テラーノベル
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──誰かが自分を見ている気がして、遥は振り返った。
けれど誰もいなかった。
西陽だけが、美術室の窓を斜めに切り取って、乾きかけた粘土像に影を落としている。
静かだ。
ずっとここにいたはずなのに、誰の気配もしない。
「……おまえさ、ほんと、気持ち悪いくらい動かないよな」
声がした。
粘土の後ろ。石膏像の影。そこから蓮司が出てきた。
彼はいつも通り、飄々とした笑みを浮かべていた。
けれど、その目だけは、底が抜けていた。
「動けないだけだろって? ちがうちがう。
違うんだよ遥、おまえってさ、動けないふりして、ちゃんと全部見てるよね」
遥は答えなかった。
「ねぇ、見てたでしょ? あのとき、日下部が殴られてたとき。
おまえ、ほら、手を止めもしなかったよね。粘土こねるふりしてさ」
一歩、蓮司が近づいてきた。
遥は指の間にまだ湿っている粘土を握ったまま、動かない。
「どうしてって、言わないの? あれ、助けようとしたんじゃないの?
見て見ぬふりのつもりだった? ……でも、視線、逸らしてなかった」
蓮司の声が、急に低くなる。
「──ほんとは、壊れるの、見たかったんでしょ?」
遥の肩が、わずかに揺れた。
「ねぇ遥。おまえさ、殴られてるほうが楽だって思ってるだろ。
誰かが壊されるの、見てるほうが、安心できるんだよな。
だって、次は自分じゃないから」
蓮司は遥の肩に触れた。
粘土のぬめりが、遥の手の中でひときわ強くなる。
「そういうの、ちゃんとわかってるよ。俺。
だって、おまえと俺は──」
間合いを詰めてきた蓮司の目が、遥の真正面を射抜く。
「──同じ側にいるって思ってるから」
そのとき遥は、ただ一つだけ思っていた。
逃げられない。どこにも。誰からも。
でも──こいつの言う“同じ側”だけには、絶対、いきたくない。
それが、自分の心の奥にかろうじて残った、最期の境界線だった。
──午後四時。
ひとりきりの教室に、乾きかけた粘土像と、濡れたままの手が残された。
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