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この物語にはキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
ほんの少し気温が下がった夜。
虚霊が潜んでいた廃棄から離れ、俺とイロハは人気のない道を静かに歩いていた。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、月の光は穏やかで、遠くから俺たちを照らしている。
「……うわぁ、服に鉄の匂いが染み付いてる」
鼻を近づけて上着を嗅ぐと、生臭い血の匂いがバッチリこびりついていた。
ふと現在時刻が気になり、ポケットからヒビ割れたスマホを取り出す。
液晶に浮かんだ数字は、《21:16》。
思わず息を吐く。――俺たちは、あの廃棄でどれだけの時間を過ごしていたんだろうか。
虚霊との戦闘後、俺は気絶するように眠りについてしまった。そしてイロハも、俺が眠った後に寝てしまったようで、帰るのが遅くなってしまった、という訳だ。
母さん、さすがにもう帰ってきてるだろうな。どうやって説明するべきか。
俺が血まみれのまま帰ったら、あの母さんでも、絶対に余計な詮索をされる。
ひとり、母さんの機嫌を損ねたらどうしようと考える。
ただ謝ってもダメだし、言い訳してもダメだし、どう転がっても怒られること間違いなし。最悪。
「……今日は、月が綺麗ですね。」
ふと、イロハが独り言のようにそう呟いた。
珍しくイロハから話を始めるもんだから、少々驚きながらも、 俺は夜空を見上げた。
「そうだな。手、伸ばせば届きそう。」
イロハが小さく笑った。
「届きませんよ。月は……どれだけ手を伸ばしても遠いものですから。」
「……イロハは、なんか達観してんな。」
俺は苦笑しながら、スマホの画面を閉じる。
さっきまで命懸けで戦ってたやつのセリフとは思えない。
「でも、届かないからこそ、見上げる価値があるんです。レンも、そう思いませんか?」
その瞳は月の光を映して、いつもより柔らかく見えた。
思わず目を逸らす。
……こいつ、時々こういうこと言うから困るんだよな。
「うん、そう、思う。」
「?……レン……?なぜ目を逸らすのですか。」
イロハは俺と目を合わせようと、歩を進め、俺の方に近づいてくる。俺より十センチは低いであろう彼女の背丈。つま先立ちをして、こちらを見つめる。
「いや、近い近い。距離感バグってんのか。」
俺が一歩下がると、イロハもつられるように一歩近づいてきた。
「? バグってはいません。ただ……」
言いかけて、イロハは小さく首を傾げる。
「レンが、ちゃんと答えてくれたのが少し、嬉しかったので。」
「……ふーん。」
俺は頭を掻き、視線をそらす。
「怒ってますか。」
「怒ってない。」
何故か、耳が、頬が、手が熱い。とくん、とくんと、脈打っているような感覚に包まれる。
「……あの。レン。ひとつ聞いてもいいですか?」
「ん?」
するとイロハは、顔を俯かせて、両眼を閉じた。そのまま眠ってしまうんじゃないかと思うくらいに美しい。ゆっくり息を吸い、吐いて、それを二回続けたあと、想像よりも答えにくい問いが飛んできた。
「あなたは、’’死にたい’’と、’’消えたい’’の違いを知っていますか」
「え?」
どうしたんだと聞きたくなる。そんな問いを何故俺にぶつけるんだ。でも、その眼差しは真剣で、
ちゃんと答えなければと、俺は必死に考えた。
昔読んだ本の言葉を、そのまま言葉にしてみた。
「え〜と……死にたいと思う時は、心の中で’’生きたい’’っていう感情とせめぎ合ってるんだと思う。今まで生きてきて楽しい事も沢山あった、でも今はどれだけ頑張っても、それを実現することは出来ない、だから’’死にたい’’と思ってしまう。」
「では、消えたい……は?」
イロハはいつになく悲しそうな表情で、切なくて。一体この子の頭の中で何があったのか気になる。
俺は頭の中にあるぐちゃぐちゃな情報を、どうにか言葉としてまとめあげるために、必死に考えて、地面に転がっている石を蹴った。
「消えたいっていうのは……今まで生きてても、’’幸せだ’’と思うことがなくって、現実に絶望して、ただなんの意味もなく存在している感覚……かな?自分が存在することに疲れて、’’この場所からサッと消えたい’’って思うことかな。」
この話が、イロハにちゃんと伝わっているか心配だ。もしかすると理解できない可能性もある。
「……そうですか。」
イロハは小さく頷いて、俺が蹴った石を、今度はイロハが優しく蹴った。
「なら私は、疲れているのかしら。この世界に絶望して、だから、戦っている時も’’消えてしまいたい’’という考えが頭をよぎったの?
