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ワゴンの中は黙っていた。前の座席に座る男たちは、時折こちらを振り返っては、にやにや笑っているだけだ。
スンホは声を出さなかった。
出せなかった。
(どうして、俺は……)
自分の右手には、誰かのタバコの匂いが移っていた。
やがて車は古びた倉庫のような廃ビルに入った。
ドアが開く。
強引に腕を引っ張られて、冷たいコンクリートの床に立たされる。
灰色の空間に、蛍光灯が一つだけ。
光の輪の中にスンホは置かれた。
男の一人が言った。
「なあ、スンホ。わかってんだろ? お前は“まだ使える”。 ちゃんと動けよ」
もう一人が笑いながら口を挟む。
「俺らに逆らったら、あの日本の友達……陽斗って言ったっけ? どうなるかなぁ?」
スンホの胸がズキンと痛んだ。
陽斗の笑顔が、声が、浮かんでくる。
(嫌だ……巻き込みたくない……)
「お前にはまた、“荷物”を運んでもらう。なあ、わかるだろ?」
スンホは俯いたまま、震える声を絞り出した。
「……もう、嫌だ……もうやめたい……」
男はスンホの頬を軽く叩いた。
「選択肢はねぇんだよ、スンホ。金が欲しかったのはお前だろ? じゃあ働け」
視界が滲んだ。
(もう……無理だ……)
スンホの膝が崩れそうになった、その時だった。
蛍光灯の奥、錆びた非常口のドアが小さく開いた。
誰かの影が――。
「……スンホ……!」
陽斗の声だった。
スンホの頭が、ゆっくりとそちらを向いた。
(どうして……)
陽斗は震えた息を整えながら、必死に立っていた。
「迎えに来たよ……スンホ」
男たちが一斉に振り返る。
緊張が、コンクリートの空気を切り裂いた。
陽斗が荒い息を吐きながら、スンホの名前を呼んだ。
「スンホ! 行くぞ!」
男たちが陽斗に向かって怒声を上げた。
だが、スンホの耳にはもう届いていない。
陽斗が差し出した手を、スンホはしばらく見つめた。
(どうせ無理だ――いや、違う。)
頭の奥で、もう一人の自分が呟く。
(ここで逃げなきゃ、もう一生……)
スンホは唇を噛んだ。
男たちが陽斗に向かって掴みかかろうとした瞬間――
「……陽斗っ!」
スンホが陽斗の手を強く握った。
二人は一気に走り出した。
「おい! 逃げんな!」
背後で怒鳴り声が響く。
朽ちかけた鉄骨の廊下を駆け抜け、外階段を一段飛ばしに降りる。
陽斗の手が熱い。
(生きて帰る……生きて逃げる……!)
廃ビルの外に出ると、冷たい夜風が全身を打った。
陽斗が息を切らしながら言った。
「こっちだ、スンホ!」
追ってくる足音。
だがスンホの脚は止まらない。
もう、止まれない。
(逃げるんだ。全部捨ててでも……)
近くの駐車場に停めた陽斗の車に飛び乗る。
エンジンがかかる音が響く。
男たちの罵声がドア越しに遠ざかる。
陽斗が運転席で言った。
「大丈夫か……スンホ……」
スンホは息を切らしながら、震える手で窓の外を見た。
追跡者の影はもう見えない。
「……逃げ切った……俺……俺……逃げた……」
言葉が震え、自然と涙がこぼれた。
陽斗がそっと、スンホの肩に手を置いた。
「これで終わりじゃないけど……これからだよ、スンホ」
スンホは小さく頷いた。
外の街灯の光が、夜明けの色に変わり始めていた。
(これからだ――生き直すんだ――)