るいひすいの髪をもつ青年は、リリオンと名乗る男にシエロと呼ばれて、携帯用の灰皿で慌ててたばこの火を消すとつり上がった眉とおだやかな目を向けている。
「タイが歪んでいる」
リリオンより背の高い、強いくせっ毛を高い位置でひとまとめにしたロゼという男は上司とその同僚らしきシエロのタイをきっちりと整えてから、腕を後ろに組んでにこりと笑顔を浮かべた。
「名前は教えなくていいです。もう知ってますから……」
彼はコートのポケットをまさぐると、二冊の小さな冊子を差し出したかと思いきや、その手を引っ込めた。
「ロゼ」
ロゼは携帯しているのだろうふせんを差し出すと、リリオンは両方のページのいくつかにぺたぺたとそれを貼る。
「言葉で教えられる時間がもうないな……ふせんの貼ってあるページ以外は飛ばしてください。どうでもいいことばかりなので」
あらためてそれを受けとると、彼は背を向けて道なりに歩き出す。
「ああ、すんません。あの人めっちゃ適当なとこあるので。寮に案内するらしいっす」
ステラの手を引いて繧ィ繧、繝吶Νたちも歩き出した。不安か、太陽の熱か。背筋にじわりと不快に汗が吹き出る気温は好きではないかった。
病院内と同じようなエタノールの香りがほのかにする寮部屋も繧ィ繧、繝吶Νは好きではなかった。薄いカーテンからは光のはしごが空模様を語る。冷たい鉄製のベッドフレームと、硬い金属のフレームが身体に痛いほど伝わる意味もないマットレスと、強い漂白剤の匂いがするシーツの敷かれたベッドに腰をかける。三回。規則正しいノック音のあとに部屋の戸が開かれた。
「移動で疲れたでしょうし、今日はもう休んでください。明日から任務が僕より上の人から通達されると思います」
彼が立ち去る前、玄関にがたんとなにかが置かれる音がした。小包の中には紙切れと社用とシールの貼られた携帯が入っていて、紙切れは五歳児が見よう見まねで書いたような下手くそな文字でなくさないでねと書いてあった。
彼らが配属されたのは、兄のアリアのように今何十年と続いている戦争に出るための兵ではなく、レギオンとの戦闘や政府に反旗を翻そうとした者たちの処罰。上官であると自身を紹介したリリオンとその部下たちは戦力として駆り出され、朝になったころにはすでに社を発っていた。ぼやける目を擦ると、あの車が目的地への到着を知らせる高い機械音と同じ音が端末から聞こえた。
迷子猫を探す。護衛。反政府組織のアジトを潰す。夜逃げを手伝う。そんな任務をやっていくうちに、やがて戦争に負けたことが知らされた。
「……ステラ、繧ィ繧、繝吶Ν」
繧ィ繧、繝吶Νの手を誰かが掴んだ。酸化して茶色く変色したためにどこが血液による汚れか泥汚れなのかわからない制服を彼らの兄は着ていた。何日間も身を清められない状況が続いたのか、きれいな髪は脂やほこりで汚れている。引いた手は何枚か爪が剥がれていて、手のひらには切り傷、その傷からは飴色に凝固した膿がべったりとついている。
「兄さん?本当に兄さんだよね」
口を切ったのはステラだった。アリアは目尻に涙を浮かべ、汚れた手で顔を擦った。
「ただいま」
空は、言い訳ができないほどに澄んでいた。
───
アリアの訃報を聞いたのはそれから何ヶ月が経ったころだった。仕事が少なくなり、それに伴って給与も減ったが、三人分の稼ぎはフィオーリの延命に役立っていた。それが意味のない行為だろうと。彼は任務完了の報告をして、それきりだと言う。ステラも繧ィ繧、繝吶Νも、兄がどこかで生きていて、血が繋がっていなくとも同じ時を過ごせるものだと思っていた。
そして、彼らは望んだ再会を果たす。
ブーツが長い脚に映えていた。サイドテールと編み込みも彼が気に入っていたヘアスタイルだった。たれ目がちな瞳が、いつもほほえんでいる口元が。どこか無機質で。
「おかえり」
繧ィ繧、繝吶Νはいつの間にかそんな言葉を口走っていた。声帯が震える。異常なほどに充血した目が細められ、血の付着した剣を腰の鞘に収めてから、ゆっくりと一歩を踏み出す。
路地裏。足元には遺体が散乱していた。ギャングを処分しろとの命令で、たどり着いてもそこには生命の灯火などなく、アリアがひとり佇んでいた。
「繧ィ繧、繝吶Ν、久しぶり。ステラもおいで」
抱擁を交わす。繧ィ繧、繝吶Νより背丈の大きいアリアにすっぽりと繧ィ繧、繝吶Νはおさまる。
「兄さんって、こんなに体温低かったっけ──」
「繧ィ繧、繝吶Ν!」
