テラーノベル
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メリーランド州ベセスダ。
アメリカ国立衛生研究所(NIH)。
その広大なキャンパスの地下深くに、地図には存在しない「特別研究区画」がある。
生物学的安全性レベル4(BSL-4)を超える極秘扱いの、地球外——あるいは未知のテクノロジーを解析するために設けられた、合衆国の知の砦だ。
無機質なホワイトルームの中央、電子顕微鏡のモニターを囲んで、数人の白衣の男たちがどよめきを上げていた。
その中心にいるのはNIHの主任研究員であり、ナノテクノロジーの世界的権威であるミラー博士。
そして、ホワイトハウスから派遣された科学顧問のスタイン博士だ。
彼らの視線の先には、日本から極秘裏に空輸されてきた一本のインジェクター——『医療用キット』のサンプルがあった。
その貴重な一本は、ウォーレン大統領の決断により解析のために開封され、その中身をシャーレにぶちまけられていた。
「……信じられん。
分析機がエラーを吐き続けている」
ミラー博士が汗ばんだ額を袖で拭いながら呻いた。
彼の目の前にあるスペクトル分析の結果は、あまりにも支離滅裂だった。
「基本溶媒は純水と……アミノ酸、ブドウ糖。
ここまではいい。
だが、このタンパク質の構造は……」
博士はモニターの一角を指差した。
「魚だ」
「は?」
スタイン博士が聞き返した。
「魚由来のタンパク質です。
それも特定の深海魚や希少種ではない。
DNA配列の一部は、ごくありふれたアジやイワシに近い。
なぜだ?
なぜ最先端のナノマシン溶液の基材に、魚の絞り汁のような成分が使われているんだ?」
「……カモフラージュか?」
「あるいは、生体親和性を高めるための触媒かもしれません。
だが、真の驚異はその中を泳いでいる『彼ら』です」
ミラー博士が操作盤を叩くと、電子顕微鏡の倍率が最大まで引き上げられた。
モニターに映し出されたのは、エメラルドグリーンの液体の中で、幾何学的な陣形を組んで浮遊する無数の銀色の粒子だった。
「……美しい」
誰かがため息を漏らした。
それは機械というには、あまりに有機的で、生物というには、あまりに整然としていた。
サイズは数ナノメートル。
原子を直接組み上げて作ったかのような、継ぎ目のない完全な構造体。
「ナノマシンだ。
間違いなく」
スタイン博士が食い入るように画面を見つめた。
「自己複製機能を持っているのか?
動力源は?
CPUはどこにある?」
「分かりません。
現代の計測機器では、彼らの『表面』をなぞるのが精一杯です。
ですが見てください、この動きを」
ミラー博士がシャーレの中に、微弱な電流を流した。
瞬間、バラバラに浮遊していた粒子が一斉に向きを変え、整列した。
それはまるで訓練された軍隊の行進のように、あるいは一つの巨大な意志を持った生き物のように、滑らかに連携していた。
「芸術だ……。
これを設計した者は、工学者であると同時に最高の芸術家だ。
無駄が一切ない。
機能美の極致だ」
科学者たちの興奮は最高潮に達していた。
彼らは理解できないものへの恐怖よりも、目の前にある「答え」への知的好奇心に突き動かされていた。
「博士。
鑑賞会はそこまでよ」
背後から冷徹な声が響いた。
部屋の隅で腕を組んで立っていたのは、CIA長官エレノア・バーンズだ。
彼女は科学的な美しさになど興味はない。
彼女が求めているのは、血の通わない「数字」と「性能」だけだ。
「成分分析は終わったわね?
芸術的かどうかはどうでもいいの。
再現性は?
有効な投与量の閾値は?
それと……過剰投与した場合の致死量は?」
「あいや、長官。
今はまだ観察段階で……」
「急ぎなさい。
本当にこれが『魔法の薬』なのか、
それとも日本人が作った『ただの高い魚のスープ』なのか。
実証実験で証明して見せなさい」
彼女の目は、シャーレの中の奇跡を「未知の兵器」としてしか見ていなかった。
「……ええ、準備はできています」
ミラー博士は気圧されたように頷き、隣の実験ブースへと合図を送った。
ガラスの向こうには実験用のラットが固定されている。
その体は、見るも無惨な状態だった。
脊椎損傷、内臓破裂、多重骨折。
人為的に徹底的に痛めつけられ、瀕死の状態にある。
倫理委員会が卒倒しそうな実験だが、国家の最高機密下では倫理など紙切れ同然だ。
「検体番号R-704。
バイタル低下。
あと数分で死亡します」
「投与しろ」
機械的なアームが動き、極微量の医療用キット——一滴の十分の一ほど——を、ラットの静脈に注入した。
その瞬間だった。
ピクンッ!
