当たり前のことだけれど、高層マンションでの暮らしは快適そのもの。
どれだけ登生が騒いでも気にする必要もないし、対面カウンターになっているキッチンでは登生の様子を見ながら料理もできる。
しいて言うならば、高そうな家具たちを登生が汚したり壊したりしないかが心配だけど、そんなことを口にすれば「すべて買い替えようか?」と言われそうで黙ることにした。
「登生って、普段何で遊ぶんだ?」
土曜日の朝。
朝食を食べながらいきなり聞かれた質問に、意味が分からず首を傾げる。
「何で遊ぶって?」
どういう意味だろう。
「荷物の中に登生もおもちゃがあまりなかったから」
ああ、なるほど。
確かに登生のおもちゃはあまり多くない。
あの狭いワンルームにはそれが精一杯だったし、昼間は保育園に行っているから困ることもなかった。
それに、私自身もそんなにたくさんのおもちゃを与えられた覚えはない。
「淳之介さんの子供の頃って、そんなにたくさんのおもちゃがあったんですか?」
「そうだね。この部屋よりも大きなところを遊ぶための部屋にしてもらって、おもちゃであふれさせていた。俺は電車や飛行機の乗り物が好きだったし、弟は動物が好きでそれぞれのおもちゃで足の踏み場もなかったな」
とても懐かしそうで、寂しそうな顔。
「登生も乗り物好きです。パトカーや消防車を見るとはしゃぎますから。それに、海の生き物が好きですね」
「ふーん」
イルカやクジラ、ラッコなんかを見るとテレビの前から離れない。
一度アジの塩焼きを食事に出したら大泣きされて、それ以降魚は切り身しか出さないことにしている。
***
「そうだ、今日は買い物に行こう。登生の食器も欲しいし、今履いている靴も小さくなっているだろ?」
「え、ええ」
この家にある高級食器を登生に使わせるのが怖くて、プラスッチックのものにしている。
さすがにほぼ使い捨てみたいな食器だし、そろそろ登生用にお茶碗とコップを買いたいなと思っていた。
それに子供の成長はとっても早いから数か月前に買った服や靴が小さくなっていて、お休みになったら登生を連れて買いに行くつもりだった。
でも、
「淳之介さん、忙しくないですか?」
せっかくのお休みを私達のために使わせては申し訳ない。
ただでさえ忙しいのに、せめて休日は休まないと。
「いいんだよ、気分転換だから。それに、僕も買い物したいしね」
「そうですか」
ならいいけれど。
淳之介さんと出かければ、登生はきっと大喜びするだろう。
でも登生が淳之介さんに懐けば懐くほど、私は不安になってしまう。
だって、この先マンションを出て淳之介さんと会えなくなったら登生は悲しむに違いない。
そのことを思うと、胸が締め付けられる。
***
「すみません、お待たせしました」
登生を着替えさせ、私も去年買ったワンピースにカーディガンを羽織った格好でリビングで待つ淳之介さんに声をかけた。
「準備はいいの?」
「ええ」
ハンカチと財布とケータイと、登生がぐずった時ようにお茶とお菓子も少し。
暑いからってTシャツ一枚しか来てくれなかった登生のために前開きのパーカーも一応鞄に入れた。
思ったより大きな荷物になってしまったけれど、3歳児を連れていれば仕方ない。
「じゃあ行こうか」
柔らかそうな生地のパンツにシンプルだけど高そうなTシャツ。その上からはどこかの雑誌で見た覚えのあるオシャレなジャケット。横に並んで歩くのをためらってしまうくらい絵になる淳之介さんがそこにいる。
「本当にいいんですか?」
「当たり前だろ」
玄関に向かっている二人の背中を私は追いかけていた。
ちょうど横を向くと全身が映るほどの姿見が壁に駆けられていて、私は足を止めもう一度見上げる。
はぁー。
「やっぱりやめた方がいいのでは・・・」
どう見ても淳之介さんに釣り合っているようには思えない。
「何言っているの。ほら行くよ」
登生と手を繋ぎすでに玄関を出ようとしている淳之介さん。
こうなったら私も、一緒に行くしかない。
***
まず最初に向かったのは老舗デパート。
私も何度か地下の食品売り場に来たことがあったけれど、まさかVIPルームに通されるとは思っていなかった。
「あ、ゾウさんだ」
テーブルに並んだ子供用食器の中から登生が手に取ったのはプラスチックのお茶碗。
確かに割れなくて、軽くて丈夫だと思うけれど・・・
「僕は、できればちゃんとした陶器の食器がいいと思うんだが?」
私はどう思うのかと聞かれる。
