『やっぱ、こっちのほうが落ち着くな。早よう徳貯めて、人間に生まれ変わりたいわ』
『あ、沙耶ちゃん髪の毛切ったんですね』
祐一が浜太郎と人間界に来ると、校内にはチャイムの音が鳴り響いていた。教師が教室のドアを開けると、開いていた廊下の窓から透き通った空気が流れ込み、淀んでいた教室の空気を洗い流した。運ばれて来たキンモクセイの香りが優しく教室の空気を支配していく。
祐一は、ほのかな香りを大きくを吸い込むと、懐かしく感じるそよ風との触れ合いを楽しんでいた。
『ああ、いい匂いだなぁ』
『そうか? なんか便所の匂いがせえへんか?』
『あれ? そう言えば死んでからずっと、匂いとか涼しさとか、そういう感覚が無かった気がするな。何で今は感じるんですかね』
『それはやな、霊体では目と耳でしか周りの事を感じる事が出来ひんかったからや。守護霊になると守護しとるもんの感覚がシンクロするようになるから、他の五感が蘇るんや。せやけど、守護霊になると他のもんの心の声は聴こえへんようになってまうんやけどな』
『へぇ、そうなんですか』
『まぁ、自分の守護しとるもんの心の声は聴く事ができるけどな』
浜太郎の話を聞いた祐一は、由美の後姿をじっと見つめた。
『ウソップの話、超長かったぁ』
『あ、ホントだ』
「やっと終わったぁ。沙耶、今日は家のバイトなんだよね?」
「うん。ずっといた人が独立しちゃったから、なんか大変みたい」
由美と沙耶は帰り支度を整え教室の外に出ると、手洗い場の前で立ち止まり楽しそうに話し始めた。
「由美は、翔太君とデートでしょ」
「全然デートじゃないよ、一緒に帰るだけだよ」
「じゃあ、途中まで一緒に帰ってもいい?」
「全然オッケーでしょ」
二人の話を聞いていた祐一は、眉間に力を入れた。
『翔太? おい由美、翔太って誰だ?』祐一は由美の頭に向かって尋ねた。
『そない言うたって、由美ちゃんには聞こえへんがな。翔太いうのは、由美ちゃんの彼氏やぞ。だいぶ前から付き合うとるがな。お前、知らんかったんか?』
『彼氏って』祐一は口を半開きにした『お父さんは、お前をそんな子に育てた憶えはないぞ!』祐一は由美の背中に向かって、唾を飛ばした。
『お前、何言うとんねん。由美ちゃん、もう高三やぞ。彼氏の一人や二人おったって、おかしないやろ。今時そんな事言う親父おらへんぞ、天然記念物もんやな、ほんま』浜太郎は呆れた顔をした。
『高三? いや、そんな事より、一人や二人って、他にも男がいるんですか!』
浜太郎の言葉に激怒した祐一は、浜太郎の喉元に手をやると、浜太郎の首を力強く絞め始めた。
『ちょ、何やこの手は、苦しいがな。な、なんで苦しいんや? た、例え話やがな、他に男なんておらんて。ちょ、首絞めるの、やめって!』浜太郎はもがきながら、祐一の両手に手をかけた。
『は! す、すみません』我に返った祐一は、慌てて手を放した。
『ゲホッ! ゲホッ! いったい、どないなっとんねん。ほんまに、ええかげんにせぇや! 死ぬかと思ったわ』浜太郎は苦しそうに首を擦りながら、祐一の顔を睨んでくる。
『なかなか面白い事を言いますね』
『ひとつもおもろないわ! ええか、由美ちゃんの彼氏の翔太ちゅうのは、優しくて思いやりのある、今時なかなかおらん好青年や。もっと由美ちゃんの事を信じて、大きい気持ちで見守ってやらんでどないすんねん! そんなんやったら、守護霊なんて務まれへんぞ!』
『そ、そうですね、気をつけます』
浜太郎に怒鳴られシュンとした祐一は、目の前の由美達に目をやった。すると自分達のやりとりに気付くはずのない由美と沙耶に、何故かちょっとした異変が起こっていた。
「沙耶、なんか顔色悪いけど、大丈夫?」
「うん。なんか今、突然息苦しくなったけど、もう大丈夫。由美のほうこそ恐い顔してたけど何かあったの?」
「ううん、全然何にもないよ。だけど何かわからないけど、突然イラッとしたんだよね。まだ生理じゃないし、何だったんだろ」二人は虚空を見ながら首をひねっている。
『ほら見てみい、お前が俺の首絞めよるから沙耶にも影響が出とるがな』
『え、何で?』祐一は訳が分からず、由美の横顔を覗きながら頭を撫でた。
『そりゃお前、守護霊である俺が苦しい想いをしたからや。さっき守護霊と守護しとる者は一蓮托生なんやって教えたったやろ。お前が怒ったから、由美ちゃんかてイラッとしたんやないか。ええか、守護霊は感情的になったらあかんねや。守護霊の感情は全て守護しとる者に影響するんやからな。どんな事があっても、常に平常心を保たなあかんで! 平常心を!』浜太郎は真剣な顔をして偉そうに言った。
『わかりましたよ。何も、同じ事を二回も言わなくてもいいじゃないですか』
祐一がブツブツと呟いていると、階段を下りて来た一人の男子生徒がこっちを見て近づいて来る。祐一は、まさかと思いながら目の前にやって来た男子生徒の顔を見上げた。
「由美、翔太君来たよ」
「あ、うん」由美はうつむくと、もじもじとし始めた。
『こ、こいつが翔太かぁ』
『おい、さっき俺が言った事わかっとるよな。平常心やぞ!平常心!』
浜太郎の言葉を理解しようと努力する祐一だったが、自分とは違ういけ好かない顔をした翔太の顔を見ると、次第に怒りが込み上げてきた。
『しかし、相変わらずのイケメンやなぁ。次生まれ変わる時は、こんな顔に生まれたいわ』
「ごめん由美、待った? 加藤達に捕まっちゃってさ。そんなに怒るなよ」
「え、全然怒ってないよ」
『睨むなっちゅうねん』
祐一は、浜太郎に頭を叩かれた。
「翔太君、途中まで私も一緒に帰ってもいい? 家の手伝いがあるからすぐにいなくなるし、二人の邪魔はしないからさ」
「べつにいいよ。そんな事気にすんなよ」
楽しそうな様子の由美の後ろで祐一が実に面白くない感情に浸っていると、背の高い翔太の陰に隠れていた翔太の守護霊が翔太の頭の上からヒョイとしょぼい顔を出し、嬉しそうに話しかけてきた。
『よお! ちっとも連絡よこさんから、どうしたのかと思っとったが。お前さん、この娘さんの守護霊になったのか』
『あ! ジジイ! 何で、ここに?』祐一は目を丸くした。
『翔太は、わしの孫なんじゃよ』
『へえ、爺さんが翔太の新しい守護霊なんや。お前、この爺さん知っとるんか?』
『ええ、まぁ。色々、お世話になったというか・・・』祐一は、階段を降りる由美の後ろで口をすぼめながら言った。
『世話になったのに「ジジイ」呼ばわりはないやろ、ちゃんとせなあかんぞ』
祐一は口を尖らせ、下駄箱の脇に置かれた傘縦に目をやった。
『こちらさんは?』お爺さんは祐一に尋ねたが、祐一はそっぽを向いていた。
『ああどうも、どうも、私はこの沙耶の守護霊をしとる、浜太郎ちゅうもんです。浜ちゃんと呼んで下さい。宜しく』
浜太郎が手を差し出すと、お爺さんは浜太郎の手を握った。
『そうですか、こちらこそ宜しく。何やら、うちの翔太と、この娘さんが付き合っておると聞いたんじゃが。そうか、お前さんの娘じゃったのか。何だか知らんが、お前さんとは随分と縁があるようじゃのう』
祐一は、妙な腐れ縁を感じるお爺さんと寄り添いながら由美達と共に校門を出た。沈みゆく夕日を追うように緩やかな坂道を下って行くと、新しく出来た住宅街からカレーの匂いが漂ってきた。
『この辺り、もうこんなに家が建ったんだ』祐一は真新しい綺麗な家々を見回した『美味そうな匂いだなぁ』
『そうじゃな』
『夕ぅ焼け、小焼けで、日がくれてぇ~、かぁ』
浜太郎はチャイムに合わせ、ずれた音程で歌った。浜太郎の歌に怒ったのか、力強い羽音が祐一の頭を掠める。
『うお! スズメバチだ』
背筋をゾッとさせるスズメバチは、住宅の庭先の木に出来た小さな蜂の巣に止まった。
『この時期は、多いのう』
『ミツバチやられてもうて、可哀想やなぁ。うわっ! サブイボ立ってきた。やっぱり虫だけには、絶対なりたないわ』
祐一は、天敵であるスズメバチに、無残に殺されていくミツバチの姿を見つめた。
『どうして、人間には天敵がいないんですかね?』
祐一の言葉に、二人は戸惑った様子を見せた。
『何や、いきなり』
『だって、人間には天敵がいないのって、おかしくないですか? ミツバチとスズメバチとまではいかなくても、ハブとマングースみたいなライバル的な存在がいても、おかしくないと思うんだけどな。人間だけが言葉を話して、高い知能も持ってて天敵もいないなんて、おかしいと思いませんか? 皆、同じように進化してきたのなら、しゃべる犬や、猿の学者とかがいても、不思議じゃないと思うんだけどなぁ』祐一は、昔から心の中に抱いていた疑問を二人にぶつけた。
『そんなんおったら、マンガやろ』
『そうじゃな。まぁ、人間の天敵は、人間自身という事なんじゃないのかねぇ』
はっきりとした答えの出ないまま、祐一は由美に引き連れられていく。家の庭先に横たわり、大きなあくびをしている犬は、何の悩みも無いように見える。自分が何故そこに存在しているのか、そんな事には全く興味が無いのだろう。
住宅街を抜けると、鯉のいる川に突き当たる。この川の鯉を釣ると、すぐそこにある公民館のオヤジに怒鳴られる。川沿いの道を左に曲がりしばらく進むと、懐かしい駄菓子屋が見えてきた。その先には恐い神主のいる神社がある。由美達は駄菓子屋の前で足を止めると、狭い店の中へと入って行く。どうやら学校帰りにここに寄道するのがお約束になっているようだ。
「婆ちゃん、お客さんだよ」
レジに座りゲームをしていた店の坊主がのれんの奥に声を掛けると、ちゃぶ台に座ってテレビを見ていたおばちゃんが店に出てきた。おばちゃんの守護霊は昔の兵隊さんのような格好をしている。おばちゃんの守護霊は携帯のボタンを押し、祐一達に向かって敬礼すると、ちゃぶ台に戻りテレビの前に浮かんだ。
「いらっしゃい。今日はもう学校終わりなの?」
「うん。おばちゃん『みつ杏』売り切れなの?」由美はみつ杏の箱を手に取り覗き込んだ。
『お前、昔からそれ好きだな』
おばちゃんが駄菓子が並ぶ台の下の扉を開け、ゴソゴソと始めると、坊主に憑いていた懐かしいお婆さんが祐一に話しかけてきた。
『あれま、あんた田辺さんとこの子じゃないのかい?』
『あ、婆ちゃん。懐かしいなぁ。俺の事、憶えててくれたんだ』喜んだ祐一は、中学の頃に死んでしまったお婆さんとの淡い思い出に浸った。
『忘れる訳がないだろ、あんたほど店の物かっぱらった悪ガキは他にいないからね』
『で、ですよねぇ』祐一は苦笑した。
『それよりあんた、まだ若いのに、もう死んだのかい?』
『え、ええ、まあ』祐一は苦笑しながら頬を引きつらせた。
『まったくしょうのない子だねぇ。悪さばっかりしてるから、そんな事になるんだよ。きっと罰が当たったんだね』
『なんや祐ちゃん。お前そない悪かったんか?』
酢イカを食べる沙耶の後ろから浜太郎が話に割りこんで来た。祐一は浜太郎の顔を見ると、口をとがらせ、視線を逸らした。
『悪いなんてもんじゃないよ。そこの神社でしょっちゅう賽銭かっぱらって、そのたんびに神主に追っかけられちゃあ、店の中に逃げ込んで来るは・・・』
『賽銭盗んだら、あかんやろ』
『そんな事、あったけかなぁ』
翔太は店の奥で懐かしいハコスカのプラモを見ている。お爺さんはゼロ戦のプラモに興味を引かれているようだ。
『コソコソと、あたしの目を盗んで店の物かっぱらって行っちゃあ、当たりが出ると堂々と当たりクジを持って来るんだから。まったく図々しいったらありゃしない』
『そら、あかんな』
『このフィリックスのガムが、よく当たるんですよねぇ』
沙耶は味おんちなのか、酢イカを食べ終えるとビックカツには目もくれず、ヨーグルを手に取った。
『終いにゃ、変な学生服着た仲間と、表にあったガチャガチャを機械ごとかっぱらって行っちゃうんだから。あの時はさすがのあたしも腰抜かしたね。よっぽど警察に突き出してやろうかと思ったよ』
『お前、ひどいな』
『いやぁ、どうしても「キン消し」が。まぁ、若気のいたりですなぁ』
由美は箱から出されたみつあんずを5個も手に取った。
『コラ由美、そんなに買ったら、夕飯食べられなくなるぞ』
『あたしが死んだ後も、ずっと悪さばかりしてたんだろ。ちゃんと神様は見てるんだよ』
『由美、早く金を払って店を出ろ!』
誤魔化しきれなくなった祐一は、レジの前でクジを見ている由美を急かした。
『ちょっとあんた、ちゃんと聞いてるのかい?』
祐一は間を稼ぐために、目の前にいた坊主に話しかけた。
『おい坊主、親父の茶坊主は元気か?』
『誰が茶坊主だい! 貴志が教えてくれてなきゃ、あんたに店の物全部かっぱわれてるとこだったよ!』
『なんや、それで茶坊主か』浜太郎は、ケラケラと笑った。
「毎度ありがとね。みんな気を付けて帰るんだよ」
「はーい」
自慢の娘の由美は、きちんとお金を払うと、店の中を見回しながら出口へと向かって行く。
『まったく、由美ちゃんはほんとにいい子だよ』
お婆さんの言葉を聞いた祐一は、誇らしげに由美を見つめた。由美は、小学校では学級委員に選ばれ、中学校では生徒会の副会長に選ばれた。祐一が小学生の頃には、悪さをしては学級会にかけられ、中学では副番長にしかなれなかった。
『トンビがタカやな』
浜太郎の言葉を聞いた祐一は、由美を見つめながらふと自分の子供の頃を思い返した。
祐一の父親は昔ながらの雷親父で、悪さをする度に祐一は怒鳴られ、殴られた。祐一の家では、父親、母親、祐一、陽二というヒエラルキーが確立されていて、父親には絶対に逆らう事が出来なかった。祐一が小1の時に、拾った百円でアイスを買って帰ると「何故拾った金を勝手に使った」と怒鳴られた。そして大きな手で体を押さえつけられると、熱いお灸を手に据えられた。その火傷の跡は、死んだ今でも右手に残っている。食事をしていて思わずお椀やコップを倒してしまうと、まずいと思った瞬間に岩のようなゲンコツが落ちてきた。父親が仕事から帰って来る前に風呂に入り終えていないと「何でまだ入っていない」と殴られたし、日曜の朝早くに弟と騒いでいると、起きて来た父親に「うるさい」と殴られた。夕飯の時には、母親に昼間の悪さを言いつけられ、「またやったのか」と殴られるのが日課だった。家では父親の顔色を伺い、自分の名前が呼ばれると身を強張らせた。父親の呪縛から解放される外では、羽目を外して夢中で遊びまくった。夕方家に帰ると、悪さを隠す嘘をつき、嘘がばれると、また殴られた。そうやって育った祐一は、いつか自分の子供が生まれたら、絶対に自分と同じ思いはさせないと強く心に誓った。