……どうして?私が何も知らないのが悔しいからそう考えたの? 」
その問いは、俺に向けられているんじゃなくイロハ自身に尋ねているような気がした。小さな石を踏み潰し、自分を責めるようにブツブツと呟く。
表情はいつものように無表情。だけど切なさと自傷に満ちたその顔を見るのが俺は嫌だった。
俺の言葉は、イロハの胸には届いていないのかもしれない。
それでも、伝えずにはいられなかった。
彼女が自分を責め続ける限り、その痛みから目を逸らすことなんてできない。
「……イロハ。」
俺は彼女の手を握った。冷たく、小さな手を。
言葉はいらなかった。ただ強く、優しく伝えるように。
イロハは俺の顔を見て、ゆっくりと目を閉じてから、開く。
やがて僅かに眉を下げ、小さく口角を上げた。
「ありがとうございます。でも、ごめんなさい。」
そう言って彼女は、そっと俺の手を解いた。
その笑顔は痛々しいほど脆くて、俺はそれ以上言葉をかけられなかった。
五月の夜風が、二人の間を静かに通り過ぎていった。
帰宅して玄関に足を踏み入れると、母さんのいない静かな家が迎えてくれた。
母さんはまだ仕事だったみたいで、とりあえず怒られずに済みそう。
玄関の棚の写真立てに目がいき、ついその写真に見入ってしまう。
俺と母さんと父さんとミヨ。その四人が揃っている写真を撮ったのは、この写真が最後。
その後は父さんが死んだ、事故で。そして、ミヨまでも、死んだ。
戻ってこない時間。この世に居ないということをこの写真は毎日教えてくる。
「ただいま。」
誰にも届かない言葉を言って、靴を脱ぐ。
俺は真っ先に自室に行き、ドアを閉める。
いつもならご飯作ってやっておかないとだけど、今日は朝に作って冷蔵庫入れたし、大丈夫……。
服には血の匂いがまだ微かに残るが、窓から差し込む月光が部屋を優しく照らしている。
相変わらず机の上はごちゃごちゃのまま、読んだ小説やら、シャーペンが散乱している。
まぁ、今はそんなのはどうでもいい。とりあえずシャワー浴びてベッドにそのまま直行したい気分。
俺は上着を無造作に放り投げ、ベッドに倒れ込んだ。
上着を脱いで半袖になると、右腕の大きな切り傷が残った古傷に目が行く。あの日、傷つけられてから、治ってくれない。きっともう、治らない傷。
記憶が残像のように頭を駆け巡りはじめる。血の匂い、泣き声、痛み、破片。
「……。」
できれば、この傷は見たくない。
ふぅ、と息を吐く。――今日の戦いが、少しずつ夢のように思えてくる。
でもそれより、頭の中ではイロハのことで沢山だ。
急に難しい問いを問いかけてきて、俺がそれに答えたら、イロハは自分を責め始めるし。あんな自己嫌悪に満ちた顔は見た事ない。
「イロハ、どうしたんだ……?」
ーー『ありがとうございます。でも、ごめんなさい。』
「ありがとう、でもごめん?……ハハッ、意味わかんねぇ」
イロハの矛盾したその言葉が、俺の中にずっとぐるぐるしてる。この現象に名前があるのだろうか。
「ちょっと、元気なかったな。暗いし。いや、暗いのはいつものことか。」
たまには少し、楽しそうな顔が見てみたい。
でも、人を笑顔にさせるなんて、そんなこと今までできなかった。だからこんな時どうすればいいのか分からない。
十数秒考えた後、ひとつの着想を得た。
俺は重たい身体を無理やり起こし、決断するように言った。
「ちょっと遊ぶくらい、いいよな。 よし、明日はちょっと遊ぼう!」
そう言って拳を固めたあと、重大な問題があることに気づいた。
「遊ぶって……何するんだ……?」
「私は一体、どうしたの。
どうして、そう思ったの……?」
夜。人気のない路地裏で、また夢を見る。
朝日が昇れば、目を覚ます。
虚霊が現れるかもしれないから、壁に背を預けたまま立ち尽くし、眠る。
深夜でも――目を開ければ、斬る。
それが毎日。繰り返し。
虚霊を排除し、望む者には救済を、死を与える。
闇に呑まれた者がいれば、光へ引き戻す。
それが’’正しい’’と、お母様は言った。
だから私は、その通りにしてきた。
悲しいも、寂しいも、楽しいも。もう、全部無い。
残ったのは ’’静寂’’だけ。
……なのに。
レンと出会ってから、何もなかったはずの心が少しずつ動き出した。
怒りも、悲しみも、楽しいも。
少しだけ思い出してきた。
涙を流したこともあった。
悩むことが増えた。
あの日。レンの声が、胸を貫いた。
「そんなふうに人を殺せるのか?」と。
あの時は冷静を装った。でも、心の中では少し迷った。
――私は救ったの? それともただ殺しただけ?
フユリの虚霊を前にして、私を襲ったのは後悔と怒りと……空白。
私は命を見捨てた、と彼女は言った。
だから考えてしまった。
「私は生きていていいの?」
「消えるべきじゃないの?」と。
……レンに尋ねた。死ぬことと、消えることの違いを。
私は何も知らないまま、救済を語ってきた。
お母様。私はどうすればいいの?
救済という言葉があれば、殺していいの?
