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そう思っていると、蒼波様はすっと立ち上がり、私を見て微笑んだ。
「では、行ってくる。夜は早めに帰ってくるつもりだから、食事でも一緒にしよう」
じゃあと、蒼波様が離れる寸前。
『待って下さい』『何もお礼も言えなくてごめんなさい』『私を妻にするというのは本当ですか』『私は──稀人なんです』そんな言葉達が胸から溢れて、私が取った行動は離れゆく蒼波様の手を──引き留めてしまった。
瞳をパチクリする蒼波様。
「おっと。あぁ、髪紐のことか。それだったら洗濯をしてこの部屋の鏡台の引き出しにある。あとで見たらいい」
そ、そうではなくて!
いえ、髪紐までお気遣い頂き、誠にありがとうございます! ですが、その感謝の気持ちを私は言いたいのです。
はくはくと口を動かすが、咳き込んでしまうとみっともないので、仕方なく口をきゅっと結ぶ。
いつまでも蒼波様の手を掴んでいるわけにも行かない。
何か書くものさえあれば──と思ったとき。閃いた。私は『失礼します』と言う意味で頭を下げてから、蒼波様の手の平に指を置き、すっと文字を描いた。
「これは……指文字。あ、り、が、と、う、ござい、ます、か?」
伝わったことが嬉しくて、頷く代わりに『そうです!』と、ぱちぱちと拍手をした。
すると、蒼波様がふっと柔らかく微笑んだ。それはとても素敵な笑顔だった。
まるで|滄海《そうかい》。
青々と澄み切った広大な海のような、明るい笑顔。
いつまでも見つめておきたいと思わせる魅力があった。
「真那が礼を言うことは何もない。ゆっくり体を休めたらいい」
では、と蒼波様は踵を翻して静かに部屋を出て行った。
部屋に一人になり、頬がじんわりと熱を帯びているのに気が付いた。
私、長い間ずっと本や文字ばかりと見つめあってきて、あのように微笑まれたのは随分と久しぶりだ。
書物では得られない実体験は胸がこうも躍るなんて凄いなと感じながら、暖かな余韻に浸るのだった。
※
真那の体調が回復して良かったと思った。
でも声が出ない様子は痛ましかった。
真那の部屋を出て、少し廊下を歩いてから独り言を呟く。
「──憶測だが真那を助けたとき、真那の横に医薬品のような薬瓶が転がっていた。きっと東堂凪が何かしたのだろう」
医療知識のある真那が間違いで、薬品を飲むとかあり得ないだろう。どんな理由であれ、子女に狼藉を働く者など許せない。ぎゅっと拳を握り締める。
医療の功績が目覚ましい東堂家。
その血筋にはかつて、人魚の稀人がいたらしい。そして密かに人魚の稀人を隠しているのではないかと、そんな噂が軍部でまことしやかに噂されていた。
所詮そんなのは根も葉もない噂だ。
信じるに値しないとは思っていたが……。
「まさか、本当に隠していたとは」
ここ数年の目を見張る躍進は、東堂凪による内政の手腕によるものは認めるが……独自の医療技術を開発したとかで、上層部に食い込んだとか。
東堂凪、色々ときな臭い人物だと俺は感じていた。
特にあの狂科学者と名高い|石田《いしだ》|史郎《しろう》との繋がりもあるとか──……。
「深掘りはやめておこう」
ふうっと自分を律するように息を吐き出した。
今はそれよりも我が妻。八尾真那だ。
白い肌に黒真珠のような不思議な彩光を持つ瞳。長いしなやかな黒髪は、月明かりの海面のように美しい。儚い乙女そのもの。
──人魚の稀人というのは、容姿だけで頷けるものがあった。
「そんな稀人を我が妻にするだなんて、前代未聞だな」
しかし俺にとっては稀人だろうか、なんだろうがそんなことは関係ない。命の恩人。
その恩に報いるのには、彼女を守るのには蒼波の戸籍に入れて身内にするしかなかった。
そして、弟に真那を会わせたかったと思う。
少し郷愁が胸によぎったとき、長い廊下の先からタタッと勢いよく走る音がした。
「チヒロっ! とうとう人魚姫を手に入れたんだって!? 僕に紹介してくれよ!」
元気な声が廊下に響き渡る。
一応、この家は建築界の父と名高い職人が作り上げた屋敷。西洋建築と日本伝統が融合した、格式ある屋敷だ。
なのに、声の持ち主は軍のグラウンドを駆けるのと同じように廊下を走って来た。
金髪に珍しい|紅玉《ルビー》の瞳。
恵まれた体躯、長身。英国紳士という言葉が具現化したような男。
スーツの方がずっと似合うその男は、俺と同じ黒の軍服に身を包んでいた。
俺の右腕でもある男にさっと手を上げて、立ち止まる。
「おい。クリス。廊下を走るな。士官学校で習っただろう」
「いや、それは僕の家庭教師イザベラから習ったことだね」
「前に聞いたお前の家庭教師は、ジョニーだったのでは?」
俺の前でピタリと止まり「そうだったかな」と、ニコリと微笑むクリス。
その笑顔は婦人を何人も落としてきた、軟派な笑みで軍部でも有名だが、男の俺にも向けてどうするといつも思う。
「さて、チヒロ。普段|Sulky face《仏頂面》で有名な君が穏やかにしていると言うことは、人魚姫の容態は回復したと言うことだろ」
「そうだ」
「凄いね。主治医に聞いたら人魚姫が飲まされた薬は、とんでもない劇薬だったそうじゃないか。あぁ、でもチヒロの瀕死の傷も治したから本体は、より強力な回復力があるんだろうねぇ」
クリスが瞳を細めて意味深に笑い、俺の返答を促していると思ったが沈黙を選んだ。
すっと自分の胸に手を当てる。
軍服の服の下の素肌。そこに胸の傷は跡形もない。後遺症すらもない。
奇跡なんてやすい言葉ではなく、神の力と言っても申し分ない御技がこの身に降り注がれた。
先ほど、真那の手先を見たが昨日ざっくりと爪先が割れていたと言うのに、真那の指先は桜貝のように美しい爪先で傷一つ無かった。
本人はそれに気付いているのか、そうやってすぐに傷が治癒するのが当たり前のことなのかは、判断が付かなかった。
コメント
1件
第12話、読み終えたよ🖤 指文字で「ありがとうございます」って伝えたシーン、すごく胸にじんわりきた…声が出せないもどかしさを蒼波様がちゃんと受け取ってくれたのが切なくて温かかった。そして「滄海のような笑顔」っていう表現、すごく綺麗だと思った。 最後に出てきたクリスって人、何か掴めない感じで気になる…また次の話が楽しみです🌙