『そない悪かったのに、よくもまあこれだけええ娘に育てられたな。きっと嫁さんが良かったんやろな』
『きっとそうだね。奥さんにちゃんと感謝しなよ』
祐一は静かに笑うと、晶子の事を思い返した。確かに晶子のやんわりとした性格が由美を優しい子に育てた。しかし、晶子には意外と天然で、危ういところもあった。祐一はそんな晶子の事をフォローしながら由美を育てた。祐一の中では親と子に格差などなかった。どんなに小さくても一人の人間なのだと考え、接した。『子供は未来』であり、親は子供に正しい道を教えると同時に、子供が跳び箱を越えるための踏み台にならなければならない。高く積み上げられて行く跳び箱を越えさせるために、子供を力いっぱい押し上げる事が親の務め、踏まれてなんぼだと考えた。祐一は、力ではなく言葉を使って由美のことを育てた。なるべく由美が理解出来る言葉を選び、面倒くさくても分かり易く物事について教えた。友達にお菓子を分けてあげない由美を見れば、自分がお菓子を分けて貰えなかったら、どんな気持ちになるのかを考えさせた。自分の大切な物が盗まれたら、悲しい気持ちにならないかと問いかけた。一度嘘をつけば、ずっと嘘をつき続けなければならなくなる。嘘をつくよりも、正直に生きるほうが、皆から信用されるし楽なんだよ。自分がされたら嫌な事を人にしてはいけない。そして人を馬鹿にしてはいけない。どんな人でも必ず一つは自分には無い良い所があり、それを素直に認め、学ぶ事が出来れば、自分はより大きく育つことが出来るんだよと教えた。真っ白に生まれてきた由美を出来るだけ白いまま育てようと、いつも頭をひねってきた。子供というのは、力で抑えてもバネのように反発するし、短い言葉で怒鳴っても意味がない。何故ダメなのかをちゃんと説明しなければ理解はしないという事を祐一は自分の経験から学んでいた。その経験を生かした結果が、自慢の娘、由美だった。
『由美ちゃん、ほんとにあんたの子かい?』
お婆さんの言葉に、祐一はカチンと来たが、グッと堪えた。
『由美、うまい棒はいいから、早く外に出なさい』
由美が店のクソボロい扉をガラガラと開け、やっと外へ出ると、それを待っていた祐一はクルリとふり向いた。
『うるせぇババァ! 死んじまえ!』
『なかなか面白い事を言うのう』
『なんだって! ちょっとこっちにおいで!』
『うるせぇ! こんな店二度と来るか! バーカ、バーカ!』
『明日も、また寄るんちゃうかな』
昔のように、ハタキを持って追いかけられると思った祐一はニヤリと笑うと、いざとなったら天界に逃げようと携帯を手に取り待ち構えた。しかしお婆さんは、じっとこっちを見つめたまま祐一のことを追いかけてこようとはしなかった。
『まったく、いつまで経ってもそんなんで、あんた大丈夫なのかい。あたしゃ心配でしょうがないよ』お婆さんは、しわだらけの顔を更にクシャクシャにさせた。
『なんだよ、婆ちゃん・・・』
『わしらが、ちゃんと教えていくから大丈夫じゃよ』
『そうそう』
祐一は、手を振る坊主の後ろに浮かぶお婆さんを見つめると、楽しかった思い出が、いつの間にか寂しい思い出へと変わってしまっているのだという事に気付いた。
「由美、私こっちだから、夜ラインするね」
「うんわかった。また明日ね」
「バイバイ翔太君」
「おいよ。バーイ」
『お、ほんじゃまた。何かあったら、連絡せえよ。ええか、平常心やぞ! 平常心!』
浜太郎は祐一に念を押すと、麩菓子を食べる沙耶と共に橋を渡り、商店街へと入って行った。
『何で同じ事を二回言うんじゃろうかのう? 何だか面白そうな男じゃの。で、どうじゃ、守護霊の事は分かってきたのか?』
『ええ、浜ちゃんに色々教えてもらいましたから』
『そうか、そりゃよかった』
由美達は川沿いの道から枝分かれした道を通り、高速道路の高架下を抜けていく。
「なあ由美、今度の日曜何か予定ある?」
「今度の日曜? お父さんのお墓参りに行こうかなって思ってたんだけど、どうして?」
「いや、映画のチケット手に入れたから、よかったらどうかなって」
「映画! 行きたい! 次の日曜じゃダメ?」
「次の日曜は、俺バイトがあるんだよな」
「そっか。じゃあ、お墓参りを次の日曜にするよ。一緒に映画観に行こ」
「え、いいの?」
「全然いいよ。別に今度の日曜に、絶対行かなきゃいけないって訳でもないし」
二人の会話を後ろで聞いていた祐一は、驚きと怒りを同時に感じるという器用な感情を抱いた。
『お前、こら由美! お前、何言ってんだ。お父さんより、こいつのほうが大事なのか!』
『そりゃ、そうじゃろ』
『ちょっと、あんたの孫なんとかして下さいよ』祐一は、翔太の頭の上に乗っているお爺さんの顔を見上げた。
『なんとかって、何がじゃ?』
『何がじゃって、由美を映画に誘ったんですよ。それも僕の墓参りに行く日に!』
『知らなかったんじゃから、仕方ないじゃろ』
『でも、あれ? 墓参りって・・・』祐一は首をひねった。
『どうした?』
『僕が死んで、まだひと月も経ってないはずのに何で? それに、どうして?』
祐一は、やけに明るい由美の姿に違和感を感じると同時に、まだ四十九日も終わっていないはずなのに、由美はどうして納骨の済んでいないはずの墓に参ると言ったのかという疑問を抱いた。
『何を言っておるんじゃ。お前さんとわしが死んでから、もう一年は経っておるわ』
『え? 嘘でしょ?』祐一は、目を丸くした。
『ああそうか、お前さんは面倒くさいヤツじゃったな。いいか、天界と人間界では時間の進む速度が違うんじゃ。天界の時間は天上界と同じ速度で進んでおるから人間界より時間が進むのが遅いんじゃよ』
『え、でも、それじゃ守護霊室の時間はどうなってるんですか?』
『守護霊室の時間は人間界と同じじゃ。じゃから天界と守護霊室は別の次元にあるんじゃよ』
祐一には、お爺さんの言っている事がチンプンカンプン理解ができなかった。祐一は手のひらを顔に向けると、自分の両手を見つめた。そしてゆっくりと顔を上げると、遠くの山に沈みゆく、甘そうな大きな柿を細めた目で見つめた。
『やれやれ、指なんかで計算したって無駄じゃよ。お前さんの場合は深く考えて理解しようとするよりも、素直に現実を受け入れたほうがいいと思うがのう』
祐一はお爺さんの目を見つめると、コクリとうなずいた。
頭の中のモヤが晴れ、楽しそうに映画の話をする幸せそうな二人を見た祐一の心に、忘れかけていた感情が蘇って来る。
『まったくぅ、二人きりで映画なんてぇ、そんなことぉ、そんな不良のすることを! してもいいと思っているのか!』
『やれやれ、まったく忙しい男じゃな。映画のどこが不良なんじゃ? お前さん大丈夫か? こんな事でいちいち腹を立てておったら、守護霊なんて務まりゃせんぞ』
『あ、それ、さっき浜ちゃんにも言われました』
『そうじゃろ。さっき浜ちゃんが言ってた通り、平常心が大切なんじゃぞ、平常心が』
『何でみんな「平常心」て、二回続けて言うんですか?』
『翔太は、由美ちゃんに変な事をするような子ではないし、もしそんな事をしようとしたら、わしがちゃんと罰を当ててやるから、安心せい』
『ホントですか! ホントに、お願いしますよ!』
『任せておけ!』
祐一に向かって堂々と胸を張るお爺さんだったが、ふと翔太と由美の方を見ると、何故かそのしょぼい顔をこわばらせた。
『ありゃ』お爺さんは、翔太の背中からずり落ちた。
『え、なに、何?』
お爺さんの顔を見ていた祐一は、目の前の二人に目をやった。すると二人は、生前祐一が苦労して建てた城の玄関先で、夕焼けに包まれながらいいムードで見つめ合っている。駐車場にはマーチという名のGT‐Rが、いつものように輝いている。
「送ってくれて、ありがとう。また明日、学校でね」
「うん、じゃあな」
「翔太・・・」
由美は立ち去ろうとする翔太の腕をギュッと掴み、体を引き寄せると、唇にそっとキスをした。
『な・・・』
『おおう、なかなかやるのう』
その様を目の当りにした祐一の胸の中は、突如現れた苦しみと悲しみが混ざり合う激しい渦に浸食されていく。崩れていく胸の奥から、じわじわと湧き上がってくる激しい怒りに侵食されていく祐一は、目の前にいたお爺さんに溢れ出した怒りをぶつけだした。
『ちょっと! おいっ! どうなってんだよこれ! ジジイ! テメー何やってんだよ! ボーッとしてないで、早く罰当てろよっ!』
頭のてっぺんから湯気が出そうな祐一は、お爺さんの胸座を掴むと、お爺さんの霊体を激しく前後に揺さぶった。
『い、いや、ちょっと・・・』
『てめぇ、このヤロー! うちの娘に何て事しやがるんだ! ブッ殺すぞ!』
沸き上る蒸気を止める事が出来ない祐一は、お爺さんの胸座を掴んだまま、目の前にいる翔太に向かい唾を飛ばして怒鳴り散らした。
『そんな事言っても、聞こえやせんよ。だいたい今のは、由美ちゃんのほうから翔太に接吻したじゃろうが。翔太に罪はないのう』
顔を拭きながら冷静に返してきたお爺さんの言葉に対し、祐一は言い返す言葉が見つからなかった。
『う、うぬぬぬ。そうだ!』
ハッと思った祐一は、お爺さんから手を離すと、グッと携帯を握り締めた。
『ようし、それなら』
祐一はニヤリと笑うと、携帯を開き「罰」と書かれた黒いボタンを連打した。しかし、いくらボタンを押してみても、携帯は全く反応しない。
『あれ? 何だ? 何も反応しないぞ。壊れちゃったのかな? あれ? あれ?』
『何をやっとるんじゃ。罰なんて、当てられる訳がないじゃろ』
『え、何で?』
『由美ちゃんは、べつに悪い事をした訳じゃないじゃろうが』
『だって、キスしたんですよ! キス!』祐一は、二人を指差しながら言った。
『アホか、お前は。そんなもんが罪になるんじゃったら、世の中虫だらけになってしまうわ』
祐一は、携帯を握りながら口を尖らせた。
『やれやれ、あんたはもう少し、平常心を保つ事を覚えなきゃならんのう。まったく、先が思いやられるわい』
「じゃあ由美、また明日学校でな」
「うん、また明日ね」
『という事じゃから、また明日の』お爺さんは翔太を真似るかのように右手を上げた。
『え、あ、はい』
『ちゃんと平常心を保たなきゃいかんぞ! 平常心を!』
『一回言えば分かりますよ、なんでみんな二回言うんですか』
『分かっとらんから、何度も言うんじゃろうが』
お爺さんは、翔太の大きな背中におぶさるように引っ憑くと、手を振りながら祐一の前から去って行った。祐一は眉間にシワを寄せると、下唇を出し、そっぽを向いた。
『子泣き爺め』
由美が立派な鉄の門をくぐり、城の扉を開くと、懐かしい匂いが祐一の鼻をくすぐった。
「ただいまー」
『ただいま』
「お帰り。あら、どうしたの? そんな恐い顔して。学校で何かあったの?」
「ううん。べつに何でもないんだけど・・・」
「変な子ね」
祐一の感情の影響からか、由美は怒った顔になっていた。由美の表情が元に戻ったのは、祐一が晶子の姿をまじまじと見た後だった。
『晶子・・・』
祐一が、晶子の姿をうるうると見つめていると、晶子の後ろに憑いていた和服姿の女性が話しかけてきた。
『まぁ、祐一さん』
『あ、晶子の守護霊さん』祐一は慌ててうつむくと、垂れた鼻水を手で拭った。
『初めまして。私は、晶子の曾祖母の「トキ」です』
『初めまして、になるのかな、祐一です』祐一は差し出されたトキの手を握った。
『あなたは若くして亡くなったから、これから徳を貯めて人間に生まれ変わるのは大変でしょうに。どうして、由美ちゃんの守護霊になったの?』
『いや、実は・・・』
祐一は、和服に手をこすり付けるトキに記憶が戻らない事を説明し始めた。
温かい城の中では、エプロン姿の晶子が湯気の上がる鍋の前に立ち、夕飯の支度をしている。由美は肩に掛けていたカバンを祐一の椅子の上に置くと、台所へと入って行く。
「お母さん、今日の夕飯なに?」
「今日は寒いから、シチューにしたの」
「わあ、美味しそう、早く食べようよ。もう超お腹空いたよ」
「じゃあ、これをテーブルに運んでね。その前に、ちゃんと手を洗いなさいよ」
「はーい」
由美はいつものように、流しに置かれたハンドソープで手を洗うと、テーブルに手際よく二枚の皿とスプーンを並べ、晶子の作った料理を運んで行く。
「お母さん、早く早く」
「はいはい」
晶子は由美に急かされ、焼きあがったバケットをテーブルに置いた。そして母の日に由美からもらったエプロンを外すと、祐一の椅子の背もたれに掛け、いつもの席に着いた。
「いただきまーす」
「はい、いただきます」
「由美、今日は学校どうだったの?」
「ん? 今日はね、沙耶が三時限目に、ですねっちにね・・・」
祐一はトキに説明をしながら、自分の存在が忘れられた暖かい我が家の風景を見ていた。
『まぁ、そうなの。そんなことも、あるものなのね。でも毎回会う人に、こうやって説明するのは大変でしょう?』
『そうなんですよね。あ、今日のシチュー美味いな』
『祐一さん、携帯のメール機能って、ご存知かしら?』
『メール機能?』祐一は、首を傾げた。
『携帯を開いて御覧なさい。メールのマークが付いたボタンがあるでしょう。そのボタンを押して、文章を打ち込んで、「一斉送信」のボタンを押せば、メモリーされている守護霊全員にメールが送信されるのよ。そうすれば会う人会う人に、いちいち説明をしなくても済むわよ』
『なるほど、ありがとうございます』
祐一は携帯を開くと、使い慣れていない携帯と格闘し始めた。
『なんか、打ち辛いな。これって、絵文字は使えないんですかね?』
祐一が尋ねると、トキは晶子の背中を見つめていた。