「私も大人と同じようなものがいいと思います」
もちろん割れる心配もあるけれど、陶器の食器を持った時の温かさを登生にも知ってほしいと思う。
「じゃあ、軽くて、丈夫で子供が喜ぶような磁器の食器を見せてください」
「かしこまりました」
消えていく店員。
しばらくすると、数種類のお茶碗を持って戻ってきた。
並べられたのは、小ぶりだけれど軽くて丈夫そうな動物やキャラクターが描かれた子供用の食器。
子供用とは言ってもちゃんと窯元の銘まで入った一品だ。
「登生、どれがいい?」
唖然とする私をよそに、お茶碗を選び始めた二人。
「ぼく、これ」
そう言って指さしたのは、クジラが大きくデザインされたもの。
「そうかそれがいいか」
満足そうに手に取った淳之介さんは、
「このシリーズで子供用の食器を一通りそろえてください」
何のためらいもなく、店員に告げる。
もちろん私は止めようとしたけれど、こんなところでもめれば淳之介さんに迷惑がかかるように思えて何も言えなかった。
***
結局、靴も服も家で遊ぶおもちゃも全て買うことになってしまった。
もちろん必要なものだから、購入することに反対はしない。
登生も喜んでいるし、選ばれた品も上質でセンスのあるものばかり。
ただ、ここに並んだ商品には一切値札がついていない。
そのことが、私は不安で仕方ない。
「お荷物はご自宅へお運びいたしましょうか?」
スーツを着た店員が淳之介さんに声をかけた。けれど、
「いえ、車で来ているので積んで帰ります。用意していただけますか?」
「かしこまりました」
支払いの話など一切することなく、買い物は終わったらしい。
この様子だと今ここで「支払いをします」と言っても聞いてはもらえないだろうな。仕方ない、家に帰ってから話をしよう。
「君も何か見たいものはないの?」
「え?」
急に私にフラれても言葉が出ない。
「ご希望のものがあればご用意いたしますが」
なにがよろしいですかと向けられる店員の視線。
うぅーん。
最近は登生のことばかりで自分のものはほとんど買ってないから、欲しいものがないわけではない。
でも、今じゃない。
「いいよ、必要な物があればまた来ればいい」
当然のように淳之介さんが言うけれど、もう二度と来ることはないと思う。
私の人生で出会うはずのない場所。ここはそんなところだ。
「いつでもご連絡ください」
側についていた女性店員の優しい笑顔。
「ありがとうございます」
一応頭を下げて、2時間ほどの買い物は終わった。
***
「りこちゃん、ペンギンだよ」
どう見ても新車とわかるワンボックスカーに備え付けられたチャイルドシートに座り、買ってもらったばかりの図鑑をうれしそうに見ている登生。
この車も二日前、いきなりマンションの駐車場に届いていた。
まさか買ったとは思いたくないけれど、怖くて聞けないまま今日を迎えてしまった。
「本当だ。ペンギン、かわいいね」
並べられたどんなおもちゃより、登生が気に入ったのが海洋生物の図鑑だった。
その証拠に、「じぶんでもつ」と言い張って今も車の中で眺めている。
「登生、次は本物のペンギンを見に行くぞ」
「ヤッター」
買い物を終えた後次はどこに行こうかとなって、淳之介さんが提案したのが水族館。
当然登生は大喜びで行き先はすんなり決まってしまった。
「いいんですか?」
「何が?」
だって、水族館までは車で1時間ほどかかるはず。
往復で2時間、向こうでの時間を考えれば、お休みが1日登生のためにつぶれてしまう。
それに、
「私や登生は車に乗っているだけだけれど、淳之介さんは運転もあるから疲れるんじゃないかと思って」
「いいんだよ。僕も楽しいから。それに、水族館なんて10年以上行っていない」
「ああ、私も」
この前行ったのは小学生の頃。夏休みの家族旅行の時だった。
「くじらもいるかなあ?」
「いや、クジラはいないけれど、イルカやラッコはいると思うわよ」
「イルカ、みるッ」
水族館に着く前から、登生は大興奮だ。
***
「わぁー、いるかさーん」
イルカショーに声をあげ手を振る登生。
水族館に入ってから登生はずっと興奮気味で、気を付けないと私の手を離しで駆け出すこともあるくらい。「ダメよ一緒に行こうね」って言えば素直に言うことを聞くけれど、色々な魚の展示が気になるのかすぐにでも走り出しそうな状態だった。
それでも何とか展示を回りイルカショーまで来た時にはお昼を過ぎていて、そろそろ食事をしないといけない時間。
