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交通渋滞の国道8号線、西村は今来た45kmの道のりを赤信号で止まり、青信号でも交差点に入れずを繰り返し、苛々としながら西泉にある北陸交通本社に向かっていた。ピーピーピーピーと無線が入る、配車室からだ。
「106号車、どうぞ」
「106号車お疲れ様でした」
(・・・げ、佐々木かよ)
無線機から聞こえたのは、ギャンギャンと小煩く吠える色付きサングラスを掛けたマルチーズ、いつも白いスーツに趣味の悪いネクタイを結んでいる事務方の|佐々木次長《ささきじちょう》の機嫌の悪そうな声だった。
次長のポジションは社長、部長に次ぐ管理職で、大人しく3階の事務所デスクに座っていれば良いものを時々こうして《《現場》》に降りて来ては下らない事ばかりを重箱の隅を突きながらグダグダと説教する。
「106号車、西村。お前、深夜勤務だったか?」
深夜勤務とは、タクシーに乗る客が殆ど居ない3:00から6:00の間を街の路肩で待機し、一銭の稼ぎにもならない憂き目に遭う、2ヶ月に1度回って来る当番の事だ。
「夜勤だよ」
「なら何で106号車が野々市のど真ん中を走っているんだ?えぇ?もうとっくに|帰庫《かえる》している時間だろう!?勤務時間の範囲をとっくに超えているぞ!子どもでも分かる規約くらい守れ!」
「何だよ、配車室から振られた予約配車だったんだぞ!」
「はぁ!?何だと!?」
ガガガと雑音の向こうでマルチーズが後ろを振り返って配車室担当者にギャンギャン噛み付いているのが聞こえる。
朝のこの時間帯なら顧客からの配車依頼の電話も多いだろうに、マルチーズのする事なす事、業務妨害以外の何者でも無い、御愁傷様だ。
「西村、お前、会社戻ったら反省書、書いとけ!」
「嫌だね、車洗ったら帰ってビールだよ、グダグダうるせえなぁ!」
「何だと!」
ガガガ、今度は配車担当者が小煩いマルチーズに何か耳打ちしているようだ。ぼそぼそとしか聞こえないが、俺の耳には確かに《《金魚》》と聞こえた。
「106号車どうぞ」
「106号車どうぞ」
「西村、帰庫後は帰ってよし」
「そうかよ、りょーかい」
マルチーズの鳴き声がピタリと止んだ。やはり金魚は《《普通ではない客》》なのだ。
9:20本社着
太陽は既に斜め上で車内のクーラーを切ると北陸独特の湿気が|纏《まと》わり付きそれが汗となって額にジワリと滲む。
(1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11)
西村は昨夜からの勤務時間を指折り数えた事を後悔した。
それは例えば軽く風邪を引いたと思い体温計で熱を測ると38、0℃でぐったりしてしまうアレに近い。
疲労感が半端ない。
タクシーの鍵、乗務員証、ドライブレコーダーからSDカードを抜き、サンバイザーから青いバインダーを取り出し売上金が入った黒いポーチを片手に2階への階段を上る。
売上金も重いが脚はそれよりも重くて思うように動かせない。ガヤガヤとこれから出庫のドライバーたちが清々しい面持ちで下りて来た。
「あれ、西どん。今上がりか?」
「どうせパチンコ屋の駐車場で寝込んでたんだろ?」
「ウルセェ、とっとと行けよ」
「言われなくても行くよ、お疲れさん」
「お疲れ」
ドライバーの姿が無い活気のない事務所、配車室は客からの入電がひっきりなしで右往左往している。
「おい、管理、誰か居ないのか?」
カウンターの奥に声を掛けるとひょろっとモヤシみたいな顔に銀縁眼鏡、ドライバーの勤務や運行状況、売り上げを管理する”運行管理者”の山田が書類の山を抱えておずおずと顔を出した。
(・・・・山田かよ)
「・・・お、お帰りなさい〜」
「ほれ、受け取れ!」
俺がタクシーの鍵とSDカードを山田に向かって投げると下手くそな少年野球チーム3軍選手の如く書類を撒き散らし、何とかSDカード《《だけを》》キャッチした。
「西村さん〜、|これ《SDカード》大事なんですから止めて下さいヨォ〜」
その間抜けな姿を笑い飛ばしていると山田はズレた銀縁眼鏡を直しながら、106号車のラベルが貼ってある棚にタクシーの鍵と乗務員証、SDカードを片付けた。
このSDカードには常に車内外の様子が録画され、客とのトラブルや事故の際の重要証拠となり、時には”事件容疑者”の移動経路捜査の為に警察署に提出する事もある。
ピーピッツ
飲酒検知器に運転免許証を置きストローで息を吹き込む。異常なし。
「はい、西村さんいいですよ〜」
事務所に置かれた4本の長机ではドライバーたちがその日の売り上げを運行管理表と照らし合わせて計算し、キャッシュディスペンサーに|放り込む《清算》作業を行う。
