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教室に入ると、空気がひときわ重く感じられた。
背中に感じる視線が、無遠慮に突き刺さってくる。
でも、目を合わせてはいけない。
その視線を無視しても、知っている。
全員が、何かを期待していることを。
席に着いた瞬間、机がきしんだ。
足元が頼りなく、少しよろけそうになったけれど、無理やり体勢を整える。
誰かが笑った。その声が、全てを示していた。
次の瞬間、何人かが立ち上がり、遥の周りを囲むように動いた。
「昨日休んでたんだよね?」
最初に言ったのは、クラスの中心格である男子だった。
その声が耳に届くと、遥は無意識に息を飲み込んだ。
冷ややかな笑みが口元に浮かんでいる。
しかしその目には、確かな興味が感じられる。
「昨日、どうしたの?」
「まさか、また家のことで……?」
遥は、身体の内側から震えがこみ上げてきた。
でも、決してそれを顔に出さないようにする。
全員が、自分を試すように、言葉を投げかけてくる。
誰もが、遥がまた何かを言うことを期待している。
「今日は来たんだね」
「ちゃんと席について、偉いね」
皮肉にも、そう言って笑うのは、普段無関心な奴らだ。
でも、どうしてそれが、こんなにも恐ろしいのか。
「まさか、またあれか?」
「誰かに“知られたくないこと”でもあったんじゃね?」
冷笑が響く。
その言葉が、まるで遥の中を掻き回すように響いた。
――あのことを言われたら、どうなるんだろう。
その時、日下部が教室に入ってきた。
一度、クラス全体に目をやり、彼の目線が遥に止まった。
何も言わずに、そのまま後ろの席に座る。
だが、その目は遥をじっと見ていた。
その視線が遥を突き刺すようで、恐怖に感じる。
「お、やっぱり来たか」
日下部が言った。その言葉に、周りの空気が少しだけ和んだ。
だが、それは遥にとって、まるで意味を持たない。
「どうせ、あんまり意味ないよな、これ」
日下部がまた口を開く。その一言が、遥の胸を締めつける。
「お前、サボった分だけ……覚悟しとけ」
その言葉が、何かを確信させるように響いた。
日下部は、遥の肩を軽く叩いた。
その行為の背後には、確かな“期待”と“知っている”という意思があった。
その瞬間、遥は自分が他の誰かになっている気がした。
気づけば、またこのクラスの中で、体と心が支配されている。
日下部が、少し小さく笑ったように見えた。
でも、その笑みの奥には何も含まれていなかった。
遥はただ、机にうつむく。
痛む身体を押さえながら、またあの言葉が浮かんだ。
「覚悟しろ」
それが、今度はただの言葉にしか思えなかった。
「――オレのペット」
日下部の冷たい一言。
その言葉が響く中で、クラスの誰かが笑った。
それが、遥の目をさらに曇らせた。
その時、再び教室の空気が変わった。
廊下の窓から、もう夕陽が入り始めていた。
その光が床に落ちる頃には、遥にとっては“午後の部”が始まる。
いつものように、どこかが痛んでいた。
膝。首。背中。
殴られたところではなく、“殴られるために押しつけられた”部分が、鈍く重く熱をもっていた。
そんな中、何気なく声がかかった。
「よう」
振り返ると、日下部がいた。
気怠そうに制服のボタンを外しかけながら、片手でスマホを回している。
「……何」
声は出したが、意図せずに喉が詰まったような音になった。
日下部は笑った。どこか無邪気にすら見えるような、その顔。
だが目は、遥の顔だけではなく、喉の傷、シャツの皺、歩き方の癖──
そういったすべてを、冷静に観察していた。
「休んだ分は……取り返せた?」
ふざけた口調だった。
だが遥は、それがどこか“確認”のように感じて、強く体を固めた。
「別に、おまえのせいで休んだわけじゃない」
反射で言ったその言葉。
日下部はまた、少し笑った。
「ふうん。でも……“そう思われるかもしれない”って、考えたでしょ?」
遥は何も答えなかった。
返せなかったのではない。
返したところで、意味がないのが分かっていたからだ。
「ま、いいけど」
そう言って日下部は、壁にもたれた。
スマホを取り出し、スライドする音がした。
「……っていうか、“あっち”のこと。誰かに話してないよな?」
ふいに落とされたその言葉に、心臓が一瞬止まった。
それは、あまりにも無造作で──
あまりにも明確な“地雷”だった。
「話すわけ、ねぇだろ」
声が震えそうになるのを、唇を噛んでごまかす。
だがその震えをごまかす仕草そのものが、相手に“限界”を悟らせる。
「そっか。じゃあ、オレが代わりに……ってのは、ナシか」
完全に“からかい”だった。
なのに、遥の背筋には汗が流れ落ちる。
「……やめろ」
「ん? なにを?」
わざととぼけたその声が、遥の神経を焼いた。
「オレ、なーんにも言ってないじゃん。気にしすぎ?」
それ以上、言葉を返せなかった。
逃げられない。
それは、物理的な話じゃなかった。
“言われるかもしれない”という不安。
“知られるかもしれない”という脅え。
“気づかれてるかもしれない”という猜疑。
すべてが、遥の動きを奪っていく。
喋ることすら、すでに監視されているように感じる。
「じゃ、午後の部。……がんばって?」
去り際、日下部は小さく笑った。
その声音に、優しさは一滴もなかった。
ただ──距離を測りながらも、正確に“効く場所”を突いてくる
それだけだった。
遥は、唇の内側を噛み続けた。
血の味がじんわりと広がる。
けれど、それすら自分にとっては“自傷”でもなんでもなかった。
ただ──「逃げられない」ことを確認するための、唯一の感覚だった。