「登生、これが終わったら食事にしましょ?」
「ええー。ぺんぎんは?」
「ペンギンはご飯を食べてから」
「やだー」
不満げな顔。
でも、ご飯は食べないといけないし遅れれば帰る時間も遅くなるから、早めに食べてしまう方がいいと思う。
「ほら登生、肩車してやるから」
へそを曲げてしまった登生の機嫌を取るように淳之介さんが登生を肩に乗せる。
「うわー、たかい」
うれしそうな声。
どうやらこれで食事に行けそうだ。
***
「いただきます」
水族館の中にある大きなレストラン。
私と淳之介さんはそれぞれシーフードとハンバーグのカレーを注文し、登生はお子様ランチにした。
「ねえりこちゃん、らっこもいる?」
「うん、ラッコもペンギンもいるよ」
「でも、ご飯を食べてからな」
「はーい」
それからも、ラッコやペンギンが気になって食事がすすまない登生は結局半分ほどしか食べなかった。
「もういいの?」
「うん」
きっと後でお腹が空いたって言うんだろうけれど、仕方ないかな。
今の登生にはペンギンやラッコのことしか頭にないだろうから。
「りこちゃん、いこう」
すでに椅子から降りようとしている登生を、
「登生、ご馳走様しなさい」
淳之介さんが止めた。
見ればちょっとだけ表情が険しい。
もしかして怒っている?
「ごちそうさまでした」
立ったままだけど一応ご挨拶。
それについて淳之介さんは何も言わなかった。
***
「登生、今日は土曜日で人も多いから絶対に璃子か僕と手を繋いでいること」
「うん」
「一人で行かないって、約束だよ?」
「はい」
とってもいい返事。
でもね、3歳児の返事は信用できない。
不安だなと思いながら、私は登生と手を繋いで歩いた。
「ああー、ラッコだ」
「こらっ」
言った側から駆け出していく登生。
すぐに淳之介さんが動いて、登生の手をとってくれる。
そんなことを何度か繰り返した。
週末の水族館は人出も多くて、親子連れやカップルでにぎわっている。
こんなところで子供を見失えばすぐに迷子になってしまうだろうから、私も登生の手を離さないように気を付けていた。
「りこちゃんおしっこ」
「はいはい」
えっと、トイレは・・・
淳之介さんにトイレに行ってきますと伝え少し歩いて廊下の端にあるトイレへ。
登生に用を済ませて手を洗わせて、
「私も手を洗うから待っていてね」
と言ったのに、
「ボスのところでまってる」
と駆け出してしまった。
すぐに追いかけようとしたけれど手は泡だらけで、やっとトイレを出た時には登生の姿は見えなかった。
***
「すみません、お待たせしました」
「あれ、登生は?」
「え?」
トイレから淳之介さんのいるところまではほんの数メートル。
いくら人が多くても迷うようなところではないから、戻っていると思っていた。
「ごめんなさい、先に戻るって、行ってしまったから」
止める間もなかった。
それに、わからなければ戻ってくるだろうと思ってしまった。
どうしよう、もし迷子になってどこかで泣いていたらかわいそう。
「とにかく探してみよう」
「ええ」
まずは登生を探すしかない。
近くのスタッフに事情を話し、迷子の届けが出ていないかを確認した後、登生が行きそうな場所に向かってみる。
「迷子の届けが出ていないってことは、1人で館内にいるってことだと思うんだ」
「ええ」
私もそう思う。
もし子供が泣いていればすぐに届け出があるはずだもの。
ってことは、もしかして・・・
「「ペンギン」」
私と淳之介さんの声が重なった。
***
水族館の中は、魚の絵と矢印で案内板が作られている。
字の読めない登生にだって、絵で描かれていればわかると思う。
と言うことは、1人でペンギン館まで行くこともできなくはない。
でもなあ、登生がそんなことするなんて・・・
「あっ」
いた。
まさかと思っていたのに、ペンギンの水槽の前でかぶりつきで見ている登生の姿を見つけた。
「登生っ」
「りこちゃん」
ああ、よかった。
無事でいてくれて、本当によかった。
駆け寄って抱きしめて、思わず涙が出そうになる。
もし登生に何かあったら、そう思うと生きた気がしなかった。
「登生、帰るぞ」
「えっ」「え?」
淳之介さんの言葉に登生と私の声が重なる。
見ると、淳之介さんの顔がすごく険しい。
「ぼく、まだぺんぎんみる」
登生はまだここにいるんだと聞きそうにないけれど、
