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しずまる@Shizuku
数校が集まる合同合宿。体育館の空気は、熱気と汗の匂い、そして独特の緊張感に包まれていた。
梟谷学園のマネージャーとして、ドリンクの補充に追われる留奈の視界に、ひときわ華やかな一団が飛び込んできた。
「おや、あそこにいるのは梟谷の新しいマネちゃんかな? 噂通りの可愛さだね」
聞き覚えのある、少し芝居がかった甘い声。
青葉城西の主将、及川徹が数人の部員を連れて歩み寄ってきた。彼はその場にふさわしくないほどのキラキラした笑顔を留奈に向ける。
「あ、えっと……青葉城西の……」
「そう、及川さんだよ。ねえ、君。梟谷の猛獣たちの世話は大変でしょ? もしよかったら、及川さんと少しお話ししない? 休憩中くらい、癒やしが必要だよ」
及川が、自然な動作で留奈の肩に手を回そうとした、その瞬間。
「……及川さん。うちのマネージャーに、余計な『癒やし』は必要ありません」
背後から、氷点下の冷徹な声が響いた。
振り返るまでもなく、赤葦京治だ。彼はタオルを首にかけたまま、無表情で二人の間に割り込んだ。
「おっと、赤葦くん。相変わらずガードが固いねえ。ちょっと挨拶してただけだよ?」
「挨拶に肩を抱く必要はありません。及川さんのプレースタイルと同じで、無駄が多いですね。……留奈、こっちに来て」
赤葦は留奈の手首を力強く掴むと、及川を無視してそのまま体育館の隅へと連れて行った。
その歩幅はいつもより大きく、掴まれた手首からは、彼の静かな怒りが脈動のように伝わってくる。
「……赤葦先輩、痛いです……」
「……ごめん。……でも、君がああやって無防備に笑いかけてるのを見ると、俺の中の計算が全部狂うんだ。及川さんは、君が思っている以上に狡猾だよ」
赤葦は壁際に留奈を追い詰めると、自分の大きな体で周囲の視線を遮った。
合宿所の古びた体育館。夕闇が差し込む窓の外からは、ヒグラシの声が聞こえてくる。
「……今日、夜の自由時間。……裏の倉庫に来て。……一人で」
「えっ……? でも、そんなことしたら……」
「……命令。……君が及川さんに向けたあの笑顔を、俺が全部塗り替えないと、明日の試合、一歩も動けそうにない」
無表情なはずの赤葦の瞳は、今、熱に浮かされたように潤み、言葉とは裏腹にひどく脆そうに見えた。完璧なセッターが、初めて自分からトスを放棄するかのような、危うい独占欲。
夜、合宿所の消灯前。
留奈はおずおずと、誰もいない裏の倉庫へと足を運んだ。
重い扉を少しだけ開けると、暗闇の中に、赤葦が一人で立っていた。
「……来たんだね、留奈」
彼は近づくと、留奈を優しく、けれど逃げられない強さで抱きしめた。
彼のジャージから香る、微かな石鹸の匂い。
「……及川さんに触られそうになった場所、全部教えて。……俺が、俺だけのものにするから」
赤葦の手が、留奈の腰を強く引き寄せる。
完璧な司令塔が見せる、計算外の、あまりにも人間味溢れる執着。
合宿の夜、二人の境界線は、静かに、けれど決定的に崩れ去っていった。
合同合宿最終日の朝。体育館は、全校の選手たちが放つ熱気と、終わりが近づく焦燥感に包まれていた。
ドリンクのボトルをカゴに詰め、コート脇へ運ぼうとした留奈の足が、不意に止まる。
(……首元、隠れてるかな)
昨夜、裏倉庫で赤葦先輩に付けられた小さな痕。
「及川さんに上書きされないように」と、熱っぽい吐息と共に刻まれたそれは、制服の襟を一番上まで留めても、動くたびにチラリと覗きそうで気が気でない。
「おーい! 留奈ー! ボトルくれ! 喉カラカラだー!」
木兎主将の爆音が響く。
慌てて駆け寄ると、そこにはすでにタオルを首にかけた赤葦先輩が、木兎さんの隣で待っていた。
「あ、はい! 木兎さん、どうぞ。赤葦先輩も……」
「……ありがとう。成井、顔色が悪い。寝不足か」
赤葦先輩は無表情のままボトルを受け取るが、その指先が、受け渡しの一瞬に私の手の甲を指の腹でなぞった。
心臓が跳ねる。
衆人環視の中、彼は平然と「独占欲」を小出しにしてくる。
「……っ、大丈夫です! ちょっと、昨日の夜……片付けに時間がかかって」
「……そう。あまり無理はしないように。……俺が困るから」
その時だった。
二人の間に流れる妙な空気感を、野生の勘を持つ木兎主将が見逃さなかった。
「……ん? ……んんん!? 赤葦、お前さっきから留奈のこと見すぎじゃね!?」
「……別に。マネージャーの体調管理も副主将の仕事です」