――違う。分かってる。
命は、かけがえのないものだって。
でも、それは綺麗事。
私はただ、自分の手が血に染まるのが嫌なだけ。
「私は、どうすればいいの」
誰も答えない。剣に宿るお母様の魂でさえ、沈黙したまま。
ただ冷たい風が髪を揺らすだけ。
目を閉じても、夜は終わらない。
それでも、朝は来る。
私を――照らすように。
結局、眠れなかった。
頭の中を色々な考えが駆け巡り、目を閉じても眠気は来なかった。
途中で諦めた私は、明日もレンに会う予定だと考え、公園のベンチに腰を下ろした。空にはまだ月が輝いている。冷たい風が髪を揺らし、夜の静けさが少し心を落ち着かせる。
でも――戦いの余韻はまだ残っていて、身体は緊張を解こうとしない。
夜が白み始め、朝日が登った頃、街の明かりは徐々に消え、空は淡い橙色に染まった。近所のおばあさんが公園に来て、私を見て目を瞬かせる。
この人、朝起きるの早いです。すごく健康的。
でも、そんなに目をぱちぱちさせて、 眠たいのかな。
私は邪魔だと思い、公園を出る。まだ冷たい空気が肺を満たす。
街を歩くと、徐々に交通量が増え、子どもたちの笑い声が聞こえるようになる。茶色いランドセルを背負った男の子が、勢いよく走っていて、ぶつかってしまった。
「あ!ごめんなさい!」
「いえ、私が悪いですから。ごめんなさい」
男の子はぽかんとした後、もう一度お辞儀をして走り去る。
私はその後ろ姿を見送った。あの子、いい子だった。
もう少し歩くと、黒いスーツの人がため息をつき、体調が優れなさそうに見える。
この世界は、子どもは笑顔なのに、大人は影を背負っている。夢を諦め、希望を手放す人が多いから、死を願う者も後を絶たないのだろう。
そして、レンが来るのをひたすら待った。
待ち合わせはいつも午後一時頃。
駅前広場のベンチに腰かける。
広場には、水が湧き出ている噴水がある。陽の光を帯びているから、水が輝いて見える、綺麗。
地面は固い石で出来ている。つまずいたら大量出血間違いなしね。
そのまま、五時間 ほど待っていると、ふと思い出す。
「あれ、待ち合わせ場所って公園なのに……どうしてここにいるのかしら。」
間違えた。どうして公園を出てしまったのか。
慌てて、もう一度公園に戻ることにして、立ち上がった。
その時だった。
「あっ!イロハ!見つけた!!」
「!」
声のする方に視線を描くと、そこには真っ白な服の上に真っ黒な上着を着た、透き通るような青空を映した瞳を持つ少年がいた。レンだ。
「もー、俺探したんだからな?いつもの公園にはいなかったし……。」
レンは息を切らしながら駆け寄ってくる。
思わず目を丸くして見つめる私に、レンはちょっと照れたように笑う。
胸がちくり、と痛むような感覚。心がほわほわと浮くような。
「あ……。こんにちは。」
声が少し震えている自分に気づいて、羽織の裾を握りしめた。
「私がここにいるって、よく分かりましたね。」
「いや……手当り次第イロハのいそうなとこ探してたんだよ、見つかったのは偶然。」
偶然……? でも、こうして私を見つけてくれたのは、嬉しいことなのかもしれない。
私は小さく頷き、ほっと息をついた。
「……じゃあ、そろそろ行こうか。」
「行こうって、何処へ?」
そう尋ねると、レンは少し考えるように「えっと」と言った。そして首を傾げて言った。
「今日は、ちょっと遊ぼうか!ほらイロハって、あんまり街のこと知らないだろ?だから街案内……的な!」
人差し指を立てて自慢げに言うレンの笑顔は、風がそっと止まった瞬間のように、静かで柔らかかった。
私は一瞬、言葉の意味が分からなかった。
遊ぶって……最近は虚霊も強くなっていて、状況的には遊んでいい気がしないのだけれど。
「……はい?」
私、今。旅を始めてから一番反応に困ったかもしれない。やっぱりこの人と関わるようになってから何かが動き始めた。
「さ、行こう。」
困っていてもお構い無しに、レンは私に手を差し伸べる。私よりも大きな手。
その手を取っていいのか。躊躇した、彼の顔を見上げる。
レンは相変わらず優しい笑みを崩さずに、私の返事を待っている。
いいのかしら。でもせっかく、誘ってもらったのだから、断ったら悲しむだろうし。
「……お願いします。」
ゆっくり、彼の手を取った。その手は私の手を包み込んで、とても暖かい。まるで太陽のようだった。
「……ん〜、 じゃあまずはイロハの好きそうなところ行こうか。」
「私の、好きそうなところ?」
「うん、絶対好きだよ。」
彼は、子どものように無邪気な笑みを浮かべていた。
レンに言われるがまま街を歩いて、彼の後ろをついていく。
一体、私の好きそうなものとはなんだろう――そう考えていると、どこからか不思議な甘い匂いが漂ってきた。
優しい、懐かしい香り。
クッキーやケーキのようなはっきりした甘さじゃない。
もっと静かで、胸の奥に染みこんでくるような、落ち着いた甘さ。
歩を進めるたび、その香りは強くなる。
「着いたよ」
レンが足を止めてそう言う。
彼の視線を追って見上げると、そこには木造でできた古き良き建物が佇んでいた。
柱は煤けていて、窓には磨りガラス。入口には野原のように澄んだ緑色ののれんが風に揺れている。
レンは迷いなくそののれんを手でくぐった。
そして振り向き、どこか誇らしげに笑う。
「こういう場所、初めてだろ?」
「……はい」
思わず返事をしながら、胸がふわりと温かくなる。
知らないはずなのに――どうしてだろう、少し懐かしい。
恐る恐る店に足を踏み入れると、より一層ふんわりとした甘さが嗅覚を支配した。
ほのかに焦がした皮の香ばしさと、柔らかな甘さが混ざり合った匂いが、店内に充満していた。
「いらっしゃい。って……レンちゃんじゃない!」
「お久しぶりです。浦見さん。」
……れん、ちゃん?
店の奥から出てきた女性は、レンを見るなり、目尻にシワを作って、陽気な声で話し始めた。
レンもこの方と親しいみたいで、笑い声を漏らしながら談笑している。
店内にはガラスのショーケースがあって、色とりどりの和菓子が整然と並んでいた。そして品札には、丁寧に値段と菓子の名前が書いてある。
艶やかな’’羊羹’’に、白く丸い’’大福’’、春を思わせる薄紅色の’’おはぎ’’。
光を受けた’’寒天’’は、宝石のように透き通っている。餡の甘い香りがガラス越しにほんのり漂ってくる気がした。
どれも小さな宝石のようにきらめいて見える。
これ、食べ物だって言うの?
