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四時間目の国語の授業は、いつの間にか“別の時間”になっていた。 教科書は開かれていたが、誰も読んでいなかった。ページの隙間から覗くのは、スマートフォンの録画画面。教師も、教卓から目を逸らしたまま注意しない。
「じゃあ、今日の“朗読”は遥で」
指名されたとき、教室の空気が一瞬だけざわめいた。けれど、それはすぐに沈黙に変わる。
遅く、重く、遥は立ち上がった。机の横には、すでに誰かの手が用意した録音マイクが置かれていた。
「これ、声拾いやすいやつ。顔も映るから、ちゃんと前向いて読めよ?」
無理やり手渡された紙は、教科書の抜粋ではなかった。昨日、遥に“書かせた”自分語り──という名の告白文。
クラスで使う素材として、今日選ばれたそれは「朗読」として提出させられる。
遥は一行目を黙読し、息をひとつ飲んだ。
内容は、性的羞恥に近いものだった。
自分がどこを触られるのが一番嫌で、けれど反応してしまうこと。どんな言葉を囁かれると耐えられないか。そして、それを“嬉しかった”と最後に締めくくらされた文だった。
喉が詰まる。けれど、逃げ場はない。机の横では、教師が視線だけで「早く」と促していた。
「──おれは……昨日、教室の隅で……誰かに、首を掴まれて……そのとき……」
声は震え、目はどこにも定まらなかった。
笑いは起きなかった。ただ、静かにスマートフォンが構えられ、録音が始まり、誰も止めなかった。
「“いい子にしてれば、優しくしてやる”って……それで、もう、何も言えなかった」
遥の頬がひくついた。喉がひゅっと鳴る。
けれど誰も近づかない。教師も、机に肘をついたまま口を開かない。
「ちゃんと、聞こえるように読めって」
近くの生徒が言った。わざとらしい優しさを混ぜたその声に、遥は一度だけ口元を噛んだ。
「……やめろ、もう」
そう呟いた瞬間だった。
後ろの席から、教科書が飛んだ。
“読み切れなかった罰”という名目で、教科書の角が遥の後頭部に当たった。
「逃げんのかよ、クズ」
低い声。誰が言ったかも、もうわからない。
拍手が起きたわけではない。だけど、それを止める声もなかった。
遥は、唇を噛んで、紙を握りしめた。
声にならない声が喉に詰まる。
ただ、その震えすら、彼らにとっては“使える素材”だった。
紙を握る手が、震えていた。
湿った音が、教室のどこかで響く。
それが、誰かが笑いを堪えている音なのか、あるいは泣いているのか──誰も確かめようとしなかった。
遥は読み続ける。
文章の意味など、もはや彼自身にも分からなかった。ただ、声にする。それがこの場での“役割”だったから。
「……“優しくされるのが、怖い”って、そう……書かされた。……ほんとに、そう思った。怖かったんだよ……でも……っ」
そのとき、教壇の前列の女子生徒が、何かを机に落とした。ペンケースか、スマートフォンか。けれど、誰もそれに反応しない。
遥は立ち尽くしていた。
紙の中の文字を、ただ音に変える。
だが、その音は、もはや“声”ではなかった。
言葉が崩れ、かすれて、喉の奥で引っかかりながら、別のものへと変質していく。
嗤いも、咳払いも、溜息も、その中に混ざっていた。
誰もが、「それを止めることもできる」立場だったのに。
誰ひとり、止めなかった。
「……“やさしさに、なりすました支配がいちばん、きつい”……」
言い終えると、遥はわずかに顔を伏せた。
肩が上下する。泣いているのか、笑っているのか──誰も分からない。
いや、たぶんその“わからなさ”こそが、教室を支配する空気だった。
「なにそれ、詩人?」
「朗読コンクール出れば?」
誰かが茶化すと、小さな笑いが広がる。
黒板の横では、教師が腕を組んだまま、何も言わずに立っている。
それは“無力”ではなかった。“加担”だった。
「じゃあ、その続き、今度は音読じゃなくて、録音で頼むわ」
「場所は……そうだな、放送室とか? 声、ちゃんと響くからさ」
その提案に、誰かがクスクスと笑った。
そして、それを聞いた遥は──口を開いた。
「……おまえら、気持ち悪い」
誰かが息をのんだ。
反撃ではない。ただ、耐えられなかっただけの、絞り出すような本音。
「なに言ってんの、被害者ぶんなよ」
「自分で読んだじゃん」
机の上に、再び何かが叩きつけられた。今度は教科書ではなかった。
それは、小さなICレコーダーだった。
すでに録音ボタンが点灯していた。