『晶子ね、あなたが死んでから、毎晩あなたの遺影を見て、寂しそうに涙を流すのよ。あなたが死んでしまって、よっぽど辛いんでしょうね』
祐一は、メールを打っていた手を止めた。
『晶子・・・』
祐一は顔を上げると、忘れられたのではなく、隠していたのだと気付き、静かに晶子のことを見つめた。
『あなたの携帯の中身を見た時は、それは大変だったけどね』
『いや、あ、あれはですね』
『何、慌ててるのよ。霊体なのに顔を赤くしちゃって。おかしな人ね』
顔が熱くなった祐一は、トキから目を逸らし居間のほうを見た。
「シチュー熱すぎた?」
「ううん、全然大丈夫」
祐一は、記憶とは異なる居間の風景を見て、目を凝らした。
『あれ? 俺のガンプラコレクションが無い』
『そんな物、とっくに晶子が捨てちゃったわよ』
『え、捨てたって・・・。僕があれを作り上げるのに、どれだけの労力を費やしたと思ってるんですか。毎月少ない小遣いから捻出して、一体ずつ買い集めたんですよ!』
『そんなこと、私に言われても、ねぇ』トキは、祐一から目を逸らした。
『あー、もう、信じられないよぉ。捨てたって、えー! 捨てた? えー!』祐一は自分の大切なコレクションの置いてあった場所をしげしげと見つめた。
『もういいじゃない、あんなロボットなくなったって』
『ロボットじゃない! モビルスーツだ!』
祐一が興奮して出した言葉に、トキは身を引き顔を逸らした。
『ああ! 鉄郎の戦士の銃も無い!』
『ああ、あのオモチャのピストルは、由美がパソコンを使って売っちゃったわよ。思ったよりいい値段で売れたみたいで、晶子が喜んでたわね』
『う、う、う、売っただとう・・・』
「ごちそう様。お風呂に入ってくるね」
「寒いから、ちゃんと温まるのよ」
「はーい」
夕飯を食べ終えた由美は、ガクガクと震え愕然とする祐一を引き連れ、脱衣場へと向かって行く。
『お前、お父さんの大切な戦士の銃を。お前だけは、お父さんを裏切らないと信じていたのに。お前は敵か? 敵なのか? さては機械伯爵の回し者だな? お前はリューズだな?』
祐一をシカトする由美は、脱衣場に入ると扉を閉め、服を脱ぎ始めた。
『お父さんの話を聞いてるのか? 何で服なんか脱いでんだ。て、あれ、ここ風呂場じゃん。ちょっと待て由美。まだ服を脱ぐな!』
祐一が、由美の後ろで慌てふためいていると、トキが扉をすり抜け脱衣場に入ってきた。
『祐一さん、ダメよ覗いちゃ』
『だってこれ、離れられないじゃないですか。変身! とお! おりゃ! やっぱりダメだ。どうしたらいいんだよ。一度天界に戻るか。て、あれ? そういえば、どうしてトキさん、晶子の背中から離れてるんですか?』
携帯を手にした祐一が目を丸くすると、トキは呆れた顔をした。
『まったくもう。本当に何も知らないのねぇ。携帯を開いて「保留」のボタンを押してみなさい』
『保留? あ、これか』祐一は、携帯の「保留」と書いてある黄色いボタンを押した。
『ほら、もう離れられるでしょ。早く出なさい』
『ちょ、ちょっと待って、痛ててて』
祐一は、トキに耳をつままれると、扉をすり抜け、明かりの消えている廊下へとひっぱり出された。
『いい? 保留を押せば、守護霊は守護する者から離れられるのよ』
『へぇ、そうなんですか。知らなかった』
『ただし、離れられるのは守護する者の半径50m以内と決められているのよ』
『でも、それだと何かあった時、困らないですか?』
『大丈夫。危険を知らせるアラームが鳴った時には、瞬時に守護する者の背後に戻されるからね。お風呂やトイレにまで憑いて行っちゃダメよ。分かった?』
『は、はい。分かりました。痛ててて』ホッとした祐一は、ヒリヒリする耳をなでた。
夜が更けると、由美はベットに入りスマホを弄り始めた。気になった祐一は、そっと由美のスマホを覗き込んだ。
『あ、翔太のヤロウとラインしてるのか』
面白くない祐一は、ふと首にかかった携帯を手にした。
『そういえば、浜ちゃんが悩んだ時には補助霊に電話してみろって言ってたな』
祐一は携帯を開き、予め登録されていた補助霊の番号に電話をかけた。呼び出し音が三回程鳴ると、若い女の声が聞こえた。
『お電話ありがとうございます。こちらは補助霊室お客様サポートセンターでございます』
『あ、あのう、うちの娘が変な男に付きまとわれて困ってるんですが』
『誠に申し訳ございませんが、本日の相談受付時間は終了いたしました。相談受付時間は、土日、祝日を除く、平日の午前9時から午後5時までとなっております・・・』
『え、なんだよこれ?』携帯から聞こえる女の声は、予め録音されたもののようだ『クソの役にも立たないじゃねえか。24時間営業しろよ』腹を立てた祐一は、アナウンスの途中で電話を切った。
──翌朝。小鳥たちが朝の挨拶を交わし始め、日の光が窓の隙間から押し出されてくると、壁に掛かり休んでいた祐一は静かに目を開いた。
祐一は、相変わらず寝相の悪い由美の姿を見ると、昔の事を思い出した。まだ狭いアパート暮らしだった頃、幼い由美を守るように三人で寝ていると、突然キックやパンチが飛んできて、よく夜中に起こされたものだった。起こされた祐一が、のけた布団をかけてやると、由美はすぐにまた布団を蹴飛ばした。困った祐一は晶子と相談して、寝る前に由美の腰に布団をヒモでくくってやった。それ以来、由美が布団をのける事はなくなったが、夜中のライダーキックが止まることはなかった。祐一の目の前で眠る由美の格好は、子供の頃と何ら変わらなかった。昔と違うのは、祐一にはもう、縮こまる由美の体に、のけた布団をかけてやることが出来ないということだけだった。
祐一が懐かしい思い出に苦笑いをすると、由美の枕元に置かれていた人形が、突然喋り出した。
「おーい、時間だぞう。お元気出して、お元気出して、起きればぁ。オラはまた寝るぅ」
『な、何だこいつは?』
驚いた祐一は、ハンガーごと壁から落ちてしまった。祐一は、すり抜けたベッドからスゥ~と浮かび上がると、喋る人形をまじまじと見つめた。
『何だ、人形じゃなくて時計だったのか。なかなか面白い目覚し時計だな。おい由美。お元気出して起きなさーい!』
「う~ん、あともう少しだけ・・・」
由美は手を伸ばし時計の頭を叩くと、布団を体に巻き付け、再び眠りに就いてしまった。
『こら由美、二度寝するな。起きないと、遅刻するぞ!』
祐一は布団に包まる由美を起こそうとしたが、子供の頃から寝起きの悪い由美は、一向に目を覚まさない。大きな声で呼びかけていた祐一が、自分の愚かな行為に気が付くと、突然由美の体からもう一人の由美がスゥ~と起き上がった。
『え? 何だこれ? もしかして、由美の霊体か? どうした由美。まさか、死んだんじゃ・・・』
不安になった祐一は、神に祈りながら由美の顔を覗き込んだ。しかし、由美はスヤスヤと寝息をたてている。
『あれぇ? ちゃんと息してるよな。じゃあ、なんで?』
祐一は訳が分からず、由美の霊体の後姿をじっと見つめていた。そんな祐一を他所に、由美の霊体はパジャマを脱ぎ捨て、制服に着替え始める。
『おい由美、どこに行こうとしてるんだ。由美、早く起きて由美を止めなさい。て、何がなんだか訳がわかんないよー!』
由美の霊体は、頭を抱えて首を振っている祐一を無視し、自分の体を置いて部屋の扉をすり抜けると、勢い良く階段を下りて行く。
『ちょ、ちょっと、待て由美! お前、自分の体を置いてどこに行くんだ! あ! 晶子! ちょっと、由美を止めてくれよ!』
『行ってきまーす』
『行ってきますって、聞こえてないぞ。あーあーあー』
由美の霊体は、両手を上げてジェットコースターに乗っている様な状態になった祐一を引き連れながら家のドアをもすり抜けると、一気に外へと飛び出した。
一方、家では、時間になっても起きてこない由美を起こす為、晶子が腕をまくりながら階段を上っていた。由美の部屋の前に立った晶子は、ドアを数回ノックする。しかし、何の反応もない。晶子は腰に手をやり、フン! と鼻から息を吐くと、ドアを開け由美の部屋に入った。
「由美! いつまで寝てるの! 遅刻するわよ! 早く起きなさい!」
「ん、ん~」
晶子に起こされ、由美の体が目を覚ました。すると、由美の霊体と祐一が一瞬にして由美の体へと戻って来た。
『うおおっ! な、なんじゃ今のは! あービックリしたー! いったい今のは何だったんだ?』
目を覚ました由美は、寝ぼけ眼で不思議そうに部屋を見回している。
『おはよう祐一さん。どうしたの? 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして』
『おはようございます。いや、ちょっと何が何だか・・・』
「あれぇ? ちゃんと着替えて、学校に向かってたと思ったのに・・・」『夢だったのかぁ・・・』
「何、訳のわからない事を言ってるの。早くしないと、また遅刻するわよ。さっさと着替えて、用意しなさい」
晶子に叱られた由美は、時計の針を見て目を見開いた。
「あ! やばいっ! もうこんな時間! 急がなきゃ!」
ベットから飛び起きた由美は急いで着替え始めた。晶子は首を傾げるトキと共に部屋から出ていった。
「あれ?」由美はベッドの脇に落ちているハンガーに目をやった『なんでこんなところに、ハンガーが落ちてるんだろう』
『あ、犯人は私です』
由美は着替えを済ませると、慌てて階段を駆け下りていく。
「由美。朝ご飯食べないの?」
「いらない。沙耶と待ち合わせしてるから」
『体に良くないわよ』
「あらそう。お母さん今日は仕事で遅くなるけど、夕飯はどうする?」
「今日は沙耶、家のバイトが休みだから、一緒に外で食べてくる」
『ていうことは、今日は浜ちゃんとずっと一緒か』
「お金はあるの?」
「こないだの残りがあるから、全然大丈夫」
「あらそう。じゃあ気を付けてね」
「はーい。行ってきまーす」
『行ってきます』祐一は、トキに向かって会釈した。
『いってらっしゃい』トキは優しく微笑みながら会釈を返した。
家から飛び出した由美は、駆け足で沙耶との待ち合わせ場所に向って行く。停まっている車のガラスが白く曇っている。木になった柿は色が濃くなり年老いてきた。さっきと同じ景色を見ていた祐一は、さっきは感じなかった、涼しさから肌寒さへと変わりゆく朝の空気に近づいて来る冬の訪れを感じていた。
「おはよう沙耶、遅れてゴメ~ン」
「もう、また寝坊したの? 時間ギリギリだよ」
由美が沙耶の元へ駆け寄ると、浜太郎が手を上げた。
『あ、浜ちゃん。おはようございます』
『おはようさん。あれから、どうやった? 爺さんの首絞めたり、せえへんかったやろな』
『ええと、まぁ・・・』
『なんや、またキレそうになったんか?』
『いや、キレそうになったというか、キレたというか・・・』
『感情的になったらあかん言うたやろが、気を付けなあかんで、ほんま』
『そんな事より、実は今朝・・・』
祐一は、今朝の出来事を浜太郎に話し始めた。祐一の話を聞いた浜太郎は腕を組み、小刻みに首を縦に揺らし始めた。
『そりゃ、幽体離脱やな』
『幽体離脱?』
『そうや。幽体離脱は、寝てる時によく起きるんや。稀に、起きたままする器用なヤツも中にはおるんやけどな。こないだ沙耶も、寝てる時にトイレに行きたなったらしくてな、一瞬目を覚ましたんやけど、また寝てもうて、その瞬間霊体が体から飛び出して、トイレに行ってもうたんや。いくら気張ってもスッキリせえへんから、体が目を覚ましてな「あれぇ? 今、トイレに行ってたと思ったのに。夢だったんだ」とか言うとったわ。なんやよう分からんけど、魂だけが先走ってまうと、幽体離脱を起こすみたいやな』
『へえ、幽体離脱かぁ。そういえば僕も子供の頃、似たような事がありましたね』
『まぁ、気が付かへんだけで、結構みんな幽体離脱しとるからな』
『子供の時、プールに入ってる夢を見てて、急にオシッコしたくなって、プールの中でしちゃったんですよ。そうしたら急に股の辺りが温かくなって、目を覚ました事があったんですよ。あれが幽体離脱だったんだなぁ』
『アホか。そらお前、普通に夢見て寝小便たれただけやんけ』
『え、そうなんですか?』
『そうに決まっとるやろ。夢と幽体離脱との区別もつかへんのか』
『だって、幽体離脱ってそういうものでしょ』
『まぁ、そりゃそうやけど。で、それいつ頃の話や?』
『確か、小6の時だったと思いますけど』
『ありえへんわ』
余計な話をして損をした気分になった祐一は、まぶしい朝日を正面に受けながら、布団やパジャマが干された住宅街の中を進んで行った。爽やかな洗剤の香りが漂う住宅街を抜け、緩やかな坂を上り始めると、電柱に寄りかかっていた翔太が、こっちに気付き近づいて来た。
『またあいつか、朝っぱらから現れやがって。ストーカーか、あいつは』
『あかんで、平常心やで、平常心』
「あ、翔太。おはよう」
「おーす」
「翔太君、おはよう」
祐一がいけ好かない翔太の顔を見上げ、睨んでいると、翔太の頭の上からお爺さんがしょぼい顔を出した。
『おはよう』
『おはようございますぅ』
『昨日は、どうも』祐一は軽く会釈した。
『お爺さん、大丈夫でしたか? この男はまあ、娘のこととなると、すぐにカーッとなりよるから。お爺さんも首絞められへん様に、気い付けたほうがええですよ』浜太郎は、お爺さんの顔を見上げながら言った。
『首?』お爺さんは、浜太郎を見下ろしながら首を傾げた『浜ちゃん、首を絞められたのか?』
『そうなんですよ。ほんま、死ぬか思いましたわ』
『なかなか、面白い事を言うのう。しかしあんた、よっぽど念が強いんじゃな。昨日はわしも胸座を掴まれたしのう』
『お前、またそんな事したんか?』
『す、すみません』
浜太郎に睨まれた祐一は、一応あやまった。
『あまり感情的になって強い念を使うと、ろくな事にならんから、気を付けなあかんぞ』
『は~い』祐一は適当に返事をした『あ、あの娘、足が細くて綺麗ですね』
祐一は、横の路地から歩いてきた娘を指差した。二人が視線を逸らすと、祐一はここぞとばかりに翔太の頭にゲンコツを連打した。翔太は何か違和感を感じたのか、右手で髪をとかし始めた。