まるで食べ物じゃなくて、小さな美術品みたいで……とても口に入れていいものには見えない。
こんな綺麗なものを口に入れるなんて、罰が当たっても文句は言えない。
「レンちゃんも、もう大きくなっちゃって……春にミヨちゃんと一緒に来ては、桜餅ばっかり欲しがってて……。」
「はは、バラさないでくださいよ。」
レンが気恥ずかしそうに頭をかく。
……そんな一面、私は初めて見た。
こんなふうに、笑いながら誰かと話しているレンは、なんだか遠い存在みたいに思えた。
また、胸の奥がちくりと痛んで、思わずショーケースに視線を落とした。
すると、レンが’’浦見さん’’と呼ぶ女性は、今度は私に声をかけてきた。
「あら、レンちゃんのお友達かしら?可愛い子ねぇ。お名前は?」
ニッコニコの満面の笑みを私に向けて尋ねてくる。この方、お話するのが好きなのかしら。
「……桜月イロハ、です。」
「イロハちゃん!いいお名前ね!」
「ありがとうございます。」
浦見さんは、丸い眼鏡をかけた小柄な女性で、ふんわりした笑顔はまるでお餅みたいに柔らかい。
「あれ、まだ桜餅売ってるんだ。」
レンはショーケースに目を移すと、驚いたように言った。
「もう桜は散ったけど、うちじゃ常連さんが好きでね、少しだけ残してあるんだ」
「桜餅……とは何ですか?」
「あっ、知らない?」
レンはまるで宝物を見せる子どものように、にっと笑って指をさした。
「これだよ、俺、これ好きなんだ」
緑の葉っぱで包まれた、淡い桃色のお餅。
レンは、これが好き。
私も少しだけ、興味が湧いてきた。レンの好きだという桜餅、食べてみたい。
「葉っぱ、食べられるんですか。」
問いかける私に、レンは子どものように楽しげに答える。
「葉っぱの香りがね、すごくいいんだよ。食べられるんだけど、人によるんだ。俺はいつも一緒に食べちゃう」
「……そうなんですか」
ただの食べ方の話なのに。
’’レンはいつも一緒に食べる’’――それを聞いただけで、どうしてこんなに胸が温かくなるのだろう。
私も同じようにしてみたい。
「私、桜餅に興味があります。」
するとレンは、私を見て、フッ、と優しく微笑む。
「?」
「じゃあ浦見さん。桜餅ふたつ、お願いします」
レンは左手で人差し指と中指だけを立て、顔の横に近付けた。
レンが代金を払ってくれた後に、私たちは桜餅を手にして、店外の小さな縁台に腰掛けて食べることにした。
手に持って眺めてみると、やっぱり美しい、造形美。
少しでも力を加えてしまったら、潰れてしまいそう。これを作っている人は相当器用。
「……頂きます。」
恐る恐る、葉っぱと一緒に一口かじった。
「……んっ!」
瞬間、未知の体験に襲われた。
優しい餡の甘さが口いっぱいに広がる。塩気の残る葉が舌に触れ、やわらかな餡の甘さと混ざり合う。甘いけど、しょっぱい。
柔らかな餅の食感が、楽しい。
爽やかな春風が、口の中で優しく吹いているよう。
私は目を大きく見開いてレンを見た。するとレンは、苦笑しながら、「よかったなぁ」と。
まるで小さな子ども相手に言うように間延びしていた。
「おいしい?」
私はその言葉に声で答えず、ただ、こくこくと何度も頷いた。美味しすぎて言葉にできない。
「そんなにか。」
私は口の中の桜餅をごくん、と飲み込んだあと、レンを見つめた。
「こんな体験をしたのは初めて……森の宴の時に出される果実より、ずっと繊細。」
「宴?」
レンは不思議そうに目を細めた。そうか、この人は宴を知らない。
「……祭りのようなものです。昔私の住んでいた森は、毎年、桜の咲く季節に妖精と、人。みんなで集まるんです。その時に、甘い蜜がたっぷりの果実を食べます。」
「へぇ〜、ファンタジーだな」
きっとレンには、妖精とか、私にとって身近なものは全ておとぎ話に聞こえるんだろう。今は妖精なんて私以外いない。いや、私は混血で羽も無いから人間……?
今はそんなのどうだっていい。目の前の桜餅を食べることが先。
私はもう一口、頬張った。それを夢中で繰り返すうちに、全てなくなってしまった。
食べ終わってしまったのが惜しい。まだ十個は食べられる。でもきっと迷惑ね。他の人たちが食べられなくなってしまう。
「そんなに気に入ってくれたなら、連れてきた甲斐あったな」
「私を、子ども扱いしてませんか。」
「してないようで、してるかも。」
レンはイタズラな笑顔を浮かべて、縁台から立ち上がった。そしてまた、手を伸ばした。
「次、行こう?」
私は、足が宙を浮くような感覚に見舞われた。なんだろう。これは、歌でも口ずさみたい気分。
「……はい。」
返事をした自分の声が、いつもより少しだけ軽やかに聞こえた。
甘さがまだ口の奥に残っていて、胸の奥もほんのり温かい。
桜の葉の香りと、レンの差し出す手の温もりが重なって――
私は、自然と微笑んでいた。
次はどうやら、最近新しくできた’’ゲーセン’’というところに行くらしい。正式名称は’’ゲームセンター’’。
正直そんな言葉聞いたこともない。レンに聞くと、「子どもや大人もいる、遊ぶ場所。」らしい。
想像ができない、一体なんだろう、’’ゲーセン’’。
でもそこに行く前に、街にはたくさんのお店がある。いや、お店があることくらい元から知ってはいるけれど。ラーメン、ファミリーレストラン、あと、カラオケ。レン曰く、カラオケは歌うところらしいけど、食べ物もあるらしい。
思った以上に誘惑が沢山あって、’’ゲーセン’’に行くまでの間、立ち止まっては眺めての繰り返し。
そして、私を悩ませるものと出会ってしまった。
それは……。
「……。」
「どうしたイロハ?」
「……。」
「うおーい?」
レンの呼びかける声を無視して、私の足を止めたのは、建物のガラスに貼られた写真。
その写真には、細長いガラスの器に、スポンジケーキにいっぱいの白い生クリーム、更には大量の苺が乗った。’’パフェ’’。
それを見た瞬間、運命を感じた。
食べたい。
でも欲望に駆られて食べるなんて、私のプライドが赦さないし、何よりこれから’’ゲーセン’’に行くの。でも食べたい。
生唾を飲み込む、これは一種の運命の決断。
さてどうするの私。食べるのか、食べないのか、どっちにするのか。
「ん……んん……」
つい唸り声を上げながら、顎に手を当てて考える。
するとレンが、私を肯定するように顔を覗き込ませた。
「店ん中入んないの?食べたいんだろ?」
「でも、欲望に負けて食べるなんて……。」
困ってしまってレンを見上げた。彼は呆れるように苦笑を滲ませた。
「いいじゃん。行こう?今日は息抜きの日だ。別にいいんだよ。」
私は自分の髪をくしゃ、と握りしめてよく考えた。
息抜き、息抜きなら別にいいの?
