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石田圭三郎の姿を認めた瞬間、彼の姿が浮かび上がって見えた。
恋は、人間の視野を、狭くする。
ダークグリーンのピーコートの前を開き、隙間からブレザーを見せる。ラフな着こなしだが、そのこなれた着こなしが彼への好印象を増加させる。この神社の境内で見る彼は、あまりに、美しく。晴子は、胸の高鳴りを抑えきれない。
「どうして……ここに」
「合格祈願。……と、まあ、朝江さんの健康……」
「それじゃあ、わたしと一緒だね」笑って晴子は圭三郎と肩を並べ、「ちょうどね。わたしも、圭三郎くんと朝江さんのために、お守りを買ってお祈りをしようかと思っていたの……」
「――圭、でいいよ」
冷えた空気のなかで、凛とした圭三郎の声が響く。間近に見る彼はゆったりと笑い、
「圭三郎って名前、長すぎるでしょう。言いづらいと思って、ぼくは、仲のよくなった人間には、圭、って呼ばせてるんだ。錦織っぽいけどね……」
――仲のよくなった人間。
ある程度、自分の価値が認められたということだ。圭三郎のなかで自分の占める割合はどのくらいなのだろう、と晴子は思う。
けども、悲しい現実を、彼女は、認めてしまう。
自分は、弟にからだを許し、また、それから間もなく別の男に心を奪われる、背徳者なのだ。
内心悲観に暮れつつ、晴子は質問を選ぶ。「圭の名前って、丸山圭三郎から取ったの?」
思わぬ慧眼に、圭三郎は驚いた様子だ。見開かせた目を即座に細め、「そうだよ。よく……知ってるね」
並んで手水舎に向かい、先ず、圭三郎がひしゃくで自身の手を清める。細い、白魚のような指先に、晴子は魅惑される。細いのにごつごつした関節が実に、男らしいと晴子は思った。
「弟が……読書好きだから。名前だけは……」
「――言葉は、言葉単体で意味を持つのではなく、必ず、不随する意味合いを持つ」続いてひしゃくで手を洗う晴子に目を向け、「『ハムちゃん』って聞くと、ハムスターのあの愛くるしいイメージが思い浮かぶよね。だいたい、ハムスターを嫌うやつが、『ハムちゃん』なんて呼称で呼ぶはずがない。つまり、『ハムちゃん』という愛称には、発言者の、ハムスターに対する、好意的な感情が含まれるわけだ。……言語学の世界は、奥が深い。なかなか、面白い……」
圭三郎の弁舌に身を委ねつつ、晴子は、圭三郎と、智樹の、意外な共通点を見出していた。――このひとも、ひょっとしたら。
(大の負けず嫌い?)
そして、誰かに理解して欲しいという思想の持ち主であることが読み取れる。でなければ、このような主張など、する必要がない。ひとり、自分の世界に閉じこもっていればいいだけの話だ。
暗に共感を求められ、晴子は、笑みを堪えきれなかった。
「嬉しいなあ……わたし」お参りをするために賽銭箱のほうへと向かう圭三郎に続き、「圭の世界の仲間入りを果たせたというのなら……これ以上嬉しいことは、ないよ」
すると段に足をかけた圭三郎が、蠱惑的に笑い、
「もっと、晴子ちゃんの喜ぶことをしてやろうか」
――なに?