「嘘だ! お前、今、留奈がボトル渡した時、ニヤッとしたぞ! 0.1秒くらい!」
「……計算違いですよ。木兎さん、練習に戻りましょう」
赤葦先輩は淡々と木兎さんの背中を押してコートへ戻そうとするが、木兎さんは一度火がつくと止まらない。
「あーっ! 分かったぞ! お前ら、昨日二人で倉庫の方に……むぐっ!?」
赤葦先輩の手が、木兎さんの口を完璧なタイミングで塞いだ。
無表情のまま、けれどその瞳には、コート上の相手を完封する時のような、冷徹で容赦ない「静かな怒り」が宿っている。
「……木兎さん。それ以上は、今日のトスを全部マイナス一テンポにしますよ」
「……っ!!(それは困る!の顔)」
木兎さんが大人しくなったのを確認し、赤葦先輩は私の方を振り返った。
誰にも聞こえないほどの低い声で、彼は囁く。
「……隠し通すつもりだったけど。……邪魔が入るなら、いっそ公認にしてしまおうか。……効率は、そっちの方がいい」
「えっ……先輩……?」
「……成井。今日の合宿終了後、部室の後ろに来て。……逃がさないから」
完璧な司令塔が、ついに部内の規律さえも「計算外」として切り捨て始めた。
守護神のいない二人だけの空間で、赤葦先輩の暴走は、もう誰にも止められないところまで加速していた。
合宿の全日程が終了し、体育館の熱気は嘘のように静まり返っていた。
各校のバスが次々と校門を抜けていく中、私、成井留奈は、部室の裏手にある日陰に立っていた。
(……「逃がさない」って、先輩、あんな顔で言わなくても……)
心臓が、先ほどから耳の奥で警鐘を鳴らし続けている。
部活の副主将として、常に「効率」と「冷静さ」を重んじてきた赤葦先輩。そんな彼が、合宿中に及川さんや黒尾さんに見せたあの剥き出しの独占欲は、間違いなく私の知っている「完璧な司令塔」の計算を大きく狂わせていた。
「……成井。待たせた」
不意に背後からかけられた声。
振り返ると、着替えを終えた赤葦先輩が、スポーツバッグを肩にかけ、影を背負って立っていた。
夕闇が迫る部室裏。周囲にはもう誰もおらず、遠くで聞こえる蝉の声だけが、この静寂を強調している。
「あ、赤葦先輩。お疲れ様でした。……木兎さんたちは?」
「……木葉さんたちが無理やり焼き肉に連れて行った。俺は『忘れ物がある』と言って残った」
「……忘れ物、ですか?」
「……そう。昨日、倉庫に置き忘れた、君への答え」
先輩が、一歩。音もなく距離を詰めてきた。
彼が近づくたびに、私の背中は冷たい部室の壁に押し付けられる。逃げ場はない。
先輩は私の両脇に手をつき、私を自分の体で閉じ込めるようにして覗き込んできた。
「……木兎さんに勘づかれた。……及川さんや黒尾さんも、君を狙ってる。……これは、俺にとって最大の戦術ミスだ」
「……戦術、ミス……?」
「……君を『ただのマネージャー』として置いておけば、安全だと思ってた。でも、違った。……君が誰かに触れられるたびに、俺の脳内にある精密な回路が、一瞬で焼き切れるんだ」
赤葦先輩の無表情な仮面が、わずかに歪む。
その瞳に宿っているのは、冷徹なセッターの観察眼ではなく、一人の少女を失うことに怯える、剥き出しの「熱」だった。
「……成井。……俺と、共犯者になって」
「……共犯者?」
「……部内では、今まで通り『先輩と後輩』を演じる。……でも、二人きりの時は、俺以外の誰にも触らせない、見せない。……君の全部を、俺だけのものにするための誓約を、今ここで結んでほしい」
先輩の手が、私の頬を包み込んだ。
バレーボールを何万回と上げてきた、あの指先。
少しだけ硬いその感触が、私の肌を震わせる。
「……嫌なら、今すぐ走って逃げて。……俺は、追いかけるほど効率の悪いことはしたくない」
言葉とは裏腹に、私を閉じ込める彼の腕には、逃がす気など微塵もないような力がこもっていた。
私は、彼の熱に浮かされたような瞳を真っ直ぐに見つめ返し、震える声で答えた。
「……逃げません。……先輩の『計算外』なら、私が引き受けます」
その瞬間、赤葦先輩の瞳が、ふっと安堵したように揺れた。
彼はそのまま、私の首筋――昨日彼が刻んだ、まだ赤い痕の残る場所に、深く、深く顔を埋めた。
「……よかった。……これでようやく、明日からのトスを間違えずに済む」
夕闇に紛れて、彼は私の耳元で、誰にも聞かせてはいけないような甘い声で囁いた。
完璧な司令塔が、ついに自分という名の駒を、恋という名の盤上に投げ出した瞬間だった。
コメント
1件
あかーし!!良かったやん!