ステラが力の限り、アリアに体当たりをして、抱擁が解かれる。地面に腰を打ちつけた衝撃にうめくと、すぐに繧ィ繧、繝吶Νは立ち上がった。ステラが投げつけられ、彼を受け止める。肩に裂傷が走っていた。
「逃げろ」
あまりにもひどい痛みでステラの全身の脈がどくどくと音が聞こえるほどに脈動しているのがわかる。額に冷や汗が浮かんだ。
「決して、振り向いてはならないよ」
しぼりだすような、懇願する声だった。傷口を抑えながら繧ィ繧、繝吶Νの手から離れ、彼はクレイモアを抜く。
「とにかく行け!早く!」
珍しく張り上げられた声に、繧ィ繧、繝吶Νは従わざるを得なかった。
兄ふたりの正式な殉職を聞いたのはその夜だった。アリアは数ヶ月前、任務の帰りにレギオンと出くわし、そのまま殉職。自身が殺した者の外見や記憶を模倣する──それが彼が不運にも出会ったレギオンの特性だった。そして、それと対峙したステラも殉職。回収された端末の音声データに残っていたと、粗末なコピー用紙に、切れかけの黒インクで書かれていた。
骨壷を抱く。兄たちは遺品以外になにも残っていないが、小さかったフィオーリの身体は、何冊かのスケッチブックやクレヨンとともにさらに小さくなって帰ってきた。
鉄格子の柵で区切られた窓を、誰かが叩くような音がする。
「ごきげんよう」
低い、男の声であった。誰だ、と声をあげ、武器をとろうとするが、それは彼の手中にあり、すでに背後に立っていた。
「いい歓迎のあいさつだ。俺はハイドレンジア。ミドルネームのバクテリウムと姓のリンドブルムはつけなくていい」
「……殺しにでもきたんですか」
肩にゆっくりと手が添えられ、耳元でくつくつと笑うハイドレンジアにささやかれる。
「兄弟ともう一度会ってみる気はないか?」
そのささやきは声が三重に重なっていた。アリア、ステラ、フィオーリ。その三人の声だった。思わず振り向くと、その男は巨躯の割には横幅が狭く、女神のような容貌を持っていたが、計算され尽くした美というものはあらためて不気味さを呼び寄せる。
「おまえとあいつらは星の巡りのようにもう連なることのない命運だ。葬儀社の位置は有しているだろう。すべてを捨ておき、私たちの元へたどり着くことができれば、兄弟とまた望んだ再会を果たせるだろう」
彼は繧ィ繧、繝吶Νの顔を上に向かせ、その額に口付けを残すと、影に溶け込むように消えていった。
兄弟とまた会える──その言葉が海馬で反響する。繧ィ繧、繝吶Νは部屋の扉を開けた。二度と振り返らなかった。
繧ィ繧、繝吶Νは脱走者を知らせる警報と、赤く眩い光がいくら照らそうと走り続ける。追手が放った弾丸が足を貫こうとその歩みは止まることはない。暁と同じように冷たく澄んだ空気が肺いっぱいに広がり、体温と二酸化炭素を吸収しそれはすぐに吐き出される。張り巡らされた鉄条網が肉を裂いても、柵によじ登る。
「今ならまだ処罰は軽いぞ」
追手のひとりがそう叫ぶ。最後まで聞いてられるか、と言いたげに彼は人工の海の中へ飛び込んだ。夜の海はひどく体温と、流れ出た血液を飲みこんでしまう。やがて橋の下を通り抜け、水を吸ってすっかり重くなった服ごと岸へあがる。軽い酸欠と失血、低体温症を起こしながらも彼は大通りをなるべく駆け足で行った。足がもつれ、何度かひざを擦りむく。街灯と壁をたよりに、繧ィ繧、繝吶Νはバロック建築の城とも言うべき建物の門をくぐり抜けたとたんに意識を落とした。
何度も嗅いだ臭いで目が覚めた。今日を告げる忌々しい日差しと乾いた空気に目をすがめる。怪我をした箇所はきれいに包帯が巻かれていて、不思議とあまり痛みは感じない。三〇〇三年■月■日──カレンダーがそう示していた。
「新人くんはとんだねぼすけみたいだね」
起きた気配に気づいたのか、ウルフヘアの男がカーテンを開けてからかうようなトーンで言った。
「やっぱりこの季節だと、新入りが中々来ないんだよね。同期もひとりだけどみんないるからさ、あいさつしなよ」
男は繧ィ繧、繝吶Νの身体を支えようとしたが、それを丁重に断り、彼はカーテンから頭を出した。机の上にはカードゲームやお茶菓子が数種類あり、今はオセロで遊んでいる様子だった。その中のひとりにいる紫色の瞳をした人物には見覚えがある。視線が混ざる。お互いにげ、と声をあげて繧ィ繧、繝吶Νはカーテンに身を隠し、もう片方は椅子から立ち上がる。
「リリオン、彼は知り合いかい?」
