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◆◇◆◇◆◇◆◇
三日間のテストが終了した。後は、夏休みが待つだけだ。学校から緊張が抜け、皆に笑顔が浮かんでいる。
ほっと息をつくのは、慧も例外ではなかった。最後の週末もバイトに励んでいた為、トータルの勉強時間はいつもよりも少なかった。それでも、納得のいく出来だったと思う。
「慧君、どうだった?」
美緒がニコニコしながら、隣の席に座る。すっきりとした、輝いた表情を浮かべている。
「まずまずだよ。その表情だと、美緒さんは良かったみたいだね」
「うん。慧君のおかげだよ。私、こんなにテストの結果が楽しみなのは、中学生以来かもしれない」
「そう、それは良かったね」
「そうは言っても、学年で半分以下だろうけど、私としては十分に満足な結果だよ」
美緒の笑顔を見るだけで、勉強を教えた甲斐があるというものだ。少しは、彼女の役に立てたようだ。
「なにか、慧君にお礼をしないとね」
「いいよ、お礼なんて」
「でも、私、慧君に甘えてばかりだし。勉強だって見て貰ったんだから、何かお礼が出来れば良いんだけどな」
慧の言葉を聞かず、美緒は腕を組んで思案顔だ。
「ならよ、夏休みに入ったら、みんなで遊園地行こうぜ!」
違うクラスの健介が入ってきた。テストから解放され、彼も上機嫌のようだ。
「遊園地? 僕たちと?」
「そ、この間話していた、ダブルデート。俺達と、慧達とで!」
ニコニコ顔の健介に、美緒も手を叩いて答える。
「ああ、良いかもね! うん、行こうよ!」
「まあ、美緒さんが良いなら」
「じゃあ、決まりね! 場所と時間は、田西君が決めてね」
「おう! 任せてくれ! セッティングは俺が引き受けた!」
健介はやる気満々で、大喜びだ。これまで、健介は慧を誘いたくても誘い難いと言っていた。健介とななのデートに、慧がいたら邪魔になるだけだからだ。
「ああ! やっと慧とダブルデートか、なんか夢が一つ叶った感じだ」
「夢って、田西君、大袈裟すぎない?」
「大袈裟じゃないだろう?」
健介は大仰に両手を広げる。
「常に奥手で、女子の友達もいない慧が、やっっっっっと、彼女が出来たんだ。それも、こんなにも可愛い彼女が!」
「ちょと、健介……!」
クラスのみんなに秘密にしているわけではないが、大声で話されると、やはり少し恥ずかしい。それは美緒も同じようで、顔を赤らめている。
「田西君……!」
美緒は語尾を強め、田西を窘める。
「良いだろう? 別に秘密って訳でもないし。ななには俺が伝えておくから、それまで、絶対に別れないでくれよ!」
健介は力強く慧の肩を叩くと、嬉しそうに体を上下に揺らして教室から出て行った。
健介の背中を見送った美緒は、小さな嘆息を漏らした。
「嵐のような人ね」
そう言う美緒は、満更でもないように笑みが浮かんでいた。
「あいつ、昔からああいう奴だから。気の良い奴なんだよ、本当に」
「そうね、慧君とは性格が正反対に見えるけど、やっぱり、根は本当にいい人なんだね。類は友を呼ぶって言うのかしら」
「だったら、美緒さんも同じだね」
「え?」
美緒は意外そうな顔を浮かべると、小さく頭を横に振った。
「私は、そんなんじゃないから……」
そこで、チャイムが鳴った。美緒は慧がフォローする前に立ち上がると、自分の席へと戻った。HR(ホームルーム)の間、慧は美緒を見つめていたが、彼女がこちらを向くことはなかった。
やっとテストが終わった。意識はしていなかったが、ずいぶんと気が張り詰めていたようだ。こうして一息つくと、心身共に疲れ切っているのが分かる。
美緒は、ほっと長い息をゆっくりと吐き出しながら、上を向いた。息を吸い込むと、コーヒーの香りが鼻腔に流れ込む。
「で、どうだ?」
克巳が、オレンジジュースを啜りながら尋ねてくる。
「え? 上出来よ。入学して、一番良い出来だったわよ。今度は、間違いなく私の勝ちね」
美緒は克巳に返すが、克巳は「違う違う」と、指に挟んだストローを振る。
「あの、カレシごっこの事だ。そろそろ、ネタばらしでもするか?」
「ああ、そうだな。『慣れ』って言うのか? もうつまらなくなったよな」
克巳の言葉に、昌利が賛同する。
「ちょっと待ってよ。期限は夏休みの最後まででしょう?」
美緒は目を見開く。克巳は、色めき立つ美緒に対してふんっと鼻を鳴らす。
「別の遊びをしようぜ? なあ」
克巳は目尻を下げ、隣でアイスティーを飲む詩織を見る。詩織は克巳の視線を受け、「そうね」と、少し照れたような、はにかんだ笑みを浮かべた。
「克巳と昌利、あなた達、本当に詩織とした(・・)の?」
わずかに身を乗り出した美緒は、声を潜めて前に座る二人の男子に尋ねた。克巳と昌利は、お互い見合って、ニヤァとイヤらしい笑みを浮かべた。
「まあ、な」
昌利は、詩織に熱い視線を送る。
「気持ちよかったよね」
克巳と昌利の淫靡な眼差しを受け、詩織は満更でもない表情をした。