死にかけていたラットの体が激しく痙攣した。
モニター上の心拍数が、ゼロになりかけていたところから一気に跳ね上がる。
「心拍復帰!
血圧上昇!
……見てください、患部を!」
高解像度カメラが捉えた映像に、全員が息を呑んだ。
潰れていた胸郭が、内側から膨らむように元の形に戻っていく。
折れた骨がパキパキと音を立てて接合し、裂けた皮膚がジッパーを閉めるように塞がっていく。
出血が止まるどころではない。
血痕そのものが代謝されて消えていく。
「……馬鹿な」
スタイン博士が呟いた。
「細胞分裂の速度が物理的限界を超えている。
熱量は?
エネルギー保存則はどうなっているんだ?」
「外部からのエネルギー供給なしで、これだけの質量再生を行っている……?
いや、ナノマシン自体が高密度のエネルギーバッテリーなのか?」
議論している間にも再生は進む。
30秒、内臓機能が全快。
45秒、神経系が再接続。
58秒、毛並みが艶を取り戻す。
そして1分ジャスト。
ラットは拘束具の中で暴れだし、金属の留め具を噛みちぎらんばかりの力で身をよじった。
その目には、実験前よりも強い生命力が宿っていた。
「……完了しました」
ミラー博士の声が震えていた。
「完全治癒です。
後遺症の痕跡すらありません。
それどころか……筋繊維の密度が上昇しています。
以前より『強化』されています」
実験室は静まり返り、やがて爆発的なざわめきに包まれた。
「神の領域だ……!」
「信じられん!
映像を巻き戻せ!
もう一度だ!」
「たった1分だぞ!?
死にかけの生物が1分で!」
科学者たちは子供のようにモニターに食い入り、何度も再生される奇跡の映像に見入っていた。
だが、エレノアだけは氷のような視線でモニターの数値を追っていた。
「博士。
その『強化』は意図された仕様(スペック)なの?
それとも副作用(バグ)?」
「え……?」
「答えなさい。
治癒を超えた身体能力の向上。
これが制御可能なものなのか、
それとも暴走の一種なのか。
兵器として運用する場合、そこが最も重要よ」
彼女の冷徹な指摘に、熱狂していた科学者たちが水を打ったように静まり返る。
彼女が見ているのは「医学の進歩」ではない。
「スーパーソルジャーの製造ライン」としての可能性だ。
エレノアはその様子を冷ややかに見つめ、懐からスマートフォンを取り出した。
ホワイトハウスへの直通回線。
「……大統領。
『シロ』です。
いえ、それ以上です。
日本政府の言っていたことは、全て真実でした」
◇
翌日。
実験のフェーズは最終段階へと移行した。
動物実験での安全性と効果が確認された以上、次に行うべきは一つしかない。
『人体実験』だ。
メリーランド州のNIH地下施設から場所を移し、さらに機密性の高い場所——ウォルター・リード陸軍医療センターの特別隔離病棟。
そこに一人の男が運び込まれていた。
元海兵隊員、ジェームズ・“ジム”・マクラーレン軍曹。
32歳。
中東での作戦行動中、IED(即席爆発装置)の直撃を受け、両手両足を根元から失った。
四肢欠損。
さらに内臓にも多数の損傷を負い、車椅子生活どころか、ベッドの上で管に繋がれて生きるだけの「生ける屍」となっていた男だ。
彼には家族もいない。
天涯孤独の身だ。
国のために全てを捧げ、その代償として絶望だけを与えられた英雄。
今回の被験者として、これほど適した人材はいなかった。
病室のガラス越しに、ロバート・ウォーレン大統領はその痛々しい姿を見下ろしていた。
「……彼に説明は?」
「済ませてあります」
エレノアが答える。
「『未承認の実験的治療を受けるチャンスがある。
成功すれば体は戻るが、失敗すれば死ぬかもしれない』と。
彼は即答しました。
『このままベッドのシミとして生きるくらいなら、悪魔の血でも何でも打ってくれ』と」
「……そうか。
勇敢な男だ」
ウォーレンは胸の前で十字を切った。
これから行われることは、医療という名の冒涜かもしれない。
だが国家のリーダーとして、その奇跡を見届けなければならない。
「始めよう」
医師団がジムを取り囲む。
執刀医の手には、日本から贈られた銀色のインジェクター。
残りの4本のうちの1本だ。
「投与します」
プシュッ。
首筋にナノマシンが注入される。
直後、ジムの体が弓なりに反り返った。
「うぐあぁぁぁぁぁッ!!!」
絶叫。
苦痛ではない。
失われたはずの手足の神経が一気に覚醒したことによる再生痛だ。
「モニター!
