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この物語にはキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。特に今回の章は死に関する会話をするシーンがあります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
月の祈りの塔からの帰路、空はまだ群青を引きずっていた。
雲間から滲む光が、かすかに地平を染めている。
二人の影が並んで、緩やかな坂道を歩いていた。
「……ねえ、レン」
その声は、風に紛れて聞き逃しそうなほど静かだった。
「ん?」
「レンは……死にたいと思いますか?」
その言葉に、レンの足が一瞬止まる。
イロハの顔を見ると、彼女はいつもの無表情に似た目で、しかしどこか遠いものを見つめていた。
「…どうして、そんなこと聞くんだ?」
「……分かりません。でも……先程の戦いで、ふと、自分が――消えてもいいかもしれないと思ったのです」
イロハは一拍置き、目を伏せる。
「過去の自分を……失った記憶のすべては戻っていません。でも……ほんの少しだけ、思い出してしまって」
「…記憶を失った?」
「ええ」
イロハは目を閉じる。
「……消えてしまってもいい、そう思うことが“死にたい”という感情なのか、よく分からなくて」
レンはその言葉に何も反応しなかった。どう反応すればいいのか分からなかった。
「……死にたいって思うこと、何度もあったよ。人間みんな一度は思うことだと思う。でも今はそうは思わない、なんか、怖そうだし。」
レンは正直に答えた。
嘘をつけるような問いではなかったし、イロハに対しては特に、取り繕う意味がないと思った。
「……ふふ。レンらしい」
イロハが微かに笑う。それは、寂しさにも似た笑みだった。
「私は死は怖いものではないと思っているんです」
「……どうして?」
「この世界の喧騒から、すべてが解き放たれるのなら。それは、とても静かで、穏やかなこと……。きっと、静寂に似ている」
レンは言葉を失う。彼女の声はただの感傷でも諦念でもなかった。
それは、心の底から絞り出すような真実の重さを持っていた。
「じゃあ……イロハは、死んでもいいって思ってるの?」
「いいえ、違います」
イロハは首を振る。
「この世界には未練がある。」
レンは少し安心したように微笑む。
そして気づく。イロハの瞳の奥には、“終わり”を受け入れているような、どこか悟った静けさがある。
それが怖かった。
「……なあイロハ。死が静寂に似ているって、君は言ったけど——それでも、今はこうして……誰かと並んで歩くこの音も、悪くないと思わない?」
その問いに、イロハは少しだけ目を細めて、夜明けの空を見上げた。
「……そうね。レンとなら……うるさくても、悪くない」
そして二人はまた、歩き出す。
夜明けの境を越えていくように。
昼過ぎ、レンは少し気恥ずかしそうに言った。
「今日はさ……その、何も起きない日になったらいいなと思って。たまには、そういう日があってもいいだろ?だから……遊ばない?」
イロハは瞬きをひとつ、ふたつ。何を言っているのか一瞬理解できなかったようで、やがて少しだけ首をかしげた。
「……遊ぶ?」
「そう。ほら、甘い物食べたり?ゲーセン行ったり?」
「げーせん、とは何ですか」
「え!?えっと…なんか楽しいとこ?」
言いながら、自分でも自信がなくなってくる。イロハのような存在に、そんな提案が適切なのか。
けれど彼女は、少し考えてから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「…私には『遊ぶ』ということはよく分かりませんがレンが一緒なら、やりたいです、『遊ぶ』。」
その返事に、レンは胸を撫で下ろした。
訪れたのは、小路の奥にある小さな和菓子屋だった。
木の香りがする古い暖簾(のれん)をくぐると、ガラスケースの中には色とりどりの和菓子が静かに並んでいる。
「こういうとこ、初めてだろ?」
「はい…これ、全部……食べ物なの?」
