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双黒時代のなんの変哲もない中太です。恋愛要素薄め
ヨコハマの夜を象徴するのは、海鳴りの音でも、そびえ立つポートマフィアのビル群でもない。それらは単なる舞台装置に過ぎず、真にこの街を支配しているのは、重力と虚無のせめぎ合いだ。
中原中也は、自身の右手のひらを見つめていた。そこには何の変哲もない少年らしい皮膚があるはずだが、彼にはそれが、黒い炎を宿した異能の器にしか見えない。重力を操るという力は、裏を返せば、何にも繋ぎ止められない孤独の証明でもあった。
「中也、そんなところで突っ立っていると、まるで出来の悪い置物だね。ただでさえ背が低いんだから、もっと有効に空間を使いなよ」
背後から届いたのは、鼓膜を撫でるような、ひどく冷ややかで、それでいて甘い毒を含んだ声だった。振り返るまでもない。この世で最も忌々しく、そして最も視界から外したくない男、太宰治だ。
太宰はビルの屋上の縁に、危ういバランスで腰掛けていた。風に煽られた包帯が、死神の鎌の軌跡のように夜空にたなびいている。彼はいつも、生と死の境界線の上で遊んでいる。その姿を見るたび、中也の胸の奥には正体不明の焦燥が走る。
「……手前こそ、そこで何してやがる。また自殺の予行演習かよ」
「失敬な。これは瞑想だよ。どうすれば苦しまずに、この退屈な世界からおさらばできるか。君のような単細胞な重力使いには、一生理解できない高尚な悩みさ」
太宰はふっと目を細めて、遠くの街灯りを見つめた。その瞳には、光が一切宿っていない。世界中の光を吸い込んで、なお暗い、底なしの淵。
中也は彼に歩み寄り、その隣に並んで立った。肩が触れ合うほどの距離ではない。けれど、そこには「双黒」と呼ばれる二人にしか分からない、奇妙な磁場が存在していた。
二人はまだ十五歳だった。マフィアという泥沼に身を沈め、血を浴び、敵を屠る。それが日常だった。中也にとって、太宰は理解不能な怪物であり、唯一無二の相棒だった。だが、いつからだろうか。その「相棒」という言葉の裏側に、別の感情が根を張り始めたのは。
「なあ、太宰」
「なんだい、蛞蝓」
「手前は、いつか本当に死ぬつもりなのか」
太宰は可笑しそうに肩を揺らした。
「当たり前だろう。私の人生の目標は、清く正しく元気よく、自死を遂げることなんだ。君だって、いつか私が首を吊るための紐をプレゼントしてくれるって約束したじゃないか」
「……そんな約束、した覚えはねえよ。首を絞めてやるって言っただけだ」
「同じことさ」
太宰の声は、どこまでも軽やかだった。中也はその軽やかさが恐ろしかった。太宰にとって、自分という存在も、この街も、積み上げた戦果も、すべては指先からこぼれ落ちる砂のようなものなのだ。何一つとして、彼をこの地上に繋ぎ止める楔にはなり得ない。
中也は知っていた。太宰治という男は、誰の手も届かない場所にいる。彼が求めているのは救いではなく、無だ。そこには愛も、情も、熱も存在しない。
(……叶わない恋だとしても)
ふいに、脳裏にその言葉が浮かんだ。
それは自嘲だった。重力を操る自分ですら、太宰治という重さを持たない男を惹きつけることはできない。彼を地上に、自分の隣に留めておく重力など、この世のどこにも存在しないのだ。
それでも、中也の手は、無意識のうちに太宰のコートの袖を掴もうとして、空中で止まった。指先が微かに震える。
「中也、顔が赤いよ。風邪でも引いたかい? それとも、私の美貌に見惚れたかな」
「……あァ、そうだよ。手前の面を見てたら、反吐が出そうになって血圧が上がったんだよ」
中也は荒っぽく吐き捨て、視線を夜の闇に投げた。
二人はそれから、しばらくの間、無言で夜の海を眺めていた。潮風が吹き抜け、太宰の髪をかき乱す。中也は、この沈黙が永遠に続けばいいと願う自分と、一刻も早くこの場から逃げ出したいと願う自分に引き裂かれていた。
太宰という存在は、中也にとっての毒だ。触れれば侵され、離れれば枯渇する。彼と同じ空気を吸っているだけで、心臓の鼓動が不規則に跳ねる。それが恋などという、生ぬるい言葉で片付けられるものだとは思いたくなかった。だが、彼が他の誰かと笑い(それが演技であったとしても)、他の誰かと死を語る姿を想像するだけで、視界が真っ赤に染まるほどの憎しみと、それ以上の悲しみが押し寄せるのだ。
「太宰、俺は……」
言いかけて、中也は口を閉ざした。何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。好きだ、と言えば、太宰はきっと、この世で最も冷酷で美しい嘲笑を浮かべるだろう。あるいは、何も聞かなかったふりをして、翌日には跡形もなく消えてしまうかもしれない。
太宰治は、拒絶よりも恐ろしい「受容」をする男だ。どんな感情も、どんな暴力も、彼はさらりと受け流し、無に帰してしまう。彼に何かを期待すること自体が、最大の愚行なのだ。