そうだ、今日は遊ぶ日。レンもいいと言っているし、いいのかな。でも。
「行くぞ」
私に答えを出させる暇もつくらずに、レンは私の手首を掴んで引っ張った。私の足は勝手に動き始め、店に吸い寄せられるように、鈴の音ともに開いたドアの奥へと進んで行った。
半ば強引に引っ張られながら店内に入る。レンが店員さんと少し話したあと、ソファ席に案内され座席の窓側に腰掛ける。
レンも向かい合わせになるように座って、メニュー表をパラパラめくって眺めた。
私がさっき外で見ていたパフェのページでめくる手を止めて、指を指して私の方に見せた。
「食べたいのは、これ?」
「……ええ。」
顔が熱くなった。顔を俯かせ、歯を食いしばって、指の爪が皮膚に食い込むほど手を握りしめた。熱すぎて頭から湯気が出ていたっておかしくない。
「おっけー」
そんな私に気づかずに、軽口で答えるとレンは、店員さんを呼んでパフェを注文する。店員さんは「少々お待ちください」と丁寧にお辞儀したあと、どこかに行ってしまった。
しばらくすると、店員さんがパフェを運んできた。白いクリームに苺がふんだんに乗った、それはまるで小さな塔のようだった。ガラスの器が陽の光を受けて、虹色の光を反射している。
私の目には、反射の光とはまた別に。キラキラと光る微粒子が見えた。輝いて、見える。
「……わぁ……」
思わず息を漏らす私に、レンはにっと笑った。
「ほら、食べなよ。」
レンに勧められて頷いたあと、恐る恐るスプーンを手に取り、一口すくう。
スプーンの中に乗ったクリームと苺を眺めて、一口。
最初に感じたのは、ふわふわのスポンジ。続いて、冷たく甘い生クリームがとろけ、苺の酸味が最後にほのかに残る。
「……っ、あま……い……」
思わず声が漏れる。レンは楽しそうに見つめて、私の表情を楽しんでいるかのよう。
「どうだ、美味しいだろ?」
「……すごく、美味しいです……!」
その一言を言うのに精いっぱいで、顔が熱くなる。
レンはスプーンを手にせず、私を見つめながらちょっと意地悪そうに笑う。
「あなたは食べないのですか?」
「俺は見てるだけでいいや」
「……ずるいです」
思わず呟く私に、レンは小さく肩をすくめた。
「楽しそうな顔、見たいだけだから。」
その言葉に、胸がぎゅっとなる。ほんの少しだけ、世界が柔らかくなった気がした。
その後も、一口、また一口と。淡々と口に運んでいく。私は今までずっと旅をしていて、この街にもいたはずなのに、なのに今まで食べ物に興味を示さなかった。でも今わかった。この街の食べ物は美味しい。
「……へへ」
口角を上げてしまう。そしてまたすくって食べる。それを繰り返していると、あっという間に食べ終えてしまった。
「……ご馳走様でした。」
全て無くなった喪失感と満足感で心が満たされた時、レンは私に尋ねた。
「満足したか?」
「はい、とても満ち足りています。」
そう答えると、レンはテーブルに肘をついて「そう」と微笑んだ。
「……さてと、次は’’ゲーセン’’だな」
レンの言葉に、まだ胸に甘さが残ったままの私は、ちょっとそわそわしながら頷く。
未知の遊び場に、少しだけ胸が弾む。
午後三時頃。ようやく目当ての’’ゲーセン’’に到着した。
「……ここが、’’ゲーセン’’」
「うん、そうだよ。」
私は、外の人混みの中、映えるネオンの光を目にする。
入口には、何やら見張りのように赤と青の光を放つ看板。人が近づくと勝手に開く’’自動ドア’’が構えていた。
中を覗けば、ガラス越しに色とりどりの光が瞬き、まるで別の世界の入り口みたいだ。
思わずレンを見つめる。
「え、何?まさかこういうとこ嫌い……?」
眉を下げて尋ねてくるレンに、左右に首を振って否定する。
「いいえ。ただ、想像していたものとは違って……とても、チカチカしていて。」
「あーね。てか逆に、どんなの想像してたんだよ。」
「ええと、子どもも大人も遊ぶ場所と聞いたので、公園みたいなのかと。」
「ううん、でも楽しいよ。」
私はこくり、と頷いたあと、足を動かし始める。自動ドアをくぐって、一歩踏み入れた途端、四方から音が押し寄せてきた。機械の電子音、メダルの落ちるシュピーン、という響き、誰かの歓声や悔しそうな叫び声。それらがごちゃ混ぜになって、まるで耳が溺れそう。これこそ喧騒の異世界。私とは違う世界。
けれど、不思議と胸の奥がそわそわと弾む。
「……。」
「どう?俺もここのゲーセンは来るの初めてだけど、広いな……。」
レンも隣に立って、フッと笑った。
「未知の世界です……。」
「はは、いいじゃん。たまには未知の世界を体験するのも。」
「ねぇレン。あれは何?あの機械は何?」
私は巨大な機械を指さした。その機械は透明の壁でおおわれた空間に、ぬいぐるみがぎっしり詰め込まれている。ぬいぐるみの上には、アームのような機械がついている。
そんな巨大機器が、店内にいくつも設置されていた。