ブラック企業とも言える昨夜の仕事は管理表の25行目まで埋まりチケットでの営業は、(株)ユーユーランドの1件のみだ。
「・・・・あの金魚って何者なんだよ」
あの赤いワンピースと感情が乏しい碧眼が頭の片隅にチラついた。
「じゃあな、お先」
「あ、お疲れ様でした〜ぁ」
間の抜けた山田の声に見送られながら1階の休憩室に向かうと、今朝ホテルの待機場で|大欠伸《おおあくび》をしていた124号車の|北のじーさん《ドライバー》が呑気な顔で仲間たちと缶コーヒーを飲んでいた。
(・・・・喉乾いたな)
本来ならば何も飲まずに家に帰り至極幸せなビールを喉に流し込むのだが、この蒸し暑さがそうさせなかった。
俺がスラックスのポケットの中で小銭を探し自動販売機の前に立つとじーさんがいやらしい声色で喋り掛けて来た。
「おい、西村ぁ」
「なんすか」
ピーガタン、無糖のブラックコーヒーが水滴を弾いて自動販売機の取り出し口に落ちる。カチャンカチャン、中腰に屈んで釣り銭を受け取って制服のポケットに無造作に入れた。
「お前、赤いおべべの送りしたんだって?」
「なんすか、赤いおべべって」
「昭和生まれじゃねぇしな、童謡とか知らんだろ」
「知らねえスヨ」
缶コーヒーのプルタブを開けると安っぽいインスタントの香りが鼻をくすぐった。
「おべべってのはなぁ」
するとじーさんはパイプ椅子からガタリと立ち上がり缶コーヒーをマイク代わりにリサイタルをおっ始めた。周りの数人が微妙な手拍子で囃し立てる。疲労困憊の耳にはとても耐えられない地獄絵図。
🎵あ〜かいべべ着た可愛い金魚🎵
「べべってのは着てるモンだよ。赤いワンピースだったろ、金魚」
「・・・・・あぁ。着てましたね」
「|別嬪《べっぴん》さんだろ、色っペーし」
「そうすか?」
「なんかこう、乳が貧相なのも良い」
(あんたの好みだろ、ロリコン野郎が)
じーさんは下衆な笑い顔でパイプ椅子に座り直すとそれはギシギシと悲鳴を上げた。
「北さんが無線取らねーから夜勤の俺が行ったんすよ?佐々木には因縁掛けられるし眠いし最悪だよ。何で配車断ったんすか」
じーさんの名前は|北 重忠《きたしげただ》、五分刈りで額の真ん中にピンポンダッシュ出来そうな見事なホクロが付いている。そいつかホジホジと鼻の穴を弄りながらパイプ椅子にのけ反った。
「金魚、山代までとんでもねぇ早く行ってくれって言ったろ?」
「それはそうすけど」
「とんでもねぇよ」
「そうすね」
俺は天井を降り仰ぎコーヒー色の液体の最後の一雫を口に落とす。すると北のじーさんがちょいちょいと手招をした。
「なんすか」
「ま、良いからこっち来いって」
長机の側に寄るともう少し近く寄れとまた手招きし、チョイチョイと自分の耳を指す。俺に耳を貸せと言うのだ。面倒臭いジジィだ。
「なんすか、もう」
吐く息が臭い、淀んだドブの臭いがする。やはりここは地獄。
「日勤の奴が|あいつ《金魚》の配車断るのはアレがあったからなんだよ」
「アレ?」
北のじーさんが眉間に皺を寄せながら耳打ちする。
「・・・金魚な、あいつ乗ってる時に《《発作》》起こしやがったんだよ」
「発作?」
「あぁ、じーっと静かに座っていたかと思えば急にペラペラペラ話し出して大笑いしやがって。お前、どうだった?」
「あぁ、牛丼がどうとか喜んでましたよ」
腹を抱えて笑う。周囲のじーさんたちも何処かにやけて気持ちが悪い。
「西村、おまえ牛丼で済んで良かったなぁ!」
「そうすか」
それまで女子高生がクラスの片隅で内緒話をしていた風が、まるで選挙の街頭演説をするかの様にバカでかい声で高らかに話し始めた。
「あの嬢ちゃんなぁ、笑いながら運転している俺の首を後ろから絞めやがったんだよ!」
(・・・・・まじか。)
「|8号《国道》で事故るかと思ってゾッとしたぜ」
北のじーさんは自分の首を摩りながら俺の顔を見上げた。
「お前、大丈夫だったみてぇだな」
「・・・・途中急に笑い出しましたけど」
「あっぶねぇ」
「・・・・金魚の手首、凄かったんすけど、知ってます?」
「あぁ、岡田病院からの送りだろ?金魚イっちゃってるんだよ」
「マジすか」
北のじーさんは胸のポケットから萎びた革の運転免許証入れを取り出し、ペラペラと1枚の紙を取り出して俺に見せた。
それはピンク色に真っ赤なハートマークが乱れ飛ぶ《《名刺》》だ。
「金魚、デリヘル嬢なんだよ」
「そうなんすか」
「西村、おまえ、手ぇ出すなよ?」
「まさか、俺、嫁いるんすよ?」
北のじーさんはその名刺をまた大切そうに運転免許証入れに挟むと胸ポケットに仕舞い込んで言った。
「金魚ってのはな、雑食なんだよ。あいつら何でも喰うからな」