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「ここが凪の部屋だ。荷物もここにある」
将臣が廊下の突き当たりの部屋の襖を滑らせ、中へと踏み入れる。
「……どういうことだ……?」
将臣の抑えた声が、部屋に響いた。
続いて凪が入る。ガランとした空間に、凪は目を見開いた。
そこにあるのは、青畳の匂いだけだった。
「私の……薬研は……?」
部屋中を見回しても、凪の荷物どころか、生活用品の一つもない。
(まさか……捨てられた?)
一気に不安になった凪は、押し入れを開け、探し始めた。
「サト!」
廊下から将臣が女中を呼ぶ声が聞こえる。
音もなく現れた女中のサトに、凪はすがるように詰め寄った。
「あの……預けた薬研はどこでしょうかっ!?」
サトは顔色一つ変えない。
「あれは……兄の大切な形見なんです! お願いです、返してください!」
凪の目に涙が浮かぶ。
将臣がサトの前に一歩踏み出し、冷たい視線を見下ろした。
「凪の部屋は、どこだ?」
「……離れにございます」
サトが感情の籠もらない声で、ようやく口を開いた。
「妻をそんな場所に置くなっ」
低く重い声に、怒りが滲む。しかしサトは平然と答えた。
「旦那様のご指示ですので」
将臣の眉が、ぴくりと上がった。
「そうか……」
短く呟くと、将臣は廊下へと振り返った。
「伊東! 遠藤! 私の書斎と寝室を、そのまま離れへ移してくれ」
「はっ!」
二人の従者がすぐに動き始める。
その瞬間、サトの顔から初めて余裕が消えた。
「お、お待ちくださいっ! 旦那様からは、将臣様は母屋で、と言い遣っておりますっ!」
将臣はゆっくりとサトへ向き直った。
「……サト」
唸るような低い声に、サトが顔色を変え、ごくりと唾を飲み込む。
「お前は、嫁入りした人間だけを離れに置くことが正しいと思うのか?」
「わ、私は……指示に従ったまでですっ!」
「そうか」
将臣が一歩、距離を詰める。
サトは思わず一歩、後ずさった。
「ならば、もう凪の世話に関わるな」
「……っ!」
言葉が出ず、ただ将臣を見上げている。
「分別の付かぬ者の手は不要だ。今後、凪に必要なものは私が手配する」
サトの顔がみるみる赤くなり、何か言い返そうと唇を震わせた。だが、やがてぎゅっと唇を結び、深く頭を下げた。
「……し、承知いたしました」
そのまま、逃げるように奥へと下がっていった。
緊迫感に息を詰めていた凪は、ようやく胸の力を抜くことができた。
将臣が小さく息を吐く。
「嫌なものを見せたな。すまない」
凪は無言で首を横に振った。
「……将臣様。お助けいただき、ありがとうございます」
申し訳なさそうに深く頭を下げる凪に、将臣は目を丸くした。
「礼はおかしいだろう」
そして、凪をまっすぐに見つめる。
「私の妻が、遠慮する必要はない」
それだけ言うと、将臣は離れへ向かって歩き出した。
凪は、その背中を見つめた。
(……この人だけは……私を守ってくれる)
兄以外の誰かに守られることが、こんなにも心強いものだとは知らなかった。
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