「元部下です。部下」
ウルフヘアの男はへえ、とだけ返事をして、たばこを咥える。オイルが切れかけた安物のライターのうち金を何度か起こして、やっと火がつくと煙を吐き出す。
「けが人がいるんだから騒ぐのはやめてあげなよ」
リリオンは呆れたようにため息をつく。
「……繧ィ繧、繝吶Νさん、あなたも混ざったらどうなんです?自己紹介も兼ねてね」
「角取れるぜ、ラッキーだなお前!」
「ふふ、わたしの戦略勝ちだね」
「……二対一って卑怯じゃありません?」
照り続ける日差しのように彼らの様子を騒がしく感じながら、繧ィ繧、繝吶Νは椅子を引き、そして座った。笑っていいのかわからなくて、彼は頬杖をつき、オセロの石が置かれるのを眺めた。
「リリオン、不正解だよ。いま四対一さ」
「ああ、もう……卑怯ですよ……」
───
「カンパニュラも、リリオンも。ほとんどみんな死んだよ」
梅雨を振り切れず、まだじめじめとした空気が残るころ。淡々としたトーンでそう告げられた。吐息と困惑が混ざりあって情けない声が出る。
「社長から話があるってよ」
黒髪の青年が手をひらひらとふってからオフィスを出ていく。作りかけの精神鑑定の結果がデスクに残されていた。冷たい息が首筋にかかり、髪になにかを結ばれたような感触がする。
「繧ィ繧、繝吶Ν。いや、リリー」
後ろを振り向くが、なにもいないために隣を見る。奇妙な男、ハイドレンジアが足を組んで微笑を浮かべていた。
「は?俺の名前は──」
「リリー。これからの、お前の名前」
彼は小指を差し出す。もう片方の手で、彼は住民票になにかを書き込んでいた。膝に手を置いたままにしておくと、床からひょろひょろとした触手がいくつも生えてきて、繧ィ繧、繝吶Νの手を無理やり膝から引き剥がし、小指を力づくでぴんと立てさせ、ハイドレンジアの小指と組み合わさる。高すぎる湿度を追い払うように風がびゅうと吹く。
「お前の名前は?」
「……リリー」
机に半分突っ伏すような形で彼はそう答えた。くちびるを強く噛む。よろしい、とハイドレンジアはそう呟く。
「誕生日プレゼント、よく似合っているな」
かつての兄たちがつけていたような黒いリボンがサイドテールには巻かれていた。
───
「ええ、申し訳ありません、申し訳ありません……」
ばちん、と頬を強く叩く音が聞こえた。
「だから!あんたの思ってもない謝罪なんていらないの!なんでわたしの管轄にありながら、こんなに葬儀人の犠牲が出てるのかって!こんなに死んだらほかの天使に無能って思われるでしょ!?やる気ある?ないよね!あったら死体安置所の箱は足りてるもの!そんなにあんたってわたしを貶めたいわけ!?わたしの地位や評価が揺らげばみーんな困るってわかんない!?」
「重々承知しております。ですが今回は……」
今度は重々しい音。おおかた、殴り倒されでもしたのだろう。部下への注意はきっちりしておかないとだめだ。どこかのゴミ捨て場さんみたくなるのはごめんであったが、オフィスでああも甲高い声でヒステリックに叫ばれると、気分がよくない。私情しか挟まれていない説教という説教は聞くにたえない。
ただ、三〇〇四年、リリーに約二ヶ月遅れでここの幹部になった原因の彼女は、普段はもうひとりの同僚と有名な喫茶店の新作をチェックしていたり、歳に不相応な少女らしい笑顔を見せているのだが、自分が加害者だと責められる場面や失敗においては話が違うので、みな諦めている節がある。
なぜだか部下のオフィスチェアに座り、大量の精神鑑定の結果を書いていた同僚の彼も舌打ちをして、あの白い髪を追うように駆けていった。
リリーは新入社員の確認を止め、耳奥まで刺さる怒声を聞きながら、いつか再会を果たすだろう兄と弟に思いをはせた。 冷めたコーヒーはより苦みを感じて、顔をしかめる。
空は、言い訳ができないほどにきれいだった。
コメント
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重い……すごく重いのに、読む手が止まらなかったよ。ゴミ漁りをする子ども時代から始まって、兄たちとの再会と喪失、そしてリリーとして生きていく決断。特にアリアの姿をしたレギオンと対峙するシーン、心臓がぎゅっとなった。ステラが「振り向くな」って叫ぶところ、切なすぎる……。最後の「冷めたコーヒーはより苦みを感じて」が、全部を語ってるみたいだった。続き、気になります……!