心拍数上昇!
代謝レベル計測不能!」
「切断面が……盛り上がっています!」
ウォーレンの目の前で、信じがたい現象が起きた。
包帯が解かれた肩と太腿の切断面から、白煙のような蒸気が立ち上る。
その中から、白い骨が樹木のように急速に伸びていく。
血管が蔦のように絡みつき、赤い筋肉繊維が編み上げられていく。
メリメリ、グググッ……。
骨が軋む音、肉が生成される音。
それはホラー映画の変身シーンのようでありながら、どこか神聖な荘厳さを帯びていた。
手のひらが形成される。
指が伸びる。
爪が生える。
皮膚が覆い、指紋が刻まれる。
足も同様だ。
失われていた大腿部から膝、脛、そして足先までが、見えない3Dプリンターで出力されるかのように実体化していく。
「……おお、神よ」
ウォーレンはガラスに手をついた。
ラットの時とは違う。
同じ人間が目の前で再生しているのだ。
その衝撃は、魂を揺さぶるものだった。
50秒。
55秒。
60秒。
蒸気が晴れると、そこには五体満足の男が横たわっていた。
切断されていたはずの手足は、傷一つない新品の状態に戻っている。
いや、それだけではない。
痩せこけていた胴体には隆々とした筋肉が戻り、顔色も血色良く輝いている。
ジムは荒い息を吐きながら、自分の両手を目の前に掲げた。
グーパーと握りしめる。
動く。
自分の意思で指が動く。
「……動く……。
俺の手が……!」
彼はベッドから上半身を起こした。
そして恐る恐る床に足を下ろした。
立つ。
自分の足で大地を踏みしめる。
「立てた……!
立てたぞォォッ!!」
ジムの咆哮が病室に響き渡る。
医師団から拍手が湧き起こった。
涙を流している看護師もいる。
直後に行われた身体検査の結果は、さらに驚くべきものだった。
視力、聴力、反射神経、筋力。
すべての数値が、彼が入隊した当時の——いや、特殊部隊員としての全盛期の数値を150%以上上回っていた。
ただ治っただけではない。
「強化」されている。
◇
観察室に戻ったウォーレン大統領は、興奮冷めやらぬ様子でソファに座り込んだ。
顔は紅潮し、手足が震えている。
「ハハハ……素晴らしいじゃないか……!
まさに神の薬だ……。
日本人は、とんでもないものを寄越したな!」
彼は笑いが止まらなかった。
恐怖と歓喜。
この力が手に入れば、アメリカは無敵になる。
負傷した兵士は即座に戦列に復帰し、老いた科学者は永遠に研究を続けられる。
「エレノア。
見たか、あの再生を。
あれはマジックじゃない。
現実だ」
「ええ、大統領。
素晴らしい効果です」
エレノアは冷静さを保ちつつも、その瞳には暗い光が宿っていた。
彼女はモニターの中ではしゃぐジムを見つめた。
「彼には……『新しい身分』を用意する必要がありますね」
「身分?」
「はい。
『四肢を失ったはずの退役軍人が、五体満足になって帰ってきた』。
そんなことが知れ渡れば、マスコミが殺到します。
秘密を守るためには、ジェームズ・マクラーレン軍曹には、書類上『死亡』してもらうのが一番です」
エレノアは淡々と言い放った。
「幸い、彼には身寄りがありません。
家族がいないというのは、管理する上では好都合です。
顔を変え、名前を変え、記憶以外の全てを消去して……国家の資産(アセット)として再雇用します。
一生監視付きの人生ですが、手足が戻った対価だと思えば、安いものでしょう」
ウォーレンは一瞬表情を曇らせたが、すぐに頷いた。
「……そうだな。
残酷だが、必要な措置だ。
彼を自由にして秘密を喋らせるわけにはいかん」
命を救うことと、自由を与えることはイコールではない。
国家の論理が、一人の男の人生を塗りつぶした瞬間だった。
エレノアはケースに残された3本のインジェクターを見つめた。
1本は分析で消費し、1本はジムに使用した。
残りは3本。
「大統領。
提案があります」
エレノアは声を潜めた。
「残り3本、貴重です。
ですが1本を……大統領ご自身が使用して健康を確保するのも、ありだと思います」
「……私が?」
「はい。
貴方は世界のリーダーです。
その健康と明晰な頭脳を維持することは、アメリカ合衆国にとって最大の国益です。
心臓の持病がおありでしょう?
