テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
教室の戸口に立った瞬間、遥は足を止めた。
午後五時。誰もいないはずの空間に、かすかに人の声があった。
中では、蓮司が日下部の前に立っていた。
距離が──近すぎる。
まるで、何かを押しつけるような、強引な距離感。
「……へぇ、拒否しねぇんだ」
蓮司の声が、笑っていなかった。
けれど口元だけは、にやついていた。
「こんなことされても、さ」
その指が、日下部の制服の胸元をつかみ、襟をゆるめる。
ボタンに触れた蓮司の手は、あえてゆっくり、第一ボタンを外した。
日下部は、何も言わなかった。
抵抗もしない。
だが、それを受け入れているわけではなかった。
ただ、目を伏せていた。肩の筋肉だけが固く緊張している。
(……なんで、言わない)
遥は、戸の陰から見ていた。
喉が焼けるように痛い。
足が動かなかった。
(なんで……やめろって言わないんだよ)
「おまえがそうやって黙ってるとさ、勘違いする奴、いるぜ?」
蓮司の手はさらに滑って、日下部の喉元に触れた。
その指は、痕をつけるように首筋を撫でる。
性的な意味は明白だった。わざとだ。遥に見せつけるためだ。
──それでも、日下部は黙っていた。
声を出せば、空気が壊れる。
拒めば、もっと“何か”が起こる気がしている。
そんな怯えを、遥は日下部の肩の震えに見た。
(……助けろよ)
心の中の声が喚く。
(見てんだろ、俺? 俺が──ここで──)
蓮司が、日下部の顎に指を添えた。
「な? “こういう顔”……あいつ(遥)は、見たことねぇんだって」
遥の胸がひしゃげる。
視界が滲んだ。喉が熱くて、吐きそうだった。
けれど──声は出なかった。
足は、動かなかった。
(俺が……俺が、逃げなきゃ──)
(でも、逃げた。逃げたんだ)
その瞬間。遥の肩が震えた。
音もなく、彼は教室を背にして、走り出していた。
声をあげる代わりに。
その空間に、自分の感情を置き去りにして。