「どうしたの翔太? べつに髪変じゃないよ」『思い知ったか』祐一は、ニヤリと笑った。
「いや、何か変な感じがして、風かな?」『どうしたんじゃ?』お爺さんは翔太の頭にしがみつきながら、翔太の顔を見下ろした。
「ねえ、急がないと間に合わないよ」『そうやで』浜太郎は、皆に促した。
「やべ!」翔太はスマホを取出し、時間を確かめた『こりゃまずいのう』
「遅刻しちゃう!」由美もスマホを開いた『急ぎなさい』
時間を確認した翔太と由美は、慌てて走り出した。
「ちょっと待ってよー!」『ちょう待ちいやぁ、なんで置いて行くねん』
三人が息を切らせながら校門の傍まで来ると、ジャージ姿の教師が錆びかけた黒い門を閉め始めていた。
「げ、ウソップだよ」『うわ、ピノキオや』沙耶と浜太郎は教師の姿を見ると顔を顰めた。
『え? ウソップ? ピノキオ?』祐一は首を傾げた。
息を切らした三人は、校内にダッシュで滑り込んだ。
「間に合ったぁ」翔太は、スマホを見ながら上着をバタバタと仰いでいる。『よかったのう』お爺さんはしがみついている翔太の頭を撫でた。
「早く行こ」沙耶は教師から視線を逸らすと、二人に促した。『ちっとも、よくないがな』浜太郎は顔を顰めたまま言った。
「そうだね」由美は一度止めた足を進め、校舎に向かおうとする『なんでです?』意味がわからない祐一は、由美の後ろで首を傾げた。
「ちょっと待て」門を閉めた青い頬をした教師は、校舎へと向かおうとする由美達を引き止めた『待ちなされ』教師に憑いていた守護霊が、同じように祐一達に声をかける。
「うわ、捕まった」沙耶は見えないゲンコツを喰らったかのように両目をギュッと閉じた『あちゃ~。はよう逃げんからやで』浜太郎も同じような顔をした。
「お前ら、ギリギリだぞ!」『間一髪でしたな』
「すみません」翔太は重そうな頭を軽く下げた『すまんのう』お爺さんは翔太の頭の上で、梅干しでも食べたかのように口をすぼませた。
「大体がだな、最近の若い者はやれネットだのなんだのと携帯に依存しすぎているからダメなんだ。もっと本を読んで知識を身に着けなければ、ちゃんとした社会人にはなれないぞ。俺が学生の頃にはだな、まだ携帯なんてものは・・・」
「また始まった」由美は肩を落とし、ずれたカバンの肩紐を上げた。『う、こいつキツイな』祐一は鼻に感じる不快な香りに顔を顰めた。
「まいったな」 翔太は俯くと由美の顔を見て苦笑いした『やれやれ』お爺さんは、翔太の頭に顔を埋めた。
「早くしないと、チャイムが鳴っちゃうよぉ」沙耶はスマホを見ながら、そわそわと落ち着かない様子だ『朝っぱらから、ついてへんなぁ、未だにガラケー使こてるヤツに言われてもなぁ』浜太郎は面倒くさそうに教師の顔を見て言った。
教師が三人にダラダラと説教を始めると、教師に憑いていた仙人のような老人が、同じように説教をし始める。
『大体がじゃな、最近の守護霊というのは切り替え君に依存しすぎじゃ。有為転変は世の習いとはいえ、それでは守護する者を正しく導く事は出来ん。わしは何度も輪廻を繰り返しておるが、わしが初めて守護霊になった頃はじゃな・・・』
『なんだ、この爺さん』
『やれやれ、キャラが被っとるのう』
『始まってもうたがな』
祐一は、偉そうに説教をたれる仙人を見ながら、浜太郎が言った「ちっともよくない」の意味を理解した。だが祐一の頭の中には、もう一つのトゲが刺さったままだった。祐一は頭の中に刺さったトゲを抜く為に、浜太郎の耳元に口を寄せ、呟くように問いかけた。
『ねえ浜ちゃん。この人達の鼻、潰れて上向いてますけど、何でウソップとピノキオなんですか?』
ひそひそと話す祐一の話を浜太郎は眉を寄せながら聞いていた。浜太郎は祐一の顔を見ると、鼻をさすりながら祐一の耳元に口を近づけてきた。
『それはやな、この二人の話が異常に長いからや』
祐一は眉をひそめ、横目で浜太郎の顔を見つめた。浜太郎は再び祐一の耳元に口を近づけてくる。
『だからやな、話が長いから長っ話しや』
『え?』
『せやから、長っ話しやから長っ鼻や。陰口叩いとって聞かれてもばれへんように、沙耶らは、このおっさんの事をウソップって呼んどるんや。俺らも真似して、この爺さんの事をピノキオって呼んどんねん』
刺さっていたトゲを浜太郎に抜いてもらい、スッキリした祐一は首を縦に揺らした。
「先生、そろそろ行かないと、チャイムが鳴っちゃうんですけど」『翔太の言うとおりじゃな。続きは、また今度ということで』
ウソップは、右手に着けていた趣味の悪い金色の腕時計を見た。
「仕方ないな。明日からは、もっと余裕を持って登校しろよ」『致し方ないですな。明日からは、しっかりと導くように心掛けなされ』
ウソップから解放された二人は、川に放したハヤのように昇降口へと向かって行く。少し遅れる沙耶は、ハヤというよりはフナのようだ。靴を履き替えた三人は、ポスターの貼られた階段を駆け上って行く。日の当たらない校舎の中は、なんとなく外よりも寒い感じがする。
「じゃ、翔太、また後でね」『じゃあ、また後で。べつに会いたくはないですけど』
「おう」『今、何か言ったか?』
「待ってよ、由美」『沙耶、はよせんと間に合わんで』
翔太と別れた由美達は、何故か教室とは反対の方向を向いた。Pタイルの貼られた廊下を進むと、二人は慌ててトイレへと駆け込んで行く。
『何してんだ由美。漏れそうなのか?』
祐一は首を傾げ、携帯に手をかけた。
『違うがな、女っちゅうのは面倒くさい生き物やねん』
トイレに入った由美達は鏡に向かい、髪をとかし始めた。
『なんだ、そういう事か』
『な、面倒くさいやろ』
『くさいと言えば、さっきのウソップってやつ、あいつかなり「チャカチャカちゃん」でしたね』
何気なく出した祐一の言葉に、浜太郎は首を傾げた。
『何や? チャカチャカちゃんて?』
『え? 知らないんですか? チャカチャカちゃん』
『知らんから、聞いとんのやろが』
『そうかぁ、関西じゃ、チャカチャカちゃんて言わないのかぁ。向こうじゃなんて言うんですか?』
『お前、アホか! チャカチャカちゃんの意味が分からへんのに答えられるか!』
『なにも、そんなに怒らなくても。まったく短気だなぁ』
『お前に言われたないわ! それより、早よう「チャカチャカちゃん」の意味を教えんかい!』
浜太郎はそわそわとした様子で、体を縦に揺らした。
『わかりましたよ、仕方ないな。チャカチャカちゃんて言うのは、体臭のキツイ人の事ですよ。本人に聞かれても傷つけないように、関東ではそういう風に呼ぶんですよ』
『何やそうか、ワッキーの事か。要するに、さっきの「ウソップ」や「ピノキオ」みたいな意味なんやな。また一つ賢なったわ。せやけど何で、チャカチャカちゃんなんや?』
『さあ、なんでですかね。子供の頃からそう呼んでたから意味まではわかりませんけど。「しおしおのパー」みたいに深い意味はないんじゃないですかね』
『ふーん、関東じゃワキガはチャカチャカちゃんか、ふーん』
髪を整えた由美と沙耶が、慌てて教室に入り席に着くと、校内にチャイムの音が鳴り響いた。
「セーフ」
「ギリギリ間に合ったね」
『まったく、明日は幽体離脱なんかしないで、ちゃんと起きなきゃダメだぞ』
『まぁまぁ、そない言わんと。自分かて、昔はよう寝坊しっとたんとちゃうんか?』
『え、してませんよ』
祐一は、浜太郎から目を逸らし、教室の天井を見た。ジプトーンが所々新くなっている。壁の塗装は最近塗り替えたようだ。教室の床は廊下とは違い、長尺シートが貼られている。
『嘘こけ。今お前、目が泳いどったで』
『してませんってば』
『嘘こけってば』
『してないっつってんの』
『嘘こけっちゅうてんのぉ』浜太郎は、あざけるように言った。
カチンと来た祐一は目を見開き、憎たらしい浜太郎の顔を見た。
『してない、してない、してない、してない!』
『嘘こけ、嘘こけ、嘘こけ、嘘こけ!』
『あーもう、しつこいな!』
頭にきた祐一は、浜太郎のほっぺたを両手でつねった。
『にゃんや、上等にゃんけ!』
すると浜太郎は、祐一の両頬をつねり返してくる。
『イヘェな、ほんにゃろう。はにゃせっちゅーの』
『お前こひょ、はにゃしゃんかい』
『いへ、いへへ。しょっちが、しゃきにはにゃせ』
祐一は、負けじと指に力を入れた。
『ひやや、お前がしゃきにはにゃせ』
『わかっひゃ、わかっひゃかりゃ。じゃあ同時にはにゃしょう』
ほっぺの限界を感じた祐一は、仕方なく妥協した。
『へえやろ、しょのかわり、じゅるしゅなよ』
『いへへへ。わかっひゃから、ひから入れんなっちゅーの』
『へえか、いくじょ。へーの』
祐一は、浜太郎のかけ声に合わせ手を離した。祐一が手を離すと、浜太郎も手を離した。
『あー! きったねぇ! 同時にって言ったべよ!』
祐一は、ジンジンするほっぺたをなでた。
『やかましわ! お前が先につねってきたんやんけ』
浜太郎は、赤くなった頬をさすった。
『なんだよそれ、ずるいですよ』
『俺の勝ちやな』
浜太郎は勝ち誇ったように言い放った。納得のいかない祐一は、ほっぺをなでながら浜太郎を睨んだ。
『なんや? 何か、かばちがあるんか?』
『いえ、べつに。それより、なんで時々広島弁になるんですか?』
『そら、小学校に上がるまでは広島の呉に住んどったからや』
「はい、それではですね、今日はですね、この間の続きからですね、始めたいとですね、思います。教科書のですね、51ページをですね、開いてもらってですね・・・」
『なんや、もう授業が始まっとるがな。一時間目はですねっちか』
『なるほど、この人が「ですねっち」か。でもなんでこの先生のあだ名は、そのまんまなんですかね?』
『そりゃお前、ですねっちは滅多な事じゃ怒ったりせえへんからな。優しすぎるっちゅうか、なめられとるっちゅうか。そんな先生やねん』
眼鏡を掛けたですねっちが、教科書を片手に現国の授業を始めると、由美の前の席に座る髪を脱色している女子生徒が、自分の前の席に座る大人しそうなオカッパ頭の女子生徒に、何やらちょっかいを出し始めた。
「つんつん! つんつん!」
その様子を見た祐一は眉をひそめ、真面目な顔で授業に聞き入っていた浜太郎に声をかけた。
『浜ちゃん、浜ちゃん』
『あ? なんや?』
『この娘、いったい何をしているんですかね?』
『ん? あー、こいつは県会議員の娘の杏奈や。ですねっちの授業の時は、いつも前の席に座っとる子分格の優子の頭を定規で小突いとんのや。優子はおとなしい娘やからなぁ、杏奈が怖くて何も言い返えされへんねやな』
祐一は周りを見回した。他の守護霊達も杏奈の行動には気づいているはずなのに、皆我関せずとそっぽを向いている。
『あの時と同じか・・・』
『何や? あの時って?』
『え、いや』
『何やねん、気になるやんけ。教ええや』
祐一は浜太郎から顔を逸らすと黒板を見つめた。祐一は少し間を置くと、仕方なく嫌な思い出を浜太郎に話し始めた。
『いや、若い時の事なんですけど。晶子と二人で横浜に買い物に行こうと電車に乗ってたら、途中の駅から金髪でピアスだらけの若い奴らが7、8人乗ってきて、ドアの前に輪っかを作って座り込んで騒ぎ出したんですよ』
『ほうほう、迷惑な奴らやな』
『まあ、僕も昔は同じような事をしてたから、黙って座ってたんですけどね。そのうちに真ん中に座ってたリーダー格みたいなヤツがタバコをくわえて火を点けたんですよ』
『ふーん。仲間内で、ええ格好したかったんやろな』
『さすがにそれは僕もしなかったと思って、そいつの前まで行ってしゃがみ込んで「あそこの禁煙て文字が読めないのかよ」て言ったんですよ』
『相手7、8人おったんやろ? お前なかなか根性あんな』
『そしたらそいつ、僕に向かって「読めねえなあ」なんてぬかしやがって。その瞬間カチーンときて、目の前のそいつをボコボコにぶん殴っちゃったんですよ』
『まあ、そらしゃあないな。ほんで、その時と今と、何が同じなんや?』
『いや、あの時も周りにたくさん人がいたのに、誰一人として、そいつに注意しようとしなかったから、なんか守護霊の世界も同じなんだなと思って』
祐一は周りに聞こえるように、少し強い口調で言った。だが、他の守護霊達は全く気にしない様子だ。
『なる程な。ほんで、そいつぶっ飛ばした後、どないなってん?』
『変なおばさんが「あんた何てことすんのよ」って怒鳴ってきて「あんた誰だよ」って聞いたら「この子の近所の者よ」って答えたんですけどね。実はそれが母親だったんですよ』
『なんじゃそりゃ』
『気が付いたら次の駅で電車が止まっちゃってて、「まずい」と思ってそいつを引きずり降ろしました。一人だったら逃げちゃったんですけど、晶子がいたから逃げられなくて』
『ふーん。ほんで?』
『それでそのまま警察署で調書を取られて、相手の母親が傷害で訴えるって騒いだもんだから指紋も取られました』
『前科がついたわけやな』
『だけど後から診断書を持ってこなかったらしくて傷害罪じゃなくて暴行罪になって。刑事さんは同情してくれて、調書に、金髪でピアスだらけのそいつの写真を付けてくれたりしたんですけど、簡易裁判所に行ったら検事さんは厳しくて、「本当に悪い事をしたと思っていますか?」て聞かれて、一応「はい」て答えたんですけど、10万円の罰金を払うように言われました』
『そら、痛いな。ほんでそれからも、気に入らんヤツがおったら、ぶん殴ったんか?』
『いや、なんだか人を殴るのがバカらしくなっちゃって、それからは注意する事も、あまりしなくなっちゃいましたね』
祐一は、肩の力を抜くと、小さくため息をついた。
『そやろな。まあ、運命的な出逢いやったっちゅうこっちゃな』
『え? 何がですか?』祐一は眉をひそめた。
『要するにや、お前それまでは、どんな理由があるにせよ、ムカつくヤツがおったら片っ端からぶん殴っとったんやろ?』
『うーんと、まあ。そんな時代でしたし・・・』