「ダメだ。手を離さない、1人で行かないって約束を破ったんだから、もう帰る」
「ええー、ヤダよー」
大きな声をあげて泣き出した登生を淳之介さんが抱え上げた。
***
水族館を出て車に向かうまで、登生は泣き叫んでいた。
当然のように、周囲の人はなにごとだとこちらを見ている。
私は周りの目が気になって仕方なかったけれど、淳之介さんは平気な顔をして登生を抱えたまま歩いていた。
「やだ、やだよー、りこちゃーん」
まだ水族館にいたい登生は、私に助けを求めている。
こんな時、親としてはどうするのが正解なんだろう。
登生を引き取るにあたって、私は何冊もの育児書を読んだ。
怒ってばかりではダメで、でも悪いことは悪いと伝えないといけない。
両親が一緒に怒るのはダメで、どちらかが逃げ道になってあげる方がいいらしい。
でも、今回は登生が約束を守らなかったことが原因でこんなことになったし、一歩間違えば迷子になって事故や犯罪に巻き込まれることもあったかもしれない。そのことはちゃんとわからせないといけないと私も思う。
***
「なあ登生」
数日前に納車が終わったばかりの大きなワンボックスカーの2列目に登生を乗せ、自分も隣に座って淳之介さんが話しかける。
私はドアを開けたままの車外から様子を見ていた。
「何で怒っているかわかるか?」
「うん、ひとりでぺんぎんいったから」
「そうだな。登生は手を離さない、1人で行かないって約束したよな?」
「うん」
先ほどまでの険しい表情ではなくなった淳之介さんの、静かな口調。
登生もまっすぐに淳之介さんを見ながら聞いている。
「登生がいなくなって、すごく心配したんだぞ」
「・・・」
「あのまま迷子になったら、璃子にも俺にも会えなくなったかもしれない」
「そんなのやだっ」
「それをしたのは登生だろ?」
3歳児でもきちんと話をすればわかってくれる。2人を見ていてそう感じた。
淳之介さんは厳しく叱ったけれど、その行動は間違ってはいなかったと思えた。
「・・・ごめんなさい」
ポロポロと涙を流しながら謝る登生を、淳之介さんが抱きしめる。
その姿を見て私の方が泣いてしまった。
登生は私にも「りこちゃんごめんなさい」と謝ってくれた。
***
その後、もう一度水族館に再入場して、ペンギンやラッコを堪能した。
はじめて淳之介さんに叱られしばらくしゅんとしていた登生だったけれど、すぐに元気を取り戻し淳之介さんに甘えている。
そんな2人を見ながら、子育てって難しいなと一人落ち込んでしまった。
「登生は本当に海の生き物が好きなんだな」
感慨深そうに言う淳之介さん。
「そうね。理由はわからないけれど、お魚が好きみたい」
姉だって働いていたわけで、そう度々水族館に連れて行ったとは思わない。
動画や映像を見て好きになったのかもしれないけれど、ここまで好きだって言われると登生は本能的に海洋生物に惹かれているのかなって思ってしまう。
「そう言えば、登生はどこで生まれたの?」
「え、どこでって?」
聞かれている意味が分からず淳之介さんを振り返った。
「ほら、最近は水中出産とかあるだろ?」
「ああ。って、水中で生まれたからって海の生き物が好きになる訳ではないと思うけれど」
「そうか」
淳之介さんって、時々面白いことを言う。
きっとこういう人を天然って言うのよね。ちょっとかわいい。
***
「それで、登生が生まれた時のことはどのくらい知っているんだ?」
夕方近くまで水族館を楽しみ自宅に向かう車の中で、淳之介さんが聞いてきた。
もちろん生まれた時の体重や出産した病院、妊娠の経過は母子手帳でわかる。けれど、詳細までは分からない。
私も両親も姉の妊娠自体を知らなかったし、親しい友人がいたのかさえもわからない。
それを知りたくて私は『プティボワ』に勤めているのだけれど、今はまだ何の情報もない。
「姉は登生が生まれる半年以上前からハワイに行っていて、1年半ほど向こうで過ごしたらしいです」
「じゃあ、出産もハワイで?」
「ええ。日本にいないとわかっていたので私も連絡をとっていませんが、ずっとハワイにいたはずです」
「そうなのかぁ」
あれ?
なんだか声が暗い。
それっきり淳之介さんが口をきかなくなった。
ちょうど遊び疲れた登生が眠ってしまったこともあり、私も黙って車窓を見つめた。
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