それも完治します。
若返り、精力が戻り、より強力なリーダーシップを発揮できるはずです」
悪魔の囁きだ。
若返りと健康。
権力者が最も欲するものを、手の届く場所に差し出されたのだ。
「……日本には多額の寄付でも何でもすればいい。
交渉次第で、あと数本は融通してくれるでしょう。
ここはまずトップである貴方の健康確保が急務です!」
ウォーレンはインジェクターを見つめた。
これを打てば、胸の痛みから解放される。
老いの恐怖から逃れられる。
永遠に近い時間、権力の座に……。
だが。
ウォーレンは首を横に振った。
「……いや。よそう」
「大統領?」
「エレノア。
私を気遣ってくれるのは嬉しいがね。
私はまだ健康だよ。
心臓が悪いと言っても、薬でコントロールできている。
深刻ではない」
ウォーレンは自嘲気味に笑った。
「それに私の任期も残り少ない。
引き際は、美しくありたいものだよ」
「ですが……」
「それにだ、エレノア」
ウォーレンの目が政治家の——いや、国家の番人としての鋭さを帯びた。
「もし私がこれを使えば、前例(プレシデント)になってしまう」
「前例?」
「ああ。
私が『若返り』を手に入れたら、次の大統領はどうする?
その次の大統領は?
歴代の大統領が、こぞってこの薬を要求するようになるだろう。
『大統領になれば不老不死になれる』……そんな椅子に、まともな民主主義が宿ると思うか?」
ウォーレンは吐き捨てるように言った。
「権力者は死ぬからこそ尊いのだ。
期限があるからこそ、その責任を全うしようとする。
もし『不老の大統領』が誕生してみろ。
それはもう大統領じゃない。
独裁者(キング)だ。
……不老の大統領は、民主主義の敵だ」
エレノアは息を呑んだ。
彼女は、この老人の底知れぬ矜持を見た気がした。
ただの保身やスキャンダル逃れではない。
国家というシステムそのものを守るために、彼は個人の欲望を切り捨てたのだ。
「……恐れ入りました。
貴方は真の合衆国大統領です」
「よせ。買いかぶりだ。
単にニクソン以上の悪名を残したくないだけさ」
ウォーレンは照れ隠しのように肩をすくめた。
「議会を通さず、こんな未承認の薬を使用したら後が怖いしな。
……ここは保管がベターだ。
私の体よりも、もっと有効な使い道がある」
「有効な使い道ですか?」
「ああ。
難病患者でテストしたい。
それも、ただの患者じゃない」
ウォーレンは指を立てた。
「『アメリカの海道サクラ』を探すんだ」
「……!」
エレノアがハッとする。
日本が海道重工を取り込むために使った手口。
それを模倣しようというのか。
「経済界の大物、あるいは軍産複合体の重鎮。
その本人か、あるいは溺愛する家族が難病で苦しんでいるケースをリストアップしろ。
特に、次期政権に強い影響力を持つフィクサークラスがいい」
ウォーレンはニヤリと笑った。
「彼らを救う。
この薬を使って恩を売るんだ。
そうすれば彼らは私に……いや、アメリカ政府に、絶対の忠誠を誓うだろう。
日本の技術(ナノマシン)を守り、中国に対抗するための強固なバックアップ体制を、財界に作らせる」
「……国益優先ですね」
「そうだ。
私の心臓一つより、アメリカの産業基盤の方が重い。
それが大統領(プレジデント)の仕事だ」
ウォーレンは立ち上がり、背広を直した。
その背中は老いてはいたが、決して曲がってはいなかった。
「ジム軍曹の件は、君の言う通り処理しろ。
そして残りの3本……。
誰に使うか、慎重に選定に入ろう」
ウォーレンは窓の外、ワシントンの夜景を見つめた。
日本から届いた5つの奇跡。
1つは知識のために消え、1つは英雄のために使われた。
残る3つは、権力という怪物を飼い慣らすための鎖となるだろう。
「……ソエジマ総理。
君の贈ってくれた首輪、有効に使わせてもらうよ。
ただし繋がれるのは私じゃない。
この国の欲望そのものだ」
大統領の呟きは、夜の闇に吸い込まれていった。
神の薬を巡るゲームは、新たなフェーズへと移行しようとしていた。
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