イロハがケースをのぞきこみ、まるで工芸品を見るような目で練り切りを眺めた。
その様子が可笑しくて、レンは思わず笑ってしまう。
「……そんなに面白いですか?」
「いや、ごめん。でも、イロハが真剣に悩んでるのがなんか……可愛いっていうか」
「可愛い……?」
イロハは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにまた菓子に目を戻す。
選んだのは、桜の花びらの形をした薄桃色の練り切りだった。
店先の小さな縁台に腰をかけて、ふたりはそれを頬張る。
イロハは一口噛んで、小さく目を見開いた。
「……甘い」
「そりゃあ甘いよ。和菓子だもん」
イロハは少し考えてから、うん、と頷いた。
「この甘さ……静か、ですね」
「静かな甘さ? なんだそれ」
「言葉にしにくいけど……舌に広がって、でも、うるさくない。優しい味」
レンはその表現に思わず笑った。けれど、それはまさしくイロハらしい感想だった。
午後の日差しが和らぎ、商店街には人の波がゆるやかに流れていた。
次に訪れたのは、街の中心部にできたばかりのゲームセンターだった。
色とりどりのネオンと音が飛び交う空間に、イロハは目を瞬かせた。
「…もしかして、こういうとこ嫌い?」
「……いえ、ただ、百年前に来たときは、何もなかったのにな〜と思いまして。」
「百年前って……!?」
レンは耳を疑った。
「私、千五百八十四年と三十二日生きてるから」
あっけらかんと言うイロハに、レンはしばし口を開けたまま固まってしまった。
「そ、そうなんだ…てか細か…」
「…ねえ、この機械、魂を閉じ込めている。解放しましょう。」
イロハが指さすのは、UFOキャッチャーの中に並ぶぬいぐるみたち。
イロハは剣を抜いて、UFOキャッチャーを見つめる。
「うわあああ!やめてくれ!!そんなことしたら俺、社会的に死ぬって!」
「……見てくださいレン、あの人こちらを見つめている、きっと泣き叫んで助けを求めている。」
「いやいや!あれただの白猫のぬいぐるみ!」
「……ぬいぐるみ?」
「うん!そうそう!よーし!じゃあ今からこのぬいぐるみ取ってやる!」
そう言って百円玉を入れるも、悲しいことにアームは空しく滑って何も掴めず。
「……難しそうですね」
「いや、でも次こそ!」
そう言って何度も挑戦するも、結果は惨敗。
「……魂でないと信じます」
イロハが静かに台に向かう。操作に戸惑うこともなく、するりとアームを操作し、ぬいぐるみを一発で獲得する。
「えっ……マジ?」
「……運命のひとつを、レンにあげます」
そう言って、イロハは真っ白な猫のぬいぐるみを差し出した。
「…いや、いいよ。そのぬいぐるみ、イロハのために取ろうとしてたんだ。イロハにプレゼントしたくて…でも、自分で取っちゃった。」
「…プレゼント…?」
「うん、だから、イロハが持ってて。」
イロハはぬいぐるみを抱きしめ、嬉しそうに微笑んだ。
「…ありがとうございます、ふふっ、レンからのプレゼント。」
最後にふたりは、本屋に立ち寄った。
店内には静かな音楽が流れ、紙とインクの匂いが心を落ち着かせる。
「……この空気、好きです」
イロハがぽつりと呟く。彼女は詩集のコーナーで立ち止まり、一冊の古びた本を手に取った。
「レンは?」
「俺? バトル小説かな。派手なやつ」
「ふふっ、らしいですね。」
「……イロハは、それ。どんな詩が載ってるんだ?」
イロハはページを開き、声には出さず、静かに目で読む。
そして、一行だけ読み上げた。
「“風は語らずとも、木々は記憶する”……」
「なんか……よく分からないけど、良い詩だな。イロハに似てる。」
イロハはきょとん、とした顔をうかべる。
「そう、ですか?」
「うん。」
二人の間に、沈黙が流れる。
「……じゃあ、その本貸して。俺、会計行ってくる」
レンは手を差し出し、イロハは手に持っている本を手渡した。
「…ありがとうございます、レン。」
「……また一緒に、やりましょう。『遊ぶ』」
店を出たとき、イロハがそう言った。
「…ああ、絶対、また。」
それは、未来への小さな約束のように、静かに響いた。
第八の月夜「静けさの境界線」―冷たい視線―へ続く