『それを正す為に、運命管理センターがお前を痛い目に合わせたんや。その殴られた兄ちゃんにも、そんな事しとると世の中には恐いおっちゃんがおるんやでって教える為に、管理センターが兄ちゃんを同じ車両に乗せたんや。更に、自分の子供をちゃんとしつけなあかんでって、母親にも教えたんやな。まあ、もう一人のヤツは、本当に大事な事に気が付かへんかったみたいやけどな』
『おっちゃんて、その時僕まだ20代前半ですよ』
『そんなんは、どうでもええがな。要するに、お互いに引かれ合う理由があったっちゅう事や。世の中に起こる全ての事には、必ず何かしらの理由があるんやで』
『でも、おっちゃんじゃなかったし・・・』
『やかましわ! アホ! ええか、他の守護霊達は皆、そういう事が分かっとるから他人の事に口出しせえへんねん。せやからお前も他人の事に口出したらあかんで。分かったか?』
『でも、おっちゃんじゃないですよ、まだ腹筋割れてたし・・・』
『お前、しつこいな・・・』
祐一が口を尖らせていると、浜太郎は眉間にシワをよせた。
「ちょっと杏奈、もうやめなよ」
執ように優子の頭を小突く杏奈を由美が小さな声で注意した。
『いいぞ由美。もっと、言ってやれ』
『お前、全然分かってへんやろ』
「何よ由美。あんたも、やられたいの?」
杏奈は、手にしていた定規を由美の顔に向けてきた。
「べつに、そういう訳じゃ・・・」
「だいたい、ただふざけてるだけだって。優子だってべつに嫌がってるわけじゃないんだからさ。そうだよね優子」
「う、うん」
優子は、前を気にした様子で遠慮気味に答えた。
「わかったかよ? あんまりいい子ぶんないほうがいいんじゃねぇの」
由美は黙り込んでしまった。
『なんだ由美、どうした? こんなやつ、首絞めてやれ、首』
祐一がそう言うと、杏奈の背中に憑いていたモンチッチのような頭をした守護霊が振り返り、祐一のことを睨みつけてきた。
『何よあんた! 何か、文句あんの?』
『あんた、この娘の守護霊だろ! 何でこんな事してるのに、何もしないんだよ!』
『ちょ、やめぇて。関わるなて』
祐一が熱くなると、浜太郎が慌てて止めに入って来た。
『はぁ? 杏奈はね、他の子には優しいのよ。この優子って子のほうが、よっぽど悪いんだから! 何も知らないくせに、人の事に口出ししてくるんじゃねぇよ!』
『なんだと、このババァ』
腹を立てた祐一が、杏奈の守護霊とガンの飛ばし合いをしていると、割烹着を着た優子の守護霊が、オカッパ頭を優しくさすった。
『優子、大丈夫? こんな事に負けちゃダメよ。すみません、もういいかげん優子の事をいじめないように、杏奈ちゃんの事を導いてあげてもらえませんか』
優子の守護霊は困った顔をして、杏奈の守護霊に嘆願した。
『はぁ? 何であたしが、そんな事しなきゃいけないのよ! 大体、あんたのとこの優子がいけないんでしょ! 昨日だって、荷物を抱えたお婆さんをうちの杏奈が先に見つけたのに、優子が横からでしゃばってきて、お婆さんの荷物を運んであげたじゃない』
『それの、どこがいけないんだよ』
『口挟むなて』
『だって、それは杏奈ちゃんが荷物を持ってあげようとしなかったから、優子が・・・』
『何言ってんのよ。杏奈は、ホントは荷物を持とうとしてたのよ。それなのに、あんたんとこの優子が横取りしたんじゃないのよ! いつだって、杏奈が稼ぐはずだった徳を横取りしやがって! この徳泥棒! いじめをやめさせて欲しけりゃ、今まで横取りした徳をあたしに返しなよ!』
『そんな・・・』
『こんなやつが本当にいるのか・・・』祐一は、ヒステリックになった杏奈の守護霊の顔を呆然と見つめた。
『うわぁ、最悪やな。見てみい、前に俺が言うた通り、守護霊の影響が、守護する者にそのまんま出とるやろ。守護霊同士があんなんなっとったら、いくら由美ちゃんが止めに入っても、杏奈はいじめをやめへんで。ああならへんように、俺らは仲良うしよな。な、祐ちゃん』
浜太郎は甘えた声でそう言うと、なよなよと祐一に擦り寄ってきた。
『ちょ、ちょっと、手を握らないで下さいよ』
『何や、冷たいな。手ぇぐらい、ええやんか』
祐一は、出張先でサウナに泊った時に、夜中に目を覚ますと見知らぬスキンヘッドの男に手を握られていた時の事を思い出し、擦り寄る浜太郎の手を必死に振り払った。
『離して下さいよ』
『なんや、いけずやな』
『気持ち悪いんですよ。まったくもう・・・』
校内にチャイムが鳴り響くと、ですねっちは眼鏡を直し、壁に掛けられた時計を見て教科書を閉じた。
「えーと、それではですね、続きはですね、また明日ということでですね。今日やった所はですね、今度のテストにですね、出すつもりですからですね、ちゃんとですね、復習をですね、しておいて下さい」
『ですね連発やな・・・』
『こんな人が、本当にいるんですね・・・』祐一は呆然とですねっちの顔を見つめた。
──放課後。優子がカレーのレシピを思い浮かべながら校門へと向かい歩いていると、後ろから走って来た杏奈に呼び止められた。
「優子。ちょっとこれから付き合ってよ」
「え、今日はお母さんが夜勤だから、麻衣の夕飯を作らないと」
「麻衣もう高1だべ? 自分のメシぐらい自分で作れんべよ」
杏奈はムッとした顔をして、いつもの口調で優子を威圧してきた。
「う、うん」
「優子のプリ見た兄貴の友達がさ、何かしんないけど、優子の事気に入っちゃったんだってさ。純哉先輩っていうんだけどさ、マジかっこいいんだよ。兄貴のマンションで待ってるっていうからさ、これから一緒に行こうよ」
「でも・・・」
「なんだよ、あたしの顔つぶす気かよ」
「ううん、そんなつもりないよ」
焦った優子は、首を横に振った。
「つーか、だったらさ、麻衣も呼べばいいじゃん」
「え、麻衣は男の人が嫌いだから無理だよ」
「なんだよ、麻衣レズになったのかよ」
「ううん、そういう訳じゃないんだけど」
「あっそ。んじゃ麻衣はいいよ。もう純哉先輩に連れてくって言っちゃったんだからさ、いいから行くよ。ちょっと話がしたいだけらしいからさ」
「うん、わかった」
杏奈に逆らう事の出来ない優子は、仕方なく杏奈の後を追った。杏奈の兄は、昔からあまりいい評判を聞かない男だった。変に逆らって妹や自分に変な事をされては困ると優子は思っていた。優子の父親は酒乱で、酒を呑む度に母や、まだ幼かった優子達を殴った。そのせいで妹の麻衣は男の人を極端に恐がる性格になってしまった。優子自身も妹ほどではないが男の人が苦手だったが、離婚した後も養育費を払ってくれない父親に代わり、朝から晩まで一生懸命働き、自分達の事を育ててくれた母に余計な心配を掛けたくなかった。学校でも人に迷惑を掛けない様に気を遣い、大人しくすることで波風を立てないように心掛けていた。あと少しで高校を卒業する。嫌な性格になってしまった杏奈と付き合うのもそれまでの辛抱だ。卒業したら働きに出て、母に楽をさせてあげたい。自分とは違い、勉強の出来る妹を進学させてあげたいと優子は思っていた。
「つーかさ、由美のヤツって、超ウザくね」
「え、そう?」
駅のホームに着くと、スマホに夢中になっていた杏奈が、思い出したかのように口を開いた。
「偉そうに人に文句言いやがってさ、何様って感じじゃね。ヨッチなんかと付き合ってんし、マジ超ありえなくね」
「でも杏奈、中学の頃、吉田君の事好きだったんじゃないの?」
「あ? 好きじゃねぇし。マジうぜぇ」
杏奈はヘソを曲げた時の顔になった。
「ごめんね・・・」
「べつににいいけど。なんか頭にくんから、ネットに由美の悪口書き込んで拡散してやろうかな」
杏奈は再びスマホを弄り始めた。優子は何も言えなかった。優子は、そんな自分が嫌いだった。優子の心が、いつものように締め付けられる。機械的に喋る女の人の声でアナウンスが流れると、やってきた電車の後を追う風が、優子の頬を冷たく叩いた。ホームに停まった電車のドアが開くと、杏奈はスマホを弄りながら電車に乗った。顔を顰めるおばさんと、ちらちらと振り返る二人組の若い男がホームに降りると、優子は電車に乗った。優子が杏奈の後姿を見ていると、優子の心を締め付けていたものが消えていった。
地元の駅で降り、改札を抜けても、杏奈はスマホを弄り続けている。すれ違う人達は、迷惑そうに杏奈を避けていく。優子は杏奈と歩幅をずらした。
杏奈の後を追い、日が暮れかかると三階建てのお洒落なマンションが見えてきた。前の道路には、雰囲気の悪い背の低い車と、派手なスクーターが止まっている。優子は妹に「少し遅くなるけど心配いらない」とメールすると、手招きする杏奈の元へ駆け寄った。
エントランスに入りエレベーターの扉が開くと、ベビーカーを押す若いお母さんがエレベーターから降りようとした。杏奈はその人が降りるのを待とうとはせず、狭いエレベーターに無理やり乗り込んだ。ボタンを押す優子は、呆れた顔でエレべーターから降りる若いお母さんに「すみません」と頭を下げ、エレベーターに乗った。杏奈はいつもこうだった。さっきも電車から降りてくる人を待とうとはしなかったし、トイレでも出る人を待たない時がある。杏奈の周りの大人達は皆、杏奈の見た目と嘘の愛想に惑わされ、本当の杏奈を知らない。優子が、カバンに付けている蝶のアクセサリーを見つめていると、エレベーターは三階で止まった。エレベーターを降り、派手な音楽が流れている部屋の前に来ると、杏奈はその部屋のドアを開けた。
「兄貴! 連れてきたよ!」
杏奈が部屋の中に向かって怒鳴ると、うるさかった音楽が止まった。遠くに、鳴り響く踏切の音が聞こえる。アゴで指示する杏奈に従い、優子は玄関に入った。
「アキラ、もうビールねぇのかよ」
「あ? 冷蔵庫にまだあんべ」
「これ、結構きますね」
部屋の中から三人の男の声が聞こえる。何かの煙とアルコールの匂いが、キツイ香水の匂いと混ざり合い、優子の鼻を衝く。
「やっぱり・・・」
優子が外へ出ようとすると、杏奈が優子の背中を押した。
「早く入んなよ」
「杏奈、家からあれ持ってきたか?」
「ちゃんと持ってきたよ」
杏奈はカバンからビデオカメラを取り出すと、部屋のドアを閉め、鍵をかけた。
『うっひっひっひっひ』
『なんですか、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか』
『せやかてお前、それ鏡餅みたいやで。うっひっひ』
祐一は、駄菓子屋のおばちゃんの守護霊にゲンコツをおみまいされた頭をさすった。
『痛てぇな、まったく。なにも殴ることはないじゃないですかねぇ』
『お前が「クソババァ」とかいらん事言うからやで。自業自得やな。それにしても、お前それ、顔書いたら雪ダルマやで。まるでマンガやで。うっひっひっひ』
うまい棒を片手に、商店街へと向かう沙耶の後ろで、浜太郎は笑い転げている。
「由美、どうしたの?」ニコニコしている沙耶が尋ねた。
「なんだか、さっきから頭が痛くて」由美は首を傾げながら、祐一のさすっているタンコブと同じ所をさすった。
『由美ちゃんは何も悪い事してへんのに、可哀想になぁ』
『・・・』バツが悪くなった祐一は、浜太郎から目を逸らし、下唇を出した。
「大丈夫?」
「うん、全然大丈夫。それより、何食べに行こうか?」
「う~ん、マックはこないだ食べたしなぁ。何にしよっか?」
『マックちゃうで、マクドやで』
「来々軒とかどう?」
『あ、いいかも。あそこの肉野菜炒め定食、美味しいよね』祐一は心を躍らせた。
「あ、いいかも。あそこのサンマー麺、美味しいよね」
『ラーメンより、九条ネギがたんまり乗ったうどんが食べたいわぁ』
「じゃ、決まりね」
「うん。ネギラーメンも、いいかな・・・」沙耶は首を傾げながら言った。
祐一がウキウキしていると、浜太郎は冷ややかな目で祐一の顔を見ていた。
『何、嬉しそうにしとんねん』
『いや、久しぶりにあそこの定食が食べられると思って』
『由美ちゃんがそれを頼むかどうかは、まだ分からんやろが』
『あ、そうか。由美はいつも天津飯を頼むんだった。わかってないんだよなぁ』
『それより、そこの肉野菜炒め、そない美味いんか?』
『ええ、あの豚肉と野菜のバランスが絶妙で・・・』
『豚? 何で豚やねん。肉言うたら牛やろが』
『え、肉野菜炒めは豚ですよ』
『あー、あー。せやから関東のもんはほんまになぁ。カレーでも肉じゃがでも、何でも豚で作りよって。貧乏くさいのぉ』
『じゃあ、関西じゃトンカツは食べないんですか?』
『食べへん事もないが、カツ言うたら牛やな。ちなみに鶏肉は、かしわや』
浜太郎は、偉そうに答えた。
『じゃあ、カツ丼は牛なんですか?』
『それは、豚や』
『お好み焼きに入れるのは?』
『豚に決まっとるやんけ』
『ふ~ん』
浜太郎の性格を理解し始めていた祐一は、あえてそれ以上ツッこまなかった。商店街は顔の彫られたカボチャが並び、オレンジ色に染まっている。肉屋の店先には、カボチャのコロッケやカボチャの煮っ転がしが並び、洋服店には、魔女の帽子やガイコツの衣装が掛けられている。洋菓子屋や洋食屋は、オリジナルのカボチャメニューを自慢げに掲げている。祐一は、ハロウィンとはおよそ関係ないであろう日本そば屋の前に来ると、入り口の貼り紙に目を止めた。
『カボチャの天ぷらそば、カボチャの天丼始めました? これは、いったい・・・』
『なんや、俺が子供の頃はハロウィンなんてなかったのにな』
『僕の時もなかったですよ。昔はこの時期といったらお月見でしたよね』
『せやな』
祐一は、空を見る浜太郎と一緒に、輝き始めた月を見つめた。
『なんだか、見張られてるような気分ですね』
『せやなぁ』
『昔は、近所の家に「お月見ちょうだい」て、お菓子をもらいに行ったものですよね』
『なんやそれ?』
『え、お菓子もらいに行かなかったんですか?』
『そんな事ようせんわ。それじゃハロウィンのパクリやんけ』
『パクリじゃないですよ、お月見ですよ』
『これやから関東のもんはほんまになぁ。他人の家にお菓子をたかりに行くなんて、貧乏くっさいのぉ』
『はいはい、そうですね』
由美達が来々軒の赤いのれんをくぐると、食欲をそそる匂いと、いつもの甲高い声が祐一達を迎える。