圭三郎の整った顔が迫る――と、彼がなにをしようとしているのかを、晴子は本能的に悟った。
思いだされたのは、智樹の顔だった。
性交のさなか、狂おしげに、晴子のなかに、欲を放ったときの、あの表情――。
手加減など、しなかった。力いっぱい圭三郎を押し、反動で彼は、尻もちをついた。
その体勢のまま、圭三郎は平然と口許だけで笑い、
「――処女ってわけでもなさそうだ……」
思わぬ台詞に、晴子は、かっとからだが熱くなるのを感じた。
神社に寄ったのは、ポーズだけでも神頼みをしたくなったから。
自分は、神も仏も信じない人間であるが、家族と同居しているゆえ、型どおりの信仰心だけは見せる必要がある。クリスマスを祝い、バレンタインデーにはチョコを貰い、ホワイトデーにはお返しを。
馬鹿馬鹿しい、と彼は思う。
この世のすべてが、馬鹿げているとすら、彼は、思う。
誰も、彼も、自分を裏切った。信じた人間ですら結局ぼくを捨てた。結果彼が編み出したのは、無神論者になり、己だけを信じるという結論だった。
西河晴子と居合わせたのは偶然だった。運命の女神というものは、ひょっとしたら存在するのかもしれない。計略も策略もなしで、彼女と再会することなど、考えやしなかったのだから。だから――彼は、神に、感謝をした。この世に存在するか否か定かですらない神に。散々、彼を痛めつけてきた運命の神とやらに。
思い切って、一歩を、踏み出した。
けれど、結局彼を待ち受けるのは、拒絶――だった。
彼のなかの暴力的な彼が哄笑する。――それ見たことか。他人なんか簡単に信用するから、馬鹿を見る。早まったな。おまえ風情の人間では、結局西河智樹には勝てないのだ――。
西河智樹。生意気な人間だ。一目で、おれの隠し持つ悪魔を看破し、挙句、勝利宣言までしやがった。二歳年下とは思えない、堂々たる人間――姉への恋情を隠し持つことなどなく。
西河智樹が、あれほど姉に執着をしており、かつ、西河晴子が、明確に、石田圭三郎を、拒否した。性に疎い人間が、咄嗟に自己を防衛するのは、実は、難しい。
愛すべき者のために、自己を守らねばならないという、防衛反応。
愛だ、と彼は思った。結局人間の存在を守るのは、愛なのだ。愛しかない。
徹底的に、人間を痛めつけるものの正体も、結局愛なのだが。
見も知らぬ感情の威力にひれ伏す圭三郎がいる。――自分は、あまりに、無力だ。運命の女神という、強靭な精神を宿す者の作り上げる人生の流れにおいて。
それでも、抗うのが人間というものの使命なのではないか。
圭三郎は考えていた。表面上は、冷静さを取り繕いながらも、彼は焦っていた。焦りから、まともな結論など弾き出せないことは、分かってはいれど。晴子に拒否されるというまさかの事態が、圭三郎から冷静さを奪っていた。――ならば。
手を変えるほかあるまい。
一方、晴子は、唇を奪われかねないという事態に、怒りを覚えていた。
「わたし。本当は、圭のこと、『いいなあ』って思ってたんだけど、……撤回する。
女の子に、強引にキスしようとするだなんて、最低最悪以外の、なにものでもないわ……」
「許してくれよ晴子ちゃん」身を起こす圭三郎が、「ぼくは、……告白するとね。晴子ちゃんに、一目ぼれをしたんだ……だから。
きみが、ぼくに、ある程度の好意的な感情を抱いているということは、理解している。ならば――あまったるい展開もいいんじゃないかなあ、と思って……。
それに。偶然この神社で再会するだなんて、夢みたいでさぁ。
悪気はなかったんだ……。許してくれよ。晴子ちゃん」
「もう、二度としないと約束出来るのなら……」
顔を神社のほうに傾けたときだった。頬を包まれ、瞬間的に奪われていた。
息を呑む暇も、拒絶する暇も、今度は許されなかった。
一旦収束しかけた怒りが、彼女のなかで燃え上がる。怒りの眼差しで晴子が圭三郎を見上げれば、
「ご馳走様」と悪びれる風もなく、圭三郎が笑う。「やっぱり、きみ――処女じゃないね? キスを経験したことのない人間ならば、咄嗟に目を閉じるなんて芸当は、出来ないはずだ……」
弟の訓戒が裏目に出たか。内心で晴子は舌打ちをするのだが、
「きみが、処女でないことを知らされると困る人間はさぁて……この世にどれだけいるのかな?」
悪魔のように笑う圭三郎に、晴子は絶句した。
「あなた、いったい、なにを言っているの……?」
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