「どうしたんだい? 改まって。もしかして、背を伸ばすサプリの相談?」
「死ね、青鯖。一生、その包帯にくるまって腐ってやがれ」
「酷いなあ。これでも君の戦略的パートナーなんだよ?」
太宰は立ち上がり、大きく伸びをした。そのシルエットが、月の光に縁取られて白く浮かび上がる。その瞬間、中也は彼が消えてしまうのではないかという錯覚に陥った。光に溶けて、空気になって、そのままどこか遠い、誰も知らない次元へと旅立ってしまうのではないか。
中也は思わず、太宰の手首を掴んだ。
骨張った、驚くほど冷たい手首だった。脈動は確かに感じられるが、それは機械的なリズムで、そこに「生」の熱狂は微塵も感じられない。
「……中也?」
太宰が不思議そうに首を傾げた。その瞳に、初めて小さな戸惑いが浮かぶ。
「……離さねえからな」
「え?」
「手前がどこに行こうと、どこで死のうと。俺がその魂を重力で地面に叩きつけてやる。地獄まで追いかけて、引きずり戻してやるよ。だから、勝手に消えるなんて真似は許さねえ」
それは告白ですらなかった。呪いだった。中也にできる精一杯の、愛の表明だった。
太宰は瞬きを数回繰り返し、それから、いつもの歪な笑みを浮かべた。
「おやおや、それは困ったな。地獄にまで君がいるなんて、それこそ本当の悪夢だ。私の安眠を妨げる権利は誰にもないはずなのに」
太宰は中也の手を振り払わなかった。ただ、じっとその温もりを見つめるように視線を落としていた。
「中也は本当に、暑苦しいね。まるで太陽のなり損ないだ」
「うるせえよ。俺は俺だ」
二人の間に、再び沈黙が訪れる。だが、先ほどまでの刺すような冷たさは、どこかへ消えていた。中也の手から伝わる熱が、太宰の冷え切った皮膚を少しずつ侵食していく。
中也は分かっていた。この夜が終われば、また二人は犬猿の仲に戻る。互いに罵り合い、殺し合いに近い任務をこなし、いつ裏切られるか分からない緊張感の中で生きていく。
そして、太宰はいつか必ず、自分の前から姿を消すだろう。彼が求めているのは、この泥濘のような世界ではないのだから。
(叶わない恋だとしても、構わねえ)
中也は心の中で、自分自身に言い聞かせた。
この手がいつか空を切り、彼を捕まえられなくなる日が来たとしても。この想いが一滴も彼に届かず、虚空に消えていく運命だとしても。
今、この瞬間の重力だけは本物だ。自分たちがここで、互いの体温を感じながら夜を過ごしているという事実だけは、誰にも奪えない。
中也は力を込め、太宰の手首をさらに強く握った。
「痛いよ、中也。そんなに強く握ったら、せっかくの綺麗な肌に跡がついてしまう」
「……跡がつきゃあいいんだよ。俺がここにいたって証拠だ」
「野蛮だねえ。マフィアの鑑だよ、君は」
太宰は溜息をつきながらも、その手を引き抜こうとはしなかった。
夜風が強くなり、二人のマントが激しくはためく。遠くでサイレンの音が鳴り響き、ヨコハマの街が騒がしく動き出す。抗争、殺戮、陰謀。彼らを待ち受けるのは、輝かしい未来などではなく、血塗られた闇の路地裏だ。
それでも、中也は前を見据えていた。
叶わない恋だからこそ、永遠に終わることもない。彼を支配できないからこそ、自分は永遠に彼を追い続けることができる。
「行くぞ、太宰。ボスからの呼び出しだ」
「えー、嫌だよ。私はここで星を数えていたいんだ」
「四の五の言わずに来い!」
中也は太宰の手を引いたまま、屋上から飛び降りた。
落下する感覚。重力が全身を支配し、景色が高速で流れていく。その一瞬の浮遊感の中で、中也は確かに感じた。太宰の手が、微かに自分の手を握り返したような気がしたのだ。
それが単なる反射だったのか、あるいは彼の気まぐれだったのかは分からない。
けれど、中也にとっては、それだけで十分だった。
二人の影は、夜の闇に溶け込み、一つの黒い塊となって地上へと降りていく。そこには救いも希望もないかもしれないが、確かに「二人」という最小単位の宇宙が存在していた。
叶わない恋だとしても。
その絶望こそが、中也を動かす、この世で最も強く、最も切ない重力だった。
マフィアの少年たちは、夜の喧騒の中へと消えていく。残されたのは、冷たいコンクリートの屋上と、誰にも届かなかった呟きだけだった。
中也は知っている。太宰の隣にいる限り、自分はいつまでも満たされることはない。喉を焼くような渇望と、胸を抉るような寂しさが、これからも自分を責め立てるだろう。
それでも、彼は太宰の手を離さない。彼が自分を嫌おうと、疎もうと、あるいは完全に忘れ去ろうと。
中原中也の重力は、太宰治という虚無を、この地上に留め続けるためにある。
たとえそれが、自分を破滅させるための力であったとしても。
二人の歩む道に、光は差さない。ただ、冷たい月の光だけが、彼らの背中を等しく照らしていた。
#旧双黒
#下手注意