「ああ、クレーンゲームだな。あのアームで景品掴んで、落としてゲットする、っていう感じのゲーム。」
「簡単そうですね」
「思うだろ?それがそうでも無い 」
私は店内にある’’クレーンゲーム’’を見渡す。
店内のほとんどがその機械で埋まっているような気がする。みんなこれが好きなのかな。
私は少し、少し気になって、店内を探検してみようと思った。
コトッ……と地面を蹴って、レンを差し置いて駆け始める。まるで花の蜜に吸い寄せられる生物のように。
「ちょ……!走っちゃダメだぞ!」
「分かってます……!」
分かってる、分かってるけど。
胸がふわふわ浮いて、足が勝手に軽くなる。こんな感覚は、今までの旅でも感じたことがなかった。
たくさんの’’クレーンゲーム’’の景品を見つめる。お菓子、ぬいぐるみ、更にはお米までが、景品になっている。最近の人はなんでも景品にしたがるのかしら。
そんな時、ひとつの景品が私の目に映った。
私は足を止めて、それを眺めた。それは手のひらに収まるくらいの、小さな白猫のぬいぐるみ。金属のチェーンがついている。
「こら〜、走るなって。」
レンがゆっくり歩いてくる。
「走ってないです。駆けたんです。」
「どっちも一緒だわ。」
確かに、意味合いはどちらも同じね。
レンは私の目の前にある白猫のぬいぐるみを見て、レンも欲しいのか、黙って財布を取りだして、硬貨を挿入した。カリン、という挿入音が鳴ったあと、レンは機械に付いているレバーを使って、アームを動かし始めた。
軽快で、やや緊張感のある音楽が流れながら、レンはぬいぐるみの真下にアームを動かして、ボタンを押した。するとアームは下がって行き、やがてぬいぐるみを掴んだ。アームがぬいぐるみを持ち上げて、入手するまであと一歩というところで、ぬいぐるみが落ちて入手失敗。
ほんの一瞬、胸が期待で跳ねたのに、落ちた瞬間そのまま一緒に沈んでしまった。
「やっぱり、簡単には取れないや。」
レンは少々諦念が滲む声で微笑んだ後、またもや硬貨を挿入 した。まだ、やる気なのね。
でも結果は失敗。このゲーム、見ていて分かったけれど、入手できると思った瞬間にアームの力を弱めて、わざと失敗するようにしている気が。
店内は明るいのに、この機械の仕様はなんだか子ども達にお金を使わせるための道具に見えてきて、社会の闇が垣間見える。
なら。
「私も、やってみたいです。」
「お、いいね。……はい。」
レンは私の手のひらに硬貨を三枚添えた。なぜ一枚じゃないのか。入手失敗を想定してくれたのか。
でも、そんなに必要ない。
レンは私の立つ右側で傍観し、「頑張っても取れない」という想いが表情で見て取れた。
私は機械の前に立って、アームを睨みつけてみせた。
「わざとアームの力を弱くして、失敗させる。あなたの魂胆、丸見えです。」
「……誰に言ってんだよ」
私は硬貨を挿入する。
音楽が流れ始めて、アームを操作する権限が与えられる。
「このタグ……鎧の隙間みたいなもの。そこを突けば、勝てます」
つまり、作戦はこう。
このぬいぐるみには、タグが付いている。ならそのタグの輪っかにアームを引っ掛けて、そのままアームに運んでもらうという作戦。
あとは。
「もし三回挑戦して、入手失敗だった場合は、この機械ごと斬り刻んで入手します。」
脅し。そう、罪人でも脅されれば自白する。警察は脅されれば慎重になるのと同じで、このアームにも殺気という名の脅しをすれば、きっと手に入る。
「おいやめろ、そんなことされたら俺人生終了すぎて泣くんだけど。」
レンは頭を抱えてため息をついた。私変なこと言ったかしら。
私はレバーを動かして、どうすればぬいぐるみのタグを引っ掛けられるかを必死に考えたあと、ボタンを押した。アームはどんどん、下に下がっていく。
アームがタグに触れた瞬間、息を止める。金属の爪がほんの少し輪っかに引っかかって、持ち上がる。
よし、成功した。
……と思ったのも束の間、途中でカタリと落下。
胸の奥でぱちぱち火花が弾けたのに、落ちた瞬間、それは氷水をかけられたように消えた。
「ふ、不正……!この機械、私に逆らいました……!」
「いやただ落ちただけだからな!?」
「赦さない。もう一度。」
「切り替えはやっ。」
だけど、二回目も三回目も、失敗した。
なるほど、分かった。この人私に斬られたいのね。ならお望み通り微塵切りにする。
「覚悟……!」
私が剣を抜こうと柄に手を伸ばすと、レンは
「うわああああ!」と叫んだ。
「なんですか。」
早く斬ってやりたい気持ちを抑え込んで、レンの方に視線を描いた。
「ほんとにやめて、俺社会的にしんじゃう。」
手をフリフリさせながら言ってくるレンを見ていると、なんだか私が悪い気がしてきた。
「むっ、それは……良くない。」
私は剣を抜くのをやめた。でも代わりに、取れるまで帰らない。
集中するのよ私。今からこのクレーンゲームとぬいぐるみ以外には集中しないように。揺るがす冷静に。いつもの私はそうなのだから。
