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しあわせなはなしだっピ(時代遅れ)
二十二歳。それぞれの居場所を持ち、それぞれが異なる正義や欲望に従う日々の中で、中原中也と太宰治は、今さら「まともな幸福」など求めてはいなかった。
ヨコハマの郊外にある、古い洋館。 中也の隠れ家の一つであるその場所で、太宰はリビングのソファに深く沈み込み、窓の外で降り始めた雨を眺めていた。
「……おい、太宰。何ボーッとしてやがる」
中也が、ヴィンテージの赤ワインを二つのグラスに注ぎながら声をかける。太宰は視線を動かさず、ただ、その薄い唇を微かに動かした。
「中也。……昔、誰かに聞いたことがあるんだ。世界で一番、しあわせなはなしって、どんなものだと思う?」
「あァ? 知るかよ。お前の大好きな、心中が成功する話か何かじゃねぇのか」
「いいや、違う。……それはね、『誰にも知られずに、二人だけでゆっくりと腐っていく話』なんだって」
太宰はゆっくりと首を巡らせ、中也を見た。その瞳は、深海のように底が見えず、けれど確かに、目の前のアルファ――中原中也という存在だけを、異常なまでの濃度で反射していた。
「お互いを憎み合い、傷つけ合い、それでも他の誰の手も借りられなくなるまで依存して、最後には世界から忘れ去られて消える。……ねぇ、それって、最高にハッピーエンドだと思わないかい?」
中也はグラスをテーブルに置き、太宰に歩み寄った。 そして、その細い首筋に手をかけ、強引に自分の方へと引き寄せる。
「……お前の『しあわせ』は、相変わらず胸糞悪いな」
中也の指が、太宰の肌に食い込む。 痛み。それは彼らにとって、愛よりも先に、自分たちが生きていることを実感させる唯一の記号だった。太宰は拒絶せず、むしろ自分から中也の重力に身を委ね、その耳元で熱っぽく囁く。
「中也。君が私の首を絞めるたび、私は自分が君の所有物になった気がして、とても安心するんだ。君の重力だけが、私の虚無を、この世に繋ぎ止めてくれる」
「……黙れ。お前のその減らず口は、俺が一生かけて塞いでやるよ」
中也は太宰の唇を、食いちぎるような勢いで奪った。 それは慈しみなどではない。執着、独占、そして相手を自分無しでは生きていけない体に作り替えようとする、傲慢なまでの支配欲だ。
太宰は中也の背中に腕を回し、その強固な鼓動を確かめるように抱きしめる。 ヨコハマの夜は、彼らを祝福しない。彼らの関係は、日の当たる場所に出れば、共依存という名の病理として切り捨てられるだろう。けれど、この薄暗い洋館の中で、互いの体温だけを灯火にする時間は、彼らにとって何よりも「純粋」だった。
「ねぇ、中也。……外は雨だよ。世界が水に沈んで、私たちだけが残ればいいのに」
「勝手なこと抜かすな。……だが、まぁ。世界が終わるその時まで、俺がお前を離してやらねぇのは事実だ」
中也は太宰を抱き上げ、寝室へと向かう。 窓を叩く雨音だけが、彼らの沈黙を埋めていく。
「……これは、誰にも読ませられない、私と君だけの物語だ」
太宰は中也の肩に顔を埋め、幸福のあまりに、微かに震えた。 お互いの人生を滅茶苦茶にし、未来を奪い、出口のない暗闇へと誘い合う。 それが彼らにとっての、世界で一番美しく、そして残酷な、しあわせなはなしだった。
東京湾の底に沈めたはずの過去が、泥のように足元にまとわりついても、彼らは笑うだろう。 この地獄のようなヨコハマで、隣にいるのが、世界で一番嫌いな「お前」であること。 それ以上の幸福なんて、彼らには必要なかったのだから。
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