「いらっしゃい!」
店に入り狭い店の中を見回すと、夕飯時なせいか、四つあるテーブル席も、店の奥へと続くカウンター席も、サラリーマンや家族連れでいっぱいだった。
『ずいぶん儲かっとるなぁ』
「混んでるね、どうする?」
由美が沙耶に尋ねると、沙耶はお腹をさすった。
「もう頭がサンマー麺になっちゃったから、待とうよ」『そこは、腹やで』
「そうだね」『沙耶ちゃんて、面白いですよね』
「悪いね、そこの椅子に座って待っててね」『ごめなさいね』
由美達は、レジの横にある椅子に腰を下ろした。隣に置かれた本棚には懐かしいマンガ本が並んでいる。祐一がカバーの無い擦り切れたマンガ本をまじまじと見ていると、ガヤガヤとする客達の声に混ざり、隅にあるテレビの声が聞こえて来る。アナウンサーの喋る言葉が気になった祐一は、テレビを見上げた。
『あの国の大気汚染、相当やばい事になってますよね』
『せやな。年々夏は暑なるし、そのうち地球は爆発するんちゃうか』
『それはないでしょうけど。でも、もしそうなったら、僕たちってどうなっちゃうんですかね?』
『さぁなぁ。一緒に消滅してまうんやないか』
『その時が、ホントに死ぬ時なんですかね』
浜太郎は渋い顔で、テレビを見上げていた。
『それより、あの国のやつら、こないだの震災の時、酷かったらしいで』
『何かあったんですか?』
『なんや、津波で流されて来た遺体に着いとった貴金属をみんなむしり取っていきよったらしわ』
『ホントですか?』
『ホンマらしいで。金に対する執着心ちゅうのは、どこの国の人間も大して変わらへんけど、あん時は、さすがの閻魔さんも眉を顰めとったらしいで』
『琥珀星《ソマージュ》の面汚しが・・・』
祐一は、拳を握りしめた。
『何や? そま・・・て?』
『え、何ですか? それ』
『今、お前、そう言わへんかったか?』
『言ってないですよ』
『そうか・・・』
「あ、ゆみお姉ちゃんだ」
ぬいぐるみを手にしたレミちゃんが、お母さんとレジに向かって歩いてきた。
『お、この虎太郎のぬいぐるみ、可愛いな』
『しまじろうですよね』
『どっちでもええがな』
「レミちゃん。ママとご飯食べに来てたの?」
「うん」
由美が尋ねると、レミちゃんは嬉しそうに答えた。
「こんばんわ」『こんばんわ』
お母さんの守護霊は、祐一に向かい会釈してきた。祐一は、好みのタイプのその女性と会釈を交わす。レミちゃんの守護霊は、メガネを掛けた痩せた男だ。レミちゃんの守護霊は、祐一と目を合わせると礼儀正しく挨拶してきた。
『はじめまして。由美ちゃんのお父さんですよね。いつもレミが由美ちゃんにお世話になってます。僕はレミの父親です。宜しくお願いします』
『え、レミちゃんのお父さん?』
『へぇ、祐ちゃんと一緒やな』
「レミちゃん何食べたの?」沙耶が尋ねた。
「チャーハン」
レミちゃんは自慢げに答えた。沙耶は、レミちゃんのふっくらとしたホッペに手を伸ばすと、ホッペに付いた米粒を指先で取り、自分の口に入れた。
レミちゃんのお母さんは伝票をレジに置くと、くたびれたカバンから色あせた財布を取り出した。
「由美ちゃん。今日は、お母さん遅いの?」
「はい」由美は明るく答えた。
『どうしてもレミの守護霊になりたくて、前の守護霊の方に無理を言って、守護霊を交代して頂いたんです』レミちゃんの守護霊は、レミちゃんの小さな肩に優しく触れながら言った。
『珍しいでしょ』お母さんの守護霊は、薄っすらと笑みを浮かべた。
「はい、五目ソバ半チャーハンセットと餃子で1300円になります」
「あの、このサービス券いいですか」
レミちゃんのお母さんは千円札と共に一枚の紙をレジに置いた。店のおばさんはその紙を手にすると、悲しげな顔をして紙を返した。
「これ、期限が・・・」『あいやぁ、これ先月までね』
レミちゃんのお母さんは、返された紙をまじまじと見つめた。
『同じ珍しいでも、祐ちゃんとは違うんやな』
『そうなんですか?』レミちゃんの守護霊は、祐一の顔を見つめた。
『え、ええ。僕の場合は由美の守護霊に予約を入れてまして』祐一は、お母さんの姿を見つめながら答えた。
『へぇ、そうなんですか』
『それも、珍しいわね』
「あ、本当だ。ごめんなさい」
レミちゃんのお母さんは、慌てた様子で財布を覗いた。財布の中は、お札よりも別の紙のほうが多い。レミちゃんのお母さんが千円札を抜き出すと、パラパラとその紙が落ちた。慌てて拾うその紙は、他の店の割引券やクーポンだった。店のおばさんはレミちゃんの顔を見ると、ニッコリと笑った。
『可愛い子たから、サービスするね』
「いいですよ。今日は餃子サービスしておくから。これ新しいサービス券と、100円のお返しね」
額に薄っすらと汗をかき、頬を赤く染めるレミちゃんのお母さんは、差し出された券とお釣りを受け取った。
「すみません。ありがとうございます」
『いいのことね。また来るね』
「いえいえ、こちらこそありがとうございました。また来てね」
店のおばちゃんが手を振ると、レミちゃんも小さな手を振った。
「ゆみお姉ちゃん、また折り紙教えてね」
「うん、バイバーイ」由美と沙耶は小さく手を振った。
「ばいばーい」レミちゃんも、小さな手を振った。
『それでは失礼します』
レミちゃんの守護霊が頭を下げると、祐一は『どうも』と答え、軽く頭を下げた。レミちゃん達は、オレンジ色に染まる商店街へと、仲よく去って行った。
『あの子のおとんも、ずいぶん若くにして亡くなったんやな』
『そうですね、僕達が越してきた時から、お父さんいませんでしたからね』
由美達は、片づけられたテーブル席に腰を下ろした。沙耶は嬉しそうにサンマー麺を注文する。由美は、いつものように天津飯を頼むだろうと祐一は思っていたのだが、なぜかメニューを手にした由美の口から出た言葉は以外な物だった。
「肉野菜炒め定食で」
『え?』祐一は目を丸くした。
『それ、お勧めね』
「はーい。肉野菜とサンマー麺ね」
「はいよ!」『ラジャー!』調理場から威勢のいい返事が返ってくる。
『よかったやんか』浜太郎は、祐一の肩を叩いた。
「由美が天津飯頼まないなんて、珍しいね」
「お父さんが好きだったのを思い出したら、何だか凄く食べたくなっちゃって」
由美の言葉を聞いた祐一の心は、まるで柔らかいマシュマロに包みこまれたかのようになった。
「そっか」
沙耶は、ポケットからスマホを取出し、弄り始めた。
『なんや、また携帯弄りか。最近の若い奴らは暇さえあれば携帯を弄りよんな』
『そうですね。まあ、若い奴らじゃなくても皆そうですけどね』
祐一は周りを見回した。カウンターで料理を待つ客はスマホを弄っている。テーブルの客は料理の写真を撮っている。
「杏奈また悪口書き込んでるよ。これって由美の事じゃない?」
由美は、沙耶のスマホを覗いた。
「いつもの事じゃん。こんな事してると皆に良く思われないのにね」
「だよね」
『この、インターネットとかいうやつ、何がそんなに楽しいのか、いまいちよう分からんよな』
『うーん。まあ、便利といえば便利ですけどね。色々と問題もありますよね』
『せやな。昔は携帯なんてなかったから、友達の家の番号なんかは、みんな記憶しとったしな』
『ですよね。今は辞書を引くこともしなくなったし、文字を書くことも昔と比べると少なくなりましたよね』
『せやな』沙耶のスマホを覗いていた浜太郎は、テレビのほうに視線を移した。
『今年も阪神あかんかったな』
『え? ああ、ええ』
祐一は、浜太郎と話を合わせようとテレビを見た。
『最近は、テレビでナイター中継とかやらへんくなったよな』
『そうですね。今はケーブルテレビとかでやってますよね』
『祐ちゃんは、やっぱ巨人ファンか?』
『いや、僕はあまり野球好きじゃないんですよね』
『なんでや? 野球おもろいやん』
『いやぁ、親父が野球好きで、子供の頃、野球のせいでドリフとか見せてもらえなかったから、野球って嫌いなんですよねぇ』
『ふーん。ビールに枝豆にナイターいうたら夏の風物詩みたいなもんやったけどなぁ。かっ飛ばせ! バース! やで。よくメガホン振ってビール瓶倒しちゃぁ、かみさんに頭どつかれたなぁ』
『なんかその姿、リアルに想像できますね』祐一は苦笑した。
『実は俺な、次は、どうしても野球選手に生まれ変わりたいねん。イチローや大谷みたいになりたいねん。メジャーに行ってやな・・・』
浜太郎は、昔から憧れていたという自分の夢をいつになく熱い口調で、祐一に語った。
『確かに高収入だし、メジャーとか行けたら凄いなって思うけど、それにはかなりの徳が必要なんじゃないんですか?』
『そうやねんな。でも、なんとか頑張ってぎょうさん徳溜めて、絶対野球選手に生まれ変わったる』
浜太郎は、テレビに映る野球選手を熱い眼差しで見つめていた。
「はーい、おまちどうさま。サンマー麺と肉野菜定食ね。サンマー麺熱いから気を付けてね」
「わぁ、美味しそう」
『とても、美味しいね』
丸いテーブルに、熱そうなサンマー麺を先頭に、白いごはん、湯気の上がるスープ、小さな巨人のザァ菜、そして主役の肉野菜炒めが並べられていく。
「水曜日だから、これサービスね」
『よかたね』
そう言うと、店のおばさんは、小さな器に入った杏仁豆腐を二つ、テーブルに置いた。
「いただきま~す」
由美は箸を割ると、ザァ菜に箸を伸ばした。コリコリという食感の後に、ピリッとした辛味が口の中を刺激して、独特の香りが鼻を抜ける。由美は少しのごはんを口に入れると、スープに息を吹きかけながら、それをすすった。あっさりとしたしょうゆベースの鶏がらスープが口に広がる。ほのかなネギの香りが漂い、細く刻んだワンタンの皮が優しく口の中をすり抜ける。
『ああ・・・』
祐一は、思わず声を漏らした。由美は、いよいよ肉野菜炒めへと箸を伸ばす。豚肉と野菜をタレに絡め、顔を前に出し、口の中に入れる。一噛み、二噛み、シャッキリと炒められた野菜の甘さに、バラ肉の油が絶妙に絡み合う。ほんのりと炭のような香りが鼻に際立つ。後から入って来たごはんが、濃くなった口の中を程よく中和していく。
『お父さん。これがお父さんの好きだった味なんだね。美味しいね』
懐かしい味を堪能していた祐一の耳に、由美の心の声が聞こえ、胸の奥を締め付けるような悲しみが伝わってくる。由美は時折こんな感情を祐一に感じさせた。祐一は「お父さんは、そばにいるよ」と、いつものように由美の肩に優しく手を添える。祐一の気持ちが伝わったのか、由美の悲しみが少しづつ和らいでいく。
『どないした? 遠く見つめて。熱いけど、美味いなこれ』沙耶は、湯気の上がる麺をゆっくりと口の中へ入れていく。
『いや、今、由美が、僕の事を思い出してくれて』
『へぇ、ええな。美味い思いして、徳まで増えて。熱! 熱ぅ。俺、猫舌やねん』
『え? そうなんですか?』
『そうやねん』
祐一は、自分の徳を確認する為に携帯を開いた。
『なんや、そっちかい』
『あ、ホントだ。増えてる』
『ええなぁ、ええなぁ。おい沙耶、お前も、たまには祖父ちゃんの事思い出しながら、土手焼き食うて、焼酎飲まなあかんで』
『沙耶ちゃん、まだ未成年ですよ』
『そういえば、そうやな。ほんなら、串かつにビールでもええわ。祖父ちゃんを壺中の天地に連れてってぇな』
『アホだな、こいつ・・・』
『今、何か言うたか?』浜太郎は祐一を睨んだ。
『いやいや・・・』祐一は、浜太郎の視線から逃げるように顔を逸らした。
「ふぅ~。美味しかったぁ」
定食を食べ終えた由美は箸を茶碗の上に置くと、小さなスプーンを手に取り、杏仁豆腐に手を伸ばした。
『ここの杏仁、トロトロで美味いな』先に杏仁豆腐を食べていた沙耶の後ろで、浜太郎は呟いた。
祐一は口に広がる甘味を楽しみながら、由美の皿を見て目を凝らした。
『こら由美。ピーマンが残ってるぞ。こんなにきれいに、よく分けられたな』
『ああ! そらあかんわ。せっかく増えた徳も、それじゃあパーやな』
『え?』
祐一は再び携帯を確認した。
『あ、ホントだ。減ってる・・・』
『せやろ。まぁ、食べ物を粗末にしたら、あかんちゅうこっちゃな』
口を尖らせた祐一は、沙耶のどんぶりを覗き込んだ。
『あ! 沙耶ちゃんだって、スープ残してますよ』
『スープは飲みもんやから、ええんちゃうか』
『え、ダメですよ』
『ダメですよって、何でお前が、そないな事決めよんねん。お前、神か?』
『だって、ほら、もやしも少し残ってますよ』
『だったら、なんやねん』
『あ! ほら、ここ、ここ。麺も少し残ってる』
『お前、しつこいな。どついたろかな、ホンマ』
浜太郎は面倒くさそうな表情を浮かべた。
「ごちそうさまぁ」
「ありがとうございました」『謝謝ね。またよろしくね』
由美達が、会計を済ませ、店の外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。由美と沙耶は、家に向かって商店街の中を歩き始めた。
「暗くなるの、早くなったよねぇ」『せやな』
「そうだねぇ。あれ、今日は『パンでやねん』休みじゃないの?」
喫茶店の隣にあるその店は、地元ではなかなか評判のいいパン屋だ。
『ホントだ。明かりが点いてますね』
「店は休みだけど、新しいパンを作りたいらしくて、お父さんだけ店に出てるんだ」店の前を通り過ぎながら沙耶が言った。
『そう言やあ、お好みとパンを融合させる言うとったな』
「ふーん」『難しそうですね』
明るい商店街を抜けると、暗い歩道を白い灯りが照らしてくれている。さっきまで、そこの駐車場で日向ぼっこをしていた猫たちの姿は、もう見えない。
「日が暮れると、寒いねぇ」『もうすぐ冬だな』
「早く帰って、お風呂に入りたぁい」『せやな、おこたの季節やな』
空っぽになった空気が、満たされていた体温を盗んでいく。祐一が顔を上げると、空を覆った黒い布には、ポツポツと小さな穴が開いていた。
『僕が子供の頃は、マンガでも映画でも宇宙物が多かったけど、最近はそういうの、あんまり見かけなくなりましたよねぇ。UFO特集なんか、全くやらなくなっちゃったもんなぁ』
