しみったれた空気は海に捨てました。
ヨコハマの海風は今日も今日とて、中原中也の最高級のハットを拐おうと虎視眈々と狙っていた。 しかし、今日の中也の機嫌は、そんな些細な風ごときでは揺るがない。何故なら、今日はポートマフィアと武装探偵社の「不可侵条約更新」という名目の、実質的な「合同休日」だからだ。
「……で、なんで俺が、わざわざ休みの日にテメェの顔を見なきゃならねェんだよ。死ね、青鯖」
中也は吐き捨てながらも、待ち合わせ場所であるショッピングモールの噴水前、既に三十分前から待機していた。口では罵倒しながら、手には太宰の好物である最高級の蟹缶が入った紙袋をぶら下げている。
「おや、中也。私の姿を見た瞬間に『死ね』なんて、それはもはや熱烈な求愛行動だね。深海魚の求愛ダンスかな? 派手な帽子を揺らして、とっても滑稽だよ」
背後から、いつもの、反吐が出るほど聞き慣れた軽薄な声が届く。 振り返れば、砂色のコートを翻した太宰治が、嫌がらせのように完璧な笑みを浮かべて立っていた。
「二十二歳にもなって、待ち合わせに五分遅刻するとはいい度胸だ。その足を重力で地面に埋めてやろうか?」
「ひどいなぁ、私はこれでも途中の川で『美味しそうな入水スポット』を見つけて、三秒ほど葛藤した末に君を選んだんだよ? 感謝してほしいね」
「三秒で切り捨てられた入水スポットに謝れ。……ほら、行くぞ」
中也は太宰の背中を乱暴に押し、人混みの中へと歩き出した。 依存でも、執着でもない。ただ、彼らにとって隣を歩く相手が「こいつ」であることは、呼吸をするのと同じくらい自然で、そして絶対に譲れない日常の権利だった。
二人が向かったのは、ヨコハマの喧騒から少し離れた場所にある、完全予約制のレストラン――ではなく、何の変哲もない、けれど活気溢れるアミューズメント施設だった。
「ねぇ中也、見てよ。あの射的、景品に『世界一まずい不老長寿の薬』があるよ! 私が当てるから、中也が代わりに飲んで一生私の犬として生きてよ」
「そんなもん当てるんじゃねぇ! つーか、お前の射撃の腕で当たるわけねぇだろ。どけ、俺が手本を見せてやる」
結局、二人は射的コーナーでムキになって競い合い、最終的には中也が景品の巨大なぬいぐるみ(よりによって青い鯖の形をした抱き枕)を大量に獲得し、太宰がそれを「中也の生き別れの兄弟だね!」と茶化して蹴飛ばされる、といういつものルーチンが繰り返された。
「……はぁ、疲れた。中也、おんぶして。私はもう一歩も動けない。このままここで路傍の石として余生を過ごすことに決めたよ」
「石は喋らねぇんだよ。ほら、これ食ってシャキッとせぇ」
中也が差し出したのは、先ほど買ったばかりの、焼き立てのクレープだった。 太宰は目を丸くし、それからひどく可笑しそうに肩を揺らした。
「マフィアの幹部がクレープ? しかもストロベリーチョコ生クリーム? 似合わなすぎて笑い死にそうだよ。毒殺の新しい手口かな?」
「うるせぇ、お前の分も買ったんだよ。ほら、食え」
太宰は差し出されたクレープを一口齧ると、ふっと表情を緩めた。 それは、偽りの「なお」を演じていた時のような計算された微笑みではなく、かつて地獄のような日々を共に潜り抜けてきた相棒にしか見せない、無防備で、少しだけ幼い顔だった。
「……甘いね。中也の脳みそくらい甘いよ」
「殺すぞ、クソ太宰」
夕暮れ時。二人は山下公園のベンチに座り、オレンジ色に染まる海を眺めていた。 手元には、中也が持ち込んだヴィンテージのワインと、太宰がどこからか調達してきた蟹の身。
「……なぁ、太宰」
「なんだい、中也。急にしんみりして。また身長が縮む予兆かな?」
「喧嘩を売るのを一分だけやめろ。……お前、今の生活は、どうなんだ」
中也の問いに、太宰はワイングラスを揺らし、その水面に映る夕日を見つめた。
「……最悪だよ。探偵社の連中は五月蝿いし、国木田君は毎日怒鳴るし、私の理想とする清く正しい心中相手は見つからない。……でも」
太宰はそこで言葉を切り、隣に座る、自分より少し背の低い男の肩に、ごく自然に頭を預けた。
「……君をからかう時間を確保できている間は、まぁ、この退屈な世界も、あと数十年くらいは付き合ってあげてもいいかな、と思ってるよ」
それは太宰治なりの、最大級の肯定だった。 中也は「重てぇよ」と文句を言いながらも、その頭を突き放すことはしなかった。それどころか、空いた方の手で、太宰の冷えた手を、包帯越しに強く、力強く握りしめた。
「……そうか。なら、俺も死ぬまでお前の面倒を見てやるよ。お前が地獄へ行くっつーなら、俺が重力でお前を地上に引き留めてやる。……お前の『さようなら』なんて、一生聞き届けてやらねぇからな」
「あはは。それはまた、随分と自分勝手な呪いだ。……でも、中也の呪いなら、案外居心地がいいかもしれないね」
海風が二人の間を通り抜けていく。 そこには、自分を殺してまで愛を乞う「なお」もいなければ、絶望の中で「愛していました」と呟いて消える幻もいない。 ただ、互いを罵り合い、けれど誰よりもその存在を必要としている、生身の二人の男がいた。
「中也、次のお休みは、私のプロデュースで『ヨコハマ入水ツアー』を敢行しよう。中也が浮き輪の代わりに私の体を支えるっていう、素敵なデートプランだよ」
「誰がするか! 次は俺のバイクでツーリングだ、三秒で振り落としてやるからな!」
「えぇー、乱暴だなぁ」
笑い声が、ヨコハマの夜に溶けていく。 ハッピーエンドなんて言葉は、彼らには少しばかり気恥ずかしいけれど。 明日も、明後日も、十年後も。 彼らはこうして、世界で一番仲の悪い「最強の相棒」として、騒がしく、愛おしい日々を、二人で、ただ二人だけで歩んでいくのだ。
「幸せか、太宰」
「……聞かなくても、分かっているくせに」
太宰は中也の掌を握り返し、満ち足りた顔で、ゆっくりと瞳を閉じた。 夜の帳が降りたヨコハマの街で、二人の心音だけが、確かなリズムで重なり合っていた。






