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「……ま、いいけどさ」
蓮司が言った。
その口調は、さっきまでよりずっと淡々としていて、
逆にその“興味なさげ”な響きが、妙に耳に残った。
「でももし、また日下部とふたりになったら──今度は、もう少しちゃんと触るかも」
それは、ただの冗談のように聞こえた。
気まぐれな思いつき、みたいに。
けれど──遥の中では、何かが、確かに“超えてはいけない線”を越えた。
頭より先に、身体が動いていた。
「……っ」
ぱちん。
乾いた音が、教室の中に、ひどくはっきりと響いた。
蓮司の顔がわずかに横を向く。
遥の掌が、その頬に触れていた。
……叩いた。
遥が、人を叩いた。
その手は細く、弱く、今も小刻みに震えていた。
掌の内側が、じんじんと痺れている。痛みというより、熱に近かった。
蓮司は驚いたように目を開いて、しばらくそのまま動かなかった。
遥の唇が、わなわなと震えた。
言葉を出そうとして、喉がうまく開かない。
息が、引っかかる。
けれど、それでも──声は出た。
「……日下部に、……手、出すな」
かすれた声。
力も、怒気もない。
でも、そこには確かに「願い」と「命令」が同居していた。
それが、自分でも信じられないほどに震えた声だったことを、遥自身が誰よりわかっていた。
なのに。
蓮司の口元が、すうっと、静かに歪んだ。
その表情は──笑っていた。
けれど、それは「愉しんでいる」のでも「からかっている」のでもなかった。
その笑みは、奇妙な静けさを持っていた。
「……へえ」
蓮司は、ゆっくりと頬に手をやる。
さっき叩かれた場所を、確かめるように、指先でなぞった。
「やっと、そういう顔するんだ」
遥は何も返さなかった。
ただ、まだ震えている手を、自分の胸元に引き寄せて、ぎゅっと掴んだ。
壊れそうな何かを、必死に抱きしめるように。
蓮司は少しだけ首を傾げたあと、視線を遥に落としたまま、わずかに息をついた。
「じゃあ──壊すの、やめとこっか。今は」
それは、明らかに“勝ち”を取った者”の声音だった。
けれど、そこにある静けさは、ほんの少しだけ、別の感情を含んでいた。
蓮司はその場を動かなかった。
けれど、教室の空気は、もう変わっていた。
遥はまだ、小さく震えていた。
自分がいま、なにをしてしまったのか──それすら、まだ整理できていない。
けれど胸の奥に、ひとつだけ、確かにある感覚があった。
日下部を、守りたかった。
その気持ちだけが、遥の体を動かしていた。
そしてそれは、遥にとって初めての、「他者のための暴力」だった。