もう一度レンに硬貨三枚を受け取ったあと、挿入して完全に物音を遮断する。
目の前のものだけに集中、タグに引っ掛けて入手。それが今の私の使命。
アームがタグに触れる。そして金属の爪がタグを捕獲し、ぬいぐるみはぶら下がる。
生唾を飲み込んで傍観するしかない。さぁ、落ちるのか、落ちないのか。ハッキリして。
「……落ちない。……落ちない!?」
心臓がどくん、と一つ大きく跳ねて、世界の音が一瞬だけ遠のいた。
そして――『カシャン』。
ぬいぐるみは、穴の中に吸い寄せられて行った。
つまり。
「せい、こう……?」
「おぉ……すげぇ……。」
私はぬいぐるみを取りだして、手の中に収めた。
白猫のぬいぐるみは、毛並みがもふもふしていて柔らかい。表情も笑顔で、見ているこっちがついほころんでしまう。
私は左手を軽く握りしめて、「私の勝利……!」と小さく呟いた。ゲームの魂胆に打ち勝った。嬉しい。
「凄いなイロハ!まさかこんな早くゲットするとは。」
レンが興奮気味の声色で話しかけてきた。彼の頬は、ほんのり赤い。
私はレンの表情をただ見つめた。大きく上がった眉。光が揺らぐ瞳。パクパクと動く桜色の唇。その全てが、なんだか綺麗。
「……イロハ?」
「あっ、そうでした。」
「え、何?」
私はぬいぐるみに着いた商品タグを、プチッと引きちぎって、そのままレンに渡した。
レンはそれを見て、軽蔑する表情を浮かべたあと、言った。
「なんでタグそんな簡単に引きちぎられるんだよ。固いだろ。」
「え?そんなことは。それより、はい。」
「……はい?」
私はレンの手にぬいぐるみを差し出すと、レンは心底不思議そうに私とぬいぐるみを交互に見つめる。
「いや、いいよ。てかなんで俺に渡すんだよ。欲しいんじゃないの。」
「え、レンが欲しいんじゃないのですか」
するとレンは、瞼を伏せたあと、私の手のひらにぬいぐるみを乗せてきた。その時、ぬいぐるみに付けられたチェーンが、冷たく感じられた。
「イロハのために、取ろうとしてたんだよ俺。プレゼント、したくて。でも、自分で取っちゃったな。」
「……私のために……?」
胸の奥がふわっと熱くなって、思わず白猫をぎゅっと握りしめる。
「そ。だから、その子はイロハのもんだ。」
レンが少し照れたように笑う。私はうまく言葉にできなくて、ただ小さく「……大事にします」と呟いた。
……あ、そうだ。
このぬいぐるみ、キーチェーンが付いている。だから何かにつけたりすることが出来るはず。それなら。
「……できました。」
「いいの?邪魔じゃない?」
「いいんです。」
剣の鍔に、丁度いい空間があったから、ぬいぐるみをつけてみた。可愛い。
「ふふっ、レンからの、プレゼント。」
誰かからプレゼントを貰ったのはいつぶりだろうか。覚えていないけど、嬉しくて心拍が上がっているのは確か。
「よかったな。」
「はい、今日は満ち足りすぎています。」
「なんだそれ。」
レンは、小さく笑った。その顔は、やっぱり綺麗。
’’ゲーセン’’から出たあとは、少しずつ、辺りが茜色に染まり始めている頃だった。
陽の光は輝いていて、なんだか落ち着く。
その景色を見ていると、レンが口を開いた。
「ねぇ、ちょっとだけ、寄りたいところがあるんだけど。」
私はレンを見上げた。寄りたいところ、それはどこ?
「一緒に、行こ。」
レンについて行くと、辿り着いたのは、書店だった。
本……学びの器ね。これは私もよく知っている。
さっきと同様、ドアは私たちを感知して勝手に開いて、そして勝手にしまった。
店内に一歩踏み入れると、すぐに紙とインクの匂いが鼻をくすぐった。
規則正しく並んだ本棚が通路を作り、背表紙が整然とこちらを見つめている。
天井から落ちる光はやわらかく、静かな音楽が小さく流れていて、本のページをめくる音やレジの電子音がときどき混じる。
歩くだけで、落ち着いていくような場所。
人々は思い思いに立ち止まり、手にした本を静かに開いては、また棚に戻していく。
私は大きく息を吸った。この香り、いいかもしれない。
「……ここが、レンの寄りたいところ。」
「うん、気になる本があるんだ。」
「どんな本ですか?」
そう尋ねると、レンはガサゴソと上着のポケットを漁って、取り出したのは液晶端末。レン曰く、これは ’’スマホ’’と言うらしい。
画面を指で撫でながら、何かを操作している。
そして手を止めたあと、私に画面を見せてきた。
レンが見せてきた画面を覗き込む。
「天使の救済、それは滅亡」――重々しい言葉なのに、表紙は快晴の空。
明るいのか暗いのか、判別がつかない。
「……滅亡。」
その響きに、胸の奥がわずかにざわめく。
「面白そうだろ?」
レンは軽い調子で言った。
「世界が滅亡する話、ですか?」
「そう。……もしさ、イロハが世界滅亡に巻き込まれるとしたら、どうする?」
どうする?