祐一は、夜空を見ながら沢山の夢を思い描いていた子供の頃の事を思い出していた。
『せやなぁ。あ! あれ、UFOちゃうか?』
祐一は、浜太郎の指差す方を見た。
『違いますよ。飛行機ですよ』
『ほうか。昔のあの映画、何やったっけかな。スペースドラキュラマンやったっけ?』
『スペースバンパイアじゃないですか?』
『そうや、それそれ。あの、オッパイボヨヨーンのやつ。あれ、かなり衝撃的やったよな。昔はテレビでも、平気でオッパイ出しとったのに、最近はオッパイ出てこうへんよな』
『いやいや、僕が言いたいのは、そういう事じゃなくて』
『なんや。自分、オッパイ嫌いなんか?』
『いや、嫌いじゃないですけど。なんだか最近は現実的な話が多くて、夢がないなぁと思って』
『うーん。そう言われれば、そうかもしれへんな。オッパイ出てこうへんもんな』
『宇宙人て、ホントにいるんですかねぇ』
『さあなぁ、おるんちゃうかなぁ。宇宙人にもオッパイ付いとると、ええなぁ』
祐一は、浜太郎と共に、夜空に散らばる星々を見つめた。
──数日後。教室の席に座る由美と沙耶は、ポツンと開いた前の席を見つめていた。
「ねえ由美、最近優子学校に来ないね。どうしたのかな」
「うん、風邪でもひいたのかな」
「なんか、鈴木達が、何日か前に優子の変な画像が、どっかのサイトに載ってたって言ってたけど、関係あるのかな?」
沙耶がそう言うと、スマホを弄っていた杏奈が振り向いた。
「それって、これじゃね」
杏奈は派手なスマホをこっちに向けた。
「やだ・・・」『うわ! 卑猥やな』
浜太郎は、顔を顰めた。
祐一は、映し出された優子の顔を見て、後輩が昔、女の子にシンナーを吸わせ無理やり犯そうとしていた現場を見つけ、その後輩を半殺しにした時の事を思い出した。スマホに映る優子の顔が、祐一の頭の中で、あの時助けた女の子の顔と重なる。
「どうして杏奈が、この画像持ってるの?」
「だよね」『せやな』
「は? たまたまサイト検索してたら見つけただけだけど」
杏奈は、堂々とした態度で、言い放った。沙耶は画像をまじまじと見ている。
「この蝶って。杏奈のカバンに付いてるアクセサリーと同じじゃない?」『せやな』
「は? 優子も同じの持ってんし」
「でも、優子のって確か青だったよね。これは杏奈のと同じ緑じゃん」『せやな』
由美が画像を見ようとすると、杏奈は画像を消し、スマホをポケットに入れた。
「あ? こんなの、どこにでも売ってんし。マジうぜぇ」
祐一は、杏奈の守護霊の顔を冷たく見つめていた。杏奈の守護霊は、そっぽを向いて祐一と目をあわせようとしない。
教室の扉がガラガラと音を立てると、いつもとは様子の違うウソップが入ってきた。ウソップは教壇に両手を置くと、一点を見つめ大きく息を吸い、ゆっくりと吸った息を吐き出した。いつものうるさい挨拶も、朝礼の時の校長のような長い話も、今朝は一切しようとしない。後ろに憑いているピノキオも黙ったまま一点を見つめている。そんなウソップ達の姿を見ていた祐一は、頭に過る嫌な予感が、気のせいであって欲しいと願っていた。
「今日は、みんなに残念な知らせがある。実は、昨日の夜・・・」
ウソップは暗い表情で、優子が自殺した事を告げた。
一瞬静まり返った教室の空気が、徐々にざわめき始める。他人事のように話す言葉や、安っぽい推理が祐一の耳に聞こえてくる。由美と沙耶は黙ったまま、杏奈の背中を見つめている。杏奈の背中はいつもとは違い、今にも立ち上がりそうなほどに、真っ直ぐになっている。
『何も死ぬ事はないのにねぇ。バカな娘だねぇ』
杏奈の守護霊は、杏奈に語りかけた。祐一は、やるせない気持ちになり、何も言葉を発しなかった。祐一が浜太郎の顔を横目で見ると、浜太郎は目を合わせ、祐一の肩を軽く叩いた。
──数日後。由美と沙耶は、優子の告別式に参列した。クラスのほとんどの生徒が、参列しているようだ。何人かの生徒は、女の人に呼び止められ、テレビカメラに向かって、質問された事に答えている。
昨日までのいい天気とはうって変り、青空を覆い隠した冷たい布団が空に広がっている。優しく微笑む優子の遺影を由美はただ見つめていた。肩を震わす由美の頬に涙が流れる。とがった空気が由美の心と頬を痛めつけると、その感覚が祐一に伝わってくる。
『なんだかなぁ。そこまで追い詰められとったとはなぁ、なんとかできへんかったんかな。無力やな』
祐一は、黙って由美の肩に手を添えていた。優子の家族は、苦しそうに声を押し殺し、赤い頬に止めどなく流れる涙を小さなハンカチで拭っている。目を逸らした祐一は、棺の上に浮かぶ優子の霊体の姿に気付き、優しく声をかけた。
『あ、優子ちゃん。由美の父です。この度は、何て言ったらいいか・・・』
『おい祐ちゃん、お前何しとんねん』
『何って?』
『優子ちゃんの霊体に話しかけても、無駄やで』
『どうしてですか?』祐一は、眉をひそめた。
『自分、死んだ時、周りの人間の守護霊見えたか?』
『え、そういえば、見えなかったですね』
『せやろ。死んだら一度天界に行かな、俺らの姿を見る事も、会話をする事も、出来ひんねん。今の優子ちゃんと会話出来るんは、浮遊霊や地縛霊みたいな天界に昇られへん霊と死神だけや。まぁ、完全な浮遊霊と地縛霊になれば、俺らの事も見えるようになるけどな』
『そうなんですか・・・』
祐一は、うつむく優子の霊体を見ながら、何も出来ない自分に歯がゆさを感じていた。
『それにしても、優子ちゃんの守護霊、何で放棄しなかったんやろな』
『え、どういう意味ですか?』
祐一が浜太郎に問いかけると、杏奈の守護霊が、優子の守護霊を指差し、笑った。
『あんた何やってんだよ。もしかして、自殺する前に放棄しなかったのかよ? あんたそれじゃあ、この娘と一緒に虫になるしかないじゃないか。あんた何やってんだい。バカだねぇ』
優子の守護霊は、ぼうっと優子の霊体を見つめたまま、ピクリとも動かない。
『自殺ちゅうのは人を殺すことと同じで、一番したらあかん事やからな。杏奈の守護霊の言うように、優子ちゃんの魂はこの後、死神の手によって昆虫に入れられてしまうやろうな。自殺する前に、放棄せえへんかった優子ちゃんの守護霊も徳が無くなってもうたから同じやな』
『そんな・・・』祐一は言葉を詰まらせ棺の上に浮かぶ二人の姿をみつめた。
『おそらく優子ちゃんの守護霊は、優子ちゃんが自殺しようとした時、パニックになったんちゃうかな』
「何も死ぬことねぇじゃんよ。バカじゃねぇの」
震える手で焼香する杏奈は、優子の遺影を見つめると、ボソッと呟いた。すると、うつむいていた優子の霊体が、ゆっくりと顔を上げ、大きく目を開いた。優子の霊体は、苦しそうに自分の体から離れると、ゆっくりと地面を這いずりながら、杏奈のほうへと近づいていく。
『え、なんで体から離れられるの? 俺なんて、あれだけ頑張っても無理だったのに』
『こら、あかんわ』
『やばい! 杏奈、早く逃げな!』
杏奈の守護霊は、とっさに叫んだが、その声は杏奈の耳には届かない。優子の霊体は杏奈の足をつかむと、ゆっくりと杏奈の体をよじ登った。そして、じっと正面を見つめる杏奈の顔に、その白い顔を寄せると、黒い宝石のような目で、杏奈の顔をじっと見つめた。
『やはり、こうなったか』
『あれ、ジジイ、いつの間に・・・』突然隣に現れたお爺さんの姿に、祐一は驚いた。
「翔太も来たんだ」
「ああ、優子とは中学の時、仲が良かったから」翔太は、そっと由美に肩を寄せた。
『ちょっと、離れろよ!』
杏奈の守護霊は、優子の霊体を杏奈の体から引き離そうとする。だが、優子の霊体は杏奈の体に、うっすらとした身を食い込ませ、全く離れようとはしない。堪りかねた様子の杏奈の守護霊は、優子の守護霊を睨みつけた。
『ちょっと、あんた! この汚らしい娘を杏奈から離しなよ! ちょっと、聞いてんのかよ! あんたが、優子の事をちゃんと守護しないから、こうなったんじゃない! 逆恨みして、あたしの杏奈に取り憑くんじゃねぇよ! 汚ねぇんだよ!』
その時、沈黙を保っていた優子の守護霊の目の色が透き通る血液のようなルビー色へと変わった。物静かだった顔が、鬼のような形相へと変化していく。
『おのれぇ・・・』
元の姿を失った優子の守護霊は、怒りを露にしながら、杏奈の守護霊に襲い掛かろうとする。
『あ、やばっ! 妖怪化しよった!』
『え? 何あれ?』
『こりゃ、まずいのう。間に合うかのう・・・』
祐一がお爺さんの後ろに隠れると、お爺さんは顔を上げた。すると突然 <怒震!> という大きな衝撃が空気を揺らし、姿を変えた優子の守護霊の前に、大きな壁が現れた。
『ぬりかべ~』
『え? ぬりかべ?』
お爺さんの肩に手をかける祐一が、ふと空を見ると、空には <浮和浮和> と一枚の布が浮かんでいる。
『あ! あれは確か一反木綿。え? 何で?どゆこと? 誰か、妖怪ポストに手紙出しました?』
祐一は、皆に向かい尋ねた。
『お前は、ホントにアホじゃな』
『そんな訳あるかい! あれは、妖怪に変わった優子の守護霊を捕まえに来た妖怪や!』
『鬼太郎は、来ないんですかね?』
『さぁのう。鬼太郎は忙しいんじゃないのかねぇ』
『何の話をしとんねん。そんなんは、どうでもええがな。でも、まぁ、鬼太郎派の妖怪が来たんやったら、まだ救いはあるか』
ファイティングポーズをとっていた浜太郎は、構えていた腕を下ろした。
『そうじゃな、ぬらりひょん派の妖怪が出てきておったら、あの魂は永遠に妖怪の世界から抜け出せないじゃろうからな』
『鬼太郎派? ぬらりひょん派? ホントにそんなのがあるんですか?』
『そうや、あの魂は、元々そないに悪い魂やなかったから、鬼太郎派の妖怪が捕まえに来たんや。杏奈の守護霊みたいなんが妖怪化しとったら、間違いなくぬらりひょん派の妖怪が来とったやろな』
『そうじゃな』
『鬼太郎の所に連れて行かれるんなら、説得されて妖怪化は解けるかもしれへんけど、ぬらりひょんの所に行ったら、やつら一度捕まえた魂を絶対離したりせえへんからな。永遠に、妖怪のまんまやで』
『じゃから、ワシが言ったじゃろ。感情的になって念を使うと、ろくな事にならんと』
『あ・・・』祐一は目の前の光景を見て、お爺さんの言葉の意味を理解した。
『わかったか? これが、いい例じゃ』
『なるほど、気を付けます』
妖怪化した優子の守護霊は、ぬりかべにその身を押さえつけられながら、一反木綿に乗せられると、どこかへと連れ去られて行ってしまった。身を震わせる杏奈の守護霊は、茫然とした様子で空を見つめていた。
この後、火葬場へと運ばれた優子の体は焼かれ、死神が現れたが、優子の霊体は、杏奈の体から離れようとはしなかった。死神は自分の手には負えないと思ったのか、優子の霊体を置いて空へと飛んで行ってしまった。
『杏奈ちゃんは、これからどうなるんですかね?』
『自分の罪に気付いて、心から反省しないかぎり、優子ちゃんの怨念によって徳を奪い続けられるじゃろうな。杏奈ちゃんの守護霊も、ちゃんと杏奈ちゃんが改心するように導いてやらないと、そのうちに徳が無くなり、二人とも昆虫からやり直さねばならなくなるじゃろう。まあ、放棄するという道もあるが』
『お前ら、なんで杏奈の心配なんかしとんねん。何で、優子ちゃんの事を心配せえへんのや』
浜太郎は腹を立てたのか、少し強い口調になった。
『でもあのままじゃ、ちょっと杏奈ちゃん可哀相じゃないですか?』
ふてくされた顔をする浜太郎は、杏奈の姿を見ると、眉間に寄せていたしわを緩めた。
『優子ちゃんの霊体は杏奈ちゃんが死ぬか、改心しないかぎり、杏奈ちゃんからは離れんじゃろ。どちらにしても優子ちゃんは、昆虫からやり直す事になるじゃろう。自殺というのは、それほど罪の重い事なんじゃよ。ワシらも、守護している者が自殺なんぞしないように、ちゃんと導いていかなきゃいかんな』
『そうですね・・・』祐一は、由美の背中を見つめた。
『せやな』浜太郎もまた、沙耶の背中を見つめていた。
『でも、自殺がそんなに罪が重いなら、他人を殺したら一体どうなっちゃうんですか?』
『自殺も殺人も同じ罪や』
『そういう事じゃな。どちらも犯せば、昆虫になるという事じゃよ。さて、式も終わって翔太も帰るようじゃし、ワシもそろそろ、ありゃ・・・』
お爺さんの顔を見た祐一が、ふと前を見ると、涙を拭う由美の肩を翔太が優しく抱いていた。
『あ、このヤロウ。また始まったか!』
「由美、送らなくて大丈夫か?」
「沙耶と一緒だし、全然大丈夫だよ。心配してくれてありがと。翔太・・・」
由美は、いけ好かない翔太の顔を見つめた。
『お! なんや。ええ雰囲気やな』
『まずいのう・・・』
お爺さんは、浜太郎の後ろに身を隠した。
「由美、帰ろ」沙耶が振り向き、由美に声をかけた。
「う、うん」由美は慌てた様子で、翔太から目を逸らした。
「じゃ、また明日な」翔太は由美の肩から手を放すと、鼻をすする由美から離れていく。
『ナイス沙耶ちゃん!』
『なんや沙耶。ええとこで邪魔すなや。もうちょっと空気読まんかい! KYやぞ』
『古いですね』
『今、何か言うたか?』
『やれやれ』お爺さんは浜太郎の背中から出ると、離れていく翔太の背中におぶさった。
離れた所で一人立ち尽くす杏奈は、じっとこっちを見つめている。祐一は杏奈の守護霊の姿を少しの間見つめていた。祐一は何も言わずに視線を逸らすと、浜太郎と共に葉の舞い落ちる街路樹が並ぶ歩道を抜け、カボチャからサンタへと変わった賑やかな駅へと向かっていった。
──数ヵ月後。何度か降った雪が流れ、身を隠していた種達が雪解け水を吸い込み、笑い始めた太陽に向かい可愛い顔を出し始めると、由美達は新しい世界へと飛び立つ為に、予め開けられる事が決まっていた守りの扉を開けようとしていた。
「いよいよ卒業だね。由美、卒業しても私達ずっと親友だよね?」『俺らも、ずっとツレやな?』
「そんなの全然当たり前でしょ」『え、ええ、そうですね』
「だよね」『何や、つれない返事やなぁ』
祐一は、ため息をつきながら、由美の後姿を見つめた。