「ちょっと、どうしちゃったのよ? おかしいわよ、三人とも」
一見して分かる。三人の身に纏う雰囲気が、これまでと違っていた。仲の良い仲間達から、別の間柄への変化。それは、仲が深まったと言うよりも、もっといびつ(・・・)で歪んだ関係だった。
胸の奥がざわめく。それは、圓治と会うとき、待ち合わせをしているときの気持ちに良く似ていた。
悪いこ事だと分かっていても、止められない。背徳感から来る興奮と、罪悪感。それらが渾然一体となり、心に重くのし掛かってくる。
背徳感を感じることで、自分が大人になっていると錯覚しているだけだ。美緒は、自分自身を省みて、それをよく分かっていた。
「そうか? 俺たちがこうして連(つる)んでいたら、遅かれ早かれ、こういう関係になったと思うぜ? 男と女だしな」
まるで、こっちを誘うかのような眼差しを、克巳は向けてくる。
「だけど……。一度セックスしちゃったら、ただの友達じゃいられないでしょう?」
三人のペースに巻き込まれまいと、美緒は努めて冷静を装った。
「大丈夫大丈夫、俺たちは友達だよ。セックスフレンドってヤツ?」
昌利は言って、自分で笑う。克巳も昌利と一緒に笑う。
「詩織、良いの?」
セックスフレンドと言われ、嬉しい女性はいないだろう。美緒は、詩織を気遣うように声を掛ける。
詩織は笑う男子を見つめていたが、少し肩を竦めただけだった。
「ま、良いんじゃない? 男子は、チンコからアレを出せればそれで満足するんだから。別に、減るもんじゃないしね」
「それは……」
減るものは、『ある』。それは、中学の時から圓治と援助交際をしている美緒だから、よく知っていた。一度抱かれる度、お金を貰う度に、女性としての尊厳が失われていく。それはまるで、自分の一部が欠損していくかのような感覚だった。
やがて、『尊厳』が失われていくことに慣れていく。だが、それは自分を偽り、厚い殻で自分を覆い隠すことにより、逃げているだけだと言うことを知っていた。
罪悪感と後悔が、澱のように心の中に降り積もっていく。やがて、それが許容値を越えてしまう。越えてしまったら、その先に待つのは……。
「なあ、美緒も一緒にやろうぜ?」
突然、克巳が美緒の隣に座ってきた。太い腕を美緒の肩に回して、体を密着させてくる。
「ちょっと、何言ってるのよ?」
嫌悪を露わにして、美緒は克巳を退けようとする。だが、克巳は美緒が本心で言っているとは思っておらず、強引に顔を寄せてくる。
「前から、お前のことを好きだったんだ。なあ、良いだろう? 昌利は抜きにして、俺と一緒にやろうぜ? 二人なら良いだろう?」
「克巳、いい加減に……」
両手を使って克巳を押しのけようと彼の方を向いたとき、克巳の顔が迫ってきた。押しのける暇もなく、美緒の口は克巳によって塞がれた。
「オオオオ! 克巳いったぁぁぁぁ!」
昌利は、人目もはばからず大声を出して笑う。
「克巳も美緒も、だいた~ん」
詩織は両手を叩いて、嬉しそうに克巳を囃し立てる。
美緒の口を押し開け、舌が侵入してくる。
オレンジジュースの香りが口の中に広がり、高い熱を帯びた舌が美緒の舌を絡め取ろうとしてくる。
一瞬、脳裏に慧の顔が浮かんだ。汚れのない、透き通った横顔。彼の笑顔が、セピア色に染まり、汚れていく。
「止めてって言ってるでしょう!」
美緒は思い切り克巳を押しのけると、水を口に含み、それを勢いよくコップに戻した。
「何やってるのよ!」
「何って、お前もいつもやってるだろう? どっかのオッサンのチンコを咥えてるだろう?」
驚いた表情を浮かべた克巳だが、すぐに怒りの籠もった眼差しでこちらを見上げてきた。その瞳は、援助交際をしている美緒を糾弾しているようだった。
「どうして、克巳が知ってるのよ?」
怒りで声が震えている。
美緒は隣に座る詩織を見た。詩織は、バツが悪そうに「流れで、さ」と目を伏せた。
「最悪……」
美緒は立ち上がると、克巳を押しのけ喫茶店を後にした。
最悪だった。本当に、最悪だった。
まだ、克巳の感触が唇に残っている。思い出すだけで、吐き気が込み上げてくる。美緒は立ち止まり、口を押さえた。
胃の奥から熱い液体が込み上げてきて、喉に迫る。
鼻で大きく深呼吸をして、美緒は気を静める。
『良い友達を持ったわね』
振り返ると、あの『少女』が立っていた。
「あなたに、何が分かるのよ」
『分かるわよ。私は、あなたの全てが分かるの』
『少女』はクスクスと笑うと、スキップをして美緒を通り越し、人混みに飲まれて消えてしまった。
「何なのよ、もう……!」
慧に逢いたかった。慧の声を聞きたかった。慧の事を思い出すだけで、胸が締め付けられ、涙が溢れてくる。
「ゴメン、慧君……、ゴメン……」
美緒は認めたくなかった。自分の心に芽生えた恋心。それを認めてしまえば、美緒は慧を振れなくなる。全てを失うことになる。
進むことも、退くことも出来ない。美緒は自分の置かれた状況を呪いながら、溢れる涙をそのままに、当てもなく街を彷徨った。