そんなの、決まっている。悩むまでもない。
「私は、私の使命を果たすのみ。」
「使命って?」
レンはただ、純粋無垢な輝きを放つ瞳で、私にそう言った。
私の、使命。
しめい、シメイ……しめ、い。
私は、お母様から託された、想いが宿った剣を手に人々を救済し、虚霊を排除し、世界を元に戻す。
静寂を、取り戻す。それが、使命。
……そうだ、それ以外に道はない。
気づけば私は拳を握りしめ、声に熱がこもっていた。
「私は使命を果たす。たとえ世界が滅びようとも。」
するとレンは「お、おぉ……なんかすげぇ覚悟だな……」と、ちょっと引いたように笑った。
「いや、もっとこう……’’最後にたくさん遊ぶ’’とか、そういう答えを期待してたんだけど。」
「遊ぶ……それは、今日みたいにあなたと?」
「いや、俺じゃない誰か。」
レン以外の人?私には今、レン以外に遊ぶ人なんていないのに。それに、いたとしてもーー。
「あな たが、いいですね。最後に遊ぶなら。」
レンは一瞬、言葉を失ったように固まった。
目を見開いたまま、口がわずかに動いて、けれど声は出てこない。
「……え?」
やっと絞り出した声は、情けないくらい小さい。
耳まで赤くして視線を逸らす彼を見て、私の胸はくすぐったくなった。
レンはわざとらしく咳払いをした。そして私を置いてスタスタと歩き出して、意味不明な呪文を唱えながら本棚に向かった。
何を言っているんだろう。……でも、耳の赤さが答えを教えてくれている気がした。
何を言っているんだろう。……でも、耳の赤さが答えを教えてくれている気がした。
私はその後を静かに追いかける。
レンは足早に小説コーナーの前に立ち止まり、背表紙の列を指でなぞりながら、一冊一冊を確かめていた。
「……あ、あった。」
ぽつりと声を漏らすと、棚の中から一冊を引き抜いた。さっきスマホで見せてきた本――『天使の救済、それは滅亡』。
レンは大事そうにそれを手に取り、表紙を撫でてから私へちらりと視線を送る。
「見つけた。」
「早いですね。」
「俺のささやかな特技、探しているものを見つける。」
「なんですかそれ。」
レンの言葉が、引っかかった。探しているものを見つけられるのなら、もしかしたら。
「じゃあ……人の気持ちも、探して見つけられるんですか?」
私は、問いを投げた。レンが一瞬固まる。
口をもごもご震わせて、瞳はいつもより大きくなる。
やがて顔を伏せて、小さく呟いた。
「それが見つけられてたら、今苦労してないよ。」
レンが顔を伏せて呟いた言葉が、妙に胸に残った。
探しても見つけられないもの……レンにとってそれは何なのだろう。
レンがレジで会計を済ませたあと、私たちは外に出て、歩きながら夕日を眺めた。
レンの手には紙袋が握られていて、中には先程買った本がある。
ふとレンは、上着のポケットから’’スマホ’’を取りだして、液晶を光らせた。レンの身長は私より10センチほど高いから、何が書かれているのかは見えない。
画面を眺めたあと、「うわっ」と声を出して、頭をかいた。目を細めて何やら悩んでいるよう。
「どうしました?」
「やばい家帰ってご飯作らなきゃ。」
「え?」
「母さんの分も、作らなきゃだから。」
私はその言葉がよく分からなかった。どうしてそんなに焦っているのか。
「ごめんイロハ!俺帰る!」
レンは端末を持ったまま手を合わせて謝ってくる。
「大丈夫ですよ、さよなら。」
私は左手を振った。するとレンは申し訳なさそうに眉を下げて、「またね」と言って真っ直ぐ走っていった。
別れ。別れの時間は突如やってくる。それが今だった。いつかは別れる時が来るけど、それが今だっただけ。なのに、何故か。
「……寂しい?」
遠ざかっていく足音を、ずっとその場で見ていた。
胸の奥に、小さな穴が空いたみたいに、風が吹き込む。
これが「寂しい」という感情なのだろうか。私は、まだよく分からない。
やばい、やばいやばいやばい。
時間、忘れてた!昨日みたいに作っとけばよかった……。
閉まれ、閉まれ、閉まれ!
バチバチとボタンを連打する。でも遅い。なんで?なんで!?
母さん、まだ帰ってきてないよな?昨日も遅かったし……。
でも、もし今日早かったら?待たせるのは嫌だ。
チリン。扉が開く音。
「まだだ、まだだ!」
心臓バクバク。
待ってる時間が、長すぎる。
通路を走る。あと少し、あと少し。ドアノブに手を伸ばす。
息を切らし、ドアを開けた。
「た、だいま。」
家に着いてほっとした。ため息をついて靴を脱ぐ。
玄関口には俺の靴以外に、ボロボロのスニーカーがある。いや、まさか……な。
フローリングに足を踏み出す。
リビングとダイニングの扉――その隙間から、光が漏れていた。
「あ……」
胸がぎゅっとなる。
……ハイ、確定。母さん、帰ってきてる。終わった。
すぅ、と息を吸って、ドアノブに手をかける。
心臓の音が怖い。うるさい。でもそんなことより、早く!
ガチャン、と勢いよくドアを開けた。案の定、ダイニングには母さんが、静かに座っていた。
くしゃくしゃに結ばれた黒髪。青い瞳。
じろりと、俺の方を見た。
背筋がぞくっと凍る。肩が固まる。息が止まる。怖い、怖い怖い怖い。
「っ!」
何か言われる――それは無理だ。嫌だ。何か、何か言わないと。
「き、今日は、早いんだ。母さん……はは、ごめん今からご飯作る。」
なるべく目を合わせないように、怒らせないように、静かに紙袋を床に置いて、キッチンに向かう。
「……ねぇ。」
そのぬるっとした声に、足が止まる。
「……何?母さん。」
「最近あなた、どこに行ってるの。家にいないことが、多いみたいだけど。」
「……友達と、会ってるだけだよ。」
嘘か、本当かわからない言葉を口にした。呼吸が少し速くなる。手のひらに力が入り、指先が爪に食い込む。イロハは友達なのか、それともただ一緒にいるだけの仲か。多分、後者。
母さんは疑うように俺に言った。
「あんたみたいなやつに、友達なんているのね。」
その言葉が心臓をチクリと刺す。えぐって、毒を注入する。痛い、痛い。
でも、顔に出したら終わりだ。俺は見えないところで手をぎゅっと握った。肩に力が入る。顔は笑顔で、怒らせないように。
「俺が、友達だと思ってるだけだよ。多分あの子は、俺をなんとも思ってない。」
母さんは数秒黙り込んだ後、呟いた。
「あんたみたいな人殺し。きっと誰も関わろうとしないわよ。」
その言葉が、胸をぎゅっと締めつける。肩が小さく震える。呼吸が一瞬止まった。
「……うん、その通りだと思う。」
俺は目を瞑り、ただ肯定した。痛みも、怒りも、全部飲み込むように。
第九の月夜「静けさの境界線」ー守護者と観測ーへ続く。