「そういえば由美、まだ就職先決めてないんでしょ?」『そうみたいやな、もう卒業式やで』
「うん・・・」『ええ・・・』祐一と由美は、うつむいた。
『そない落ち込むなて、大丈夫やて』
浜太郎は、何の根拠もない言葉を笑顔で発した。
「何か、やりたい事が、はっきりしないんだよね。資格取るのにも、お金掛かるし、どうしたらいいんだろ」『ああ、車買う時に学資保険を解約しなければなぁ。エアロ組んだり、アルミ入れたり、しなきゃよかったんだよなぁ』
祐一は、愚かだった自分を恨んだ。祐一の心は、悪さをして父親に押入れに閉じ込められた時のように、暗闇に包まれていく。
「だったらさ。よかったら、うちで働いてみない?」『そうそう』
「え、いいの?」由美は目を輝かせた「こないだまで人が余ってておじさん困ってるって言ってたじゃん」『そうそう』祐一は目を丸くしながら首を縦に揺らした。
沙耶の口から出た意外な言葉は、押入れの扉をそっと開けてくれた母のように、祐一の心に一筋の光を射し込んだ。
「何か、銀行からお金借りれたみたいで、前から言ってた支店を出すんだって。だから昨日お父さんに由美の事話したら、由美さえよければ、どうぞ来てくださいだって」『な、大丈夫やって、言うたやろ』
「やった。パン屋さんかぁ。何か、手に職って感じでいいよね」『おお、よかったな由美。沙耶ちゃん、ありがとね』
祐一が、ホッと胸を撫で下ろすと、浜太郎が祐一の腕をヒジで小突いてきた。
『なんですか?』
『俺にも、礼言いや』
『え? 何でですか? 浜ちゃんは、何もしてないじゃないですか』
『あ? 何やて』眉間にシワを寄せた浜太郎は、祐一の腕を殴った。
『痛いって!』祐一は顔を歪めた。
『沙耶と俺は一蓮托生や言うたやろ、だから俺にも礼言いやて』
『嫌ですよ』
納得のいかない祐一は腕をさすりながら、きっぱりと拒んだ。
『礼言えって!』
『嫌ですって!』
『言え!』
『嫌!』
『これこれ、何を騒いでおるんじゃ。相変わらず騒がしいのう』
祐一は、しつこい浜太郎のホッペをつねろうとしたが、横から割りこんで来た今日でしばらくは顔を見ないで済むであろうお爺さんのしょぼい顔を見つめると、沸き上る怒りを抑えた。
「ねえねえ由美、卒業式が終わったら、一緒に駅前の携帯ショップに行かない?」
「べつにいいけど、何で?」
「限定モデルのスマホが入荷されたって、メールが来てたからさ。先着50名限りって書いてあったけど、式終わってすぐに行けば間に合うかもよ。前からスマホ変えたいって言ってたじゃん」
「そうなんだよね。もういいかげん古いから重たいし、画面もヒビが入っちゃってて見辛いし・・・。後でお母さんに聞いてみるね。翔太も一緒に行く?」
「いや、俺は就職先の井上さんの所に、挨拶に行かなきゃいけないんだ」
『今の若い者は、やれスマホやタブレットやって、新しい物が出ると、すぐに買いよるな。俺なんて糸電話しか持ってへんかったちゅうねん。贅沢な世の中になったもんやで。ほんま羨ましいわ』
浜太郎の言葉を聞いた祐一は、眉をひそめた。
『糸電話? 今時、糸電話なんて、小学校の工作でしか作りませんよ。どんな時代ですか』
『あ、何や。バカにしとんのか!』
『いや、だって、糸電話って』祐一は言葉を詰まらせた。
『じゃあ、お前は子供の頃、何持っとったんや?』
『えーと、トランシーバーかな』
『と、とら、とらんしーばー。じゃ、じゃあお前、竹とんぼ作れんのか? 竹とんぼ』
『え、竹とんぼ? ラジコンなら、子供の頃に作りましたけど』
『ら、らじこん! クキーッ!』浜太郎は鬼のような形相で祐一に両手を伸ばしてくる。
『ちょ、なんですか、ちょっと。何を怒ってるんですか。首を絞めないで下さいよ』
『やれやれ』
モーニング姿のですねっちが、開式の言葉を述べると、ふざけていた浜太郎は姿勢を正した。
『きぃみぃがぁあよおはぁあ・・・』
祐一は、思わず耳を塞いだ。浜太郎の発する雑音が止むと、由美達は卒業証書を授与されていく。来賓達の長い挨拶が続き、生徒達が向かい合って言葉を交わし終えると、浜太郎は再び雑音を発しながら、涙を零した。
『あぁおぉげぶぁ、とおとしぃ・・・』
涙を流す沙耶につられたのか、泣かないと言っていた由美も涙を流した。目の前にいる杏奈にはまだ優子の霊体が憑りついているが杏奈の守護霊は代わっていない。遺影を抱える優子の母はうつむき、その身を震わせている。校歌を歌い終わり、ですねっちが閉式の言葉を述べると、祐一は皆に向かい、頭を下げた。
体育館から出た由美は、晶子の許可を得ると、沙耶と共に友達達と別れを交わす。まだ透明さを残す空気の間を透き通った光が通り抜けていく。校庭に植えられている桜の木は、笑みを溢すのをじっと堪え、初々しさを待っているようだ。昨日まで交互通行だった校門が一方通行になり、未来への扉へと変わった。
校門から出た由美と沙耶は、過去に背を向け、はや足で坂道を下っていく。駄菓子屋の前で「おめでとう」と、こっちに手を振る兵隊さんに、祐一が頭を下げると、由美と沙耶は橋を渡り、商店街へと入っていった。
「由美、こっちから行ったほうが近道だよ」
「でも沙耶、そっちは・・・」
「昼間だし、大丈夫だって。間に合わなくなっちゃうよ」
「もう、しょうがないなぁ」
由美は沙耶に促がされ、キャバクラや風俗店の看板が並ぶ、狭い路地へと入って行った。
『あ、こら沙耶。こっちは、行ったらあかんで!』
『確かに、教育上良くない通りですよね。でも昼間だし、大丈夫じゃないですか』
『そんなんちゃうがな』
『じゃあ、なんですか? あ、もしかして、薄暗い路地だから、お化けが出るとか・・・』
『アホか。そんなわけないやろが。だいたい、俺ら自身が、お化けやがな』
『まぁ、そりゃあそうですけど。こっちに行くと、何かありましたっけ?』
『この先行くと、ヤーさんの事務所があるやんけ』
『ああ、確かにありますね。でもまあ、大丈夫じゃないですか』
不安気な顔をする浜太郎の横で、祐一は澄ました顔をして辺りを見回していた。
『あ、「GROS」だ。懐かしいなぁ』
由美達が風俗街を抜け、突き当たったT字路を駅のほうへと曲がると、黒いビルの前に立っていた男が由美達に声をかけてくる。
「あれ、由美ちゃん。どこ行くの?」
男は吸っていたタバコを道路に落とし靴で揉み消すと、由美達の元へと近づいて来る。沙耶は、男の顔を見ると由美の後ろに身を隠した。
『うわ! 今時、こんなコテコテのヤーさん、まだおるんやな』
「こんにちは」由美は事務的な態度で言った『なんだ、次郎かよ。脅かすんじゃねえよ。お前ずいぶん厳ちくなったな』祐一はパンチパーマで背の高さは昔と変わらない次郎の顔をまじまじと見下ろした。
「由美、知り合いなの?」沙耶は顔を顰めた『なんや祐ちゃん。このおっさん、知り合いか?』
「うん、お父さんの後輩だった人」『ええ、こいつこう見えて、意外と気が小っちゃいやつなんですよ。昔はよく、ぶん殴ってやったなぁ』
今時珍しいグレーのダブルのスーツを身に着けた次郎は、由美のカバンに目をやった。
「あれ、もしかして、今日卒業式だったの?」
「はい」『おう、そうなんだよ』
「じゃ、就職すんの?」
「ええ、まあ」『あのチビが、立派になったもんだべ』
「よかったら、モデルやらない? モデル。バイト感覚でいいからさ、写真何枚か撮るだけで、結構いい金もらえるんだよ。お友達も、一緒にどう?」
次郎が声をかけると、沙耶は由美の後ろで、首を激しく横に振った。
「もう、就職先決まってるんで」『てめぇ、このヤロウ。俺の娘に何やらそうとしてんだよ』祐一は次郎を睨みつけた。
「そうなの。でもほら、週一とかでも全然大丈夫だからさ。ね、ね」
『このおっさん、しつこいな。怪しすぎるで、ほんま』浜太郎は眉をひそめた。
「あんまりしつこいと、田中さんに電話しますよ。何かあったら、すぐに電話しろって言われてるんですから」
由美は、毅然とした態度をとった。
「げ! ドテチン先輩かよ。わかったわかった、もう誘わないから、あの人には内緒にしといてよ。ね、ね。じゃあさ、こんなバイトはどうかな・・・」少し怯んだ様子を見せた次郎だったが、更に食い下がってきた。
祐一は眉間に力を入れ、じいっと次郎の姿を見つめていた。
『なんや祐ちゃん、どないした?』
『いや、こいつなんで、守護霊が憑いてないんですかね』
『あ、そんな訳ないやろ。どんな人間にも守護霊が憑くのが、この世とあの世のルールなんやで』
『でもほら、どう見てもこいつ、守護霊が憑いてないですよ』
『んん?』浜太郎は眉間にシワを寄せ、次郎の顔を見つめた。
『ね、憑いてないでしょ?』
『ああ。ちょっと、このおっさんの後ろに回って、よう見てみいや』
『え? 後ろ?』
祐一は、首を傾げながら由美の背中から離れると、調子のいい事をしゃべり続ける次郎に近づいた。
『あれ? 何だこれ?』
祐一が、二郎の後ろを覗き込もうとすると、なにやら左右に愛らしく揺れる茶色い物体が見える。
『これって、もしかして、シッポ? なんでこんなところにシッポが?』
祐一が更に首を傾げながら、次郎の後ろを覗き込むと、シッポの持ち主が姿を現わした。
『ワンワン!』
『うおっ! な、何で犬が・・・』祐一は身を翻した。
『ワンワン!』
祐一は体を起こすと、次郎の背中にしがみ憑いている犬をまじまじと見つめた。
『あれ? もしかしてお前、小次郎か?』祐一は首を傾げた。
『なんや、この犬も祐ちゃんの知り合いか?』
『いや、こいつ昔、次郎が集会帰りに引いたノラ犬なんですよ。ケガは大した事なかったんですけど、ドテチンが「責任もってお前が飼え」て言って、こいつん家で飼わせたんですよ』
『ドテチンて、ずいぶんおもろいあだ名やな』
『本人に言うと、怒るんですけどね。でも、なんでこいつの守護霊、犬なんですかね?』
祐一は、笑みを浮かべる浜太郎に尋ねた。
『それはやな、このおっさんがあんまりにも酷過ぎて、憑こうとする守護霊がおらんようになってもうたっちゅうこっちゃな』
『え? それって、どういう事ですか?』
『このおっさんにも、始めのうちはちゃんとした守護霊が憑いとったんやろうけど、あんまりにも言う事聞かんと、徳を積もうとせえへんから、みんな嫌になって守護霊を放棄したんやろ』
『ふ~ん。確かにこいつ、シンナーばっか吸ってろくなもんじゃなかったからなぁ。女の子輪姦そうとして、ボコボコにしてやった事もあったしなぁ』
『誰も憑けへん訳にはいかへんから、天界が、このおっさんが飼ってた犬の霊を憑けたんやろな』
『へぇ。じゃあ、ヤクザの守護霊って、みんな犬なんですか?』
『まあ、ヤーさんでも、本物の侠客と呼ばれるような者には、昔の凄い武将なんかが守護霊として憑いてたりするんやけどな。最近では、そんな凄い守護霊が憑いとるヤーさんには、滅多にお目に掛かれへんな。ほとんどが犬か猫や。ちょっと、そこの2階の窓から事務所の中覗いて見てみいや。おもろいもんが見れるから』
『面白いもの?』
祐一は、スゥ~と浮かび上がると、そ~っと窓の隙間からヤクザの事務所を覗き込んだ。
『な、なんじゃこりゃ・・・』
事務所の中の様子を見た祐一は、目を丸くした。
「あ! あんたさぁ、いつまでもそんな事言ってると、死んじゃうよ」『ニャー』
電話を掛けている若いチンピラの背中に、三毛猫がしがみ憑いている。奥に置かれている高そうなソファーには、スーツ姿の男が偉そうに座っている。偉そうな男がタバコを咥えると、前に立っていたスキンヘッドの男が、大理石のライターで、偉そうな男のタバコに火を点けた。
「お前、指何本無くしたんだ?」『ボクキューチャン、コンニチワ! コンニチワ!』偉そうな男は顎を上げながら吸った煙を吐き出した。
「さ、三本です」『コーコッコ、コケー!』スキンヘッドの男は、直立不動のまま答えた。
「四本目が、無くなるな」『ダレヤ! ダレヤ!』
「そんな、勘弁してください!」『コケコッコー!』スキンヘッドの男は、今にも泣きだしそうな顔をして、偉そうな男の足元に跪いた。
『九官鳥はわかるけど、鶏って。カラーひよこの世代なのかな? そういえば、あの時に見た動物達って・・・』
祐一は、守護霊室で見た動物達の姿を思い出した。
『あの動物達は、守護霊だったのか・・・』
祐一は窓から離れると、スゥ~っと由美の後ろへと戻った。しつこい次郎をうまくかわした由美達は、駅へと向かい歩き始める。
『どや、おもろかったやろ?』
『なんか、ペットショップみたいでしたね』
『せやろ。でも、あんなんまだええほうやで』
『そうなんですか?』
『ずっと前に、小さい子供ぎょうさん誘拐して、殺したやつおったやろ』
『ああ、確か犯人、死刑になりましたよね』
『あいつなんか、ニュースに出てきた時見たら、頭の上に緑亀が乗っとったで』
『緑亀? 緑亀が守護霊だったんですか?』祐一は目を丸くした。
『そうや。それにほら、どっかのインチキ宗教の教祖やった、乞食みたいなオヤジおったやろ。あぐらかいたまま空を飛ぶとか、アホな事やっとったやつ』
『ええ、あの人も確か死刑ですよね』
『あれなんか、肩にバッタが乗っとったんやで』
『バ、バッタ?』祐一は口をぽっかりと開いた。
『多分、子供の頃に虫かごで飼っとったんやろな。そうなってもうたら人間おしまいやで、犬や猫にさえ見離されたっちゅう事やからな。守護霊になる為に段階を戻された魂も、いい迷惑やで』
狭い路地を抜けた由美達は、駅前の携帯ショップへと入っていく。
「由美、まだあるよ」
「やった。やっと機種変出来るよ。お母さん早く来ないかな」
由美は、お目当てのスマホを手に取ると、嬉しそうに弄り始めた。
「あ、来た来た。お母さん早く、早く」
「よかったね、由美」
由美は、遅れてやって来た晶子を急かし、お目当てのスマホを手に入れた。
『何が「よかったね」や。もう、あの道通ったらあかんで! な、祐ちゃん』
祐一は、自分が過去に勝ち取った大きな栄光は、今となっては何の役にもたたない、ちっぽけな物だったのだと悟り、楽しそうにはしゃぐ由美の姿を黙って見つめていた。