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教室に戻ったとき、遥は空気の濁りに足を止めた。
気づかぬふりをしていた違和感が、肌を撫でた瞬間、言葉にならない感触として喉を塞いだ。
日下部がすれ違う。目を合わさず、何も言わず、ただ背を向けて出ていく。
──いつもと、違う。
机の列。黒板の匂い。蛍光灯の光量。どれも変わらないのに、そこに「誰かの手」が触れた痕のような気配が、あまりに濃く残っている。
そして、その中心に、蓮司。
「おかえり、遥」
蓮司は黒板の前、机に腰を掛けていた。
脚を組み、指先をくるくると回している。
視線だけが、遥を絡め取るようにまっすぐ向いていた。
「……日下部、なにか言ってた?」
「……」
遥は答えなかった。けれど、目だけは逸らさない。
いや、逸らせなかった。蓮司の気配が、どこか異常だったからだ。
蓮司は小さく笑う。
「ちょっとさ。おまえの代わりに、試してみたんだよ」
「なにを」
「“どこまで耐えられるか”ってやつ」
蓮司は、立ち上がった。
その手には、かすかに何かを掴んでいたような、指の癖が残っている。
そして、まるでそれが何かの記憶でもあるかのように、指先を見つめながら笑った。
「……いい反応、してたよ。背中、ずっと強張っててさ。耳の裏、ちょっと触っただけで、ビクッて。……遥もそうだったよね、最初」
遥の肺が、ふっと萎む。
その言い方は──
「やってないよ? なにも。まだ」
笑いながら言うその声が、軽いのに、なぜか地の底のように冷たい。
「けどね、あいつさ。止めないんだよ。逃げもしない。……もしかしたら、ほんとは望んでたのかも」
遥は立ちすくんでいた。
脳の奥で、きゅう、と痛む感覚。
視界の端に、過去の光景が滲む。
同じことを言われた記憶。
何度も何度も、そう言われて、受け入れさせられた、あの言葉──
「……ねえ、遥。想像しちゃった?」
蓮司は一歩、近づいてきた。
「この手で、日下部の顔、捕まえて。指で喉のとこ、なぞって──」
耳を塞ぎたくなるような声で、あくまで柔らかく、言葉だけが滑ってくる。
「──おまえと同じとこに、痕をつけたら、どうなるかなって」
遥は息を飲んだ。
何も言えなかった。
けれど確かに、その光景が頭の中に浮かんでしまっていた。
日下部が、蓮司に抑え込まれて、喉元を──
「だいじょぶ。してない。……“まだ”ってだけだけどね?」
蓮司の指が、遥の首元にすっと伸びる。
わずかに、シャツの襟に触れるだけの接触。けれど、それは遥にとって、恐ろしく見覚えのある動きだった。
「ねえ、遥。さっき、日下部が言ってたよ。おまえのこと──“もう、見てるのがしんどい”って」
遥の瞳が大きく揺れる。
それが嘘なのか、本当なのか、確かめる術はなかった。
けれど、胸の奥に沈んでいた熱が、一気に疼く。
蓮司の目が、それを見逃すはずもなかった。
「そうやってさ、“誰も信じられなくなって”壊れていくのって──ほんとに綺麗」
その目は、もう笑っていなかった。
だが、次の瞬間には、また平然とした表情に戻っていた。
「さて」
蓮司は、遥の前に立ったまま、息を吐く。
「続きを、しようか」
──そして、遥はそこにいたまま、動かない。
教室の空気は、もう元には戻らなかった。