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ですから!わかっております!と、扉の向こう側、廊下から、岩崎の大声が響いて来た。
「あら!もう、来ちゃったわ!お咲ちゃん!お願い!」
芳子の問いかけに、お咲は返事をすると、手鏡を月子へ渡した。
女中数人がかりで、月子は、着替えさせられ、髪も結い、薄化粧まで施されている。
お咲は、仕上がりを月子へ見せる係だと芳子に言いくるめられて、ずっと手鏡を持ち、月子の支度が終わるのを待っていた。
やっと、自分の出番が来たと、お咲は、喜び勇んで手鏡を差し出している。
月子の背後では、女中がひとまわり大きな手鏡を持ち、合せ鏡にして、月子の後ろ姿を写し出してくれていた。
お咲に渡された鏡の中の姿を見て、月子は、あまりの変わりように、言葉が出ない。
小さく写る、後ろ姿も、見事と言うべきか、月子が編んでいたお下げ髪を、束ね上げ、毛先には、花柄の刺繍がされた大きなリボンを留め、はなから、この形に結い上げた様にしか見えないように仕上げられていた。
「取り急ぎ、ですので、誤魔化しておりますが、なんとか、まとめあげました」
背後に立つ女中が、申し訳なさそうに言った。
「まっ、仕方ないわ。時間がなかったのだから。でも、これだけの仕上がりなら、申し分なし!ああ、着物が、少し大きかったわね。袖丈が、長いわ……、でも、月子さん、大丈夫よ!飛び柄は、総刺繍ですからね。これなら、佐紀子とやらも、けちは、つけられないから!」
とにかく、まかせておきなさいと、芳子は、やけに佐紀子を意識している。
ノックと共に、ご談笑の所申し訳ありませんが、と、吉田が執事ぜんとして入って来た。
「ああ、吉田。こちらは、準備できてますよ」
芳子の返事に、吉田は頷くと、ドアを開けたまま、廊下を伺った。
無言のまま、岩崎が大きな楽器を携え、入って来る。
その後ろを、男爵が続いて来るが、月子を見ると満面の笑みを浮かべた。
「私のお着物だから、月子さんには、少し寸法が大きかったみたい。足袋もね、たぶついているけど、そこは、着丈で誤魔化しているから……とにかく、この白地の小紋は、目を引くでしょ?」
リボンを結んだような、紅色と黒がからみあう、熨斗《のしもん》の周りに、梅、牡丹、菊などの花がちりばめられている。
身頃いっぱいに、並ぶそれらの柄は、全て刺繍という、手の込んだものだった。
その豪華な着物に負けじと、黒地に、金糸と銀糸で織り込まれた亀甲模様が、モダンさを引きだしている。
そんな、月子の着飾った姿に、岩崎は目もくれず、吉田の用意した椅子に座ると、少し足を広げて楽器を固定している。
「……もう!ごめんなさいね。月子さん。京介さんはね、演奏となると、ああなのよ。他のことは目に入らないの!」
芳子は、折角、お洒落したのにと、文句を言うが、それすらも、岩崎の耳には入っていないようだった。
月子は、ただただ、驚いている。岩崎の集中する姿からは、神がかり的、とでも言うべきなのか、目に見えない糸のようなものが、ピンと張られている、そんな、近寄りがたい雰囲気が漂っていたからだ。
すると、岩崎が、こちらへ、一礼する。
演奏を始めるという合図だと、月子にも、分かったが、一瞬の間、岩崎の目が、月子へ向けられ、少し見開かれたような気がした。
その、わずかな視線に、月子は、何故か耐えられなくて、さっと、うつむいた。
同時に、胸がドキドキと高鳴るが、月子には、それも、なぜなのか分からない。
この胸の鼓動が、皆に聞こえまいかと、月子は、一人焦るばかりだった。
「では、ヨハン・ゼバスティアン・バッハによる作曲、G線上のアリアを」
岩崎が言った。
昔、義父に連れて行ってもらった、演芸場の客寄せが奏でていたバイオリンよりも、遥かに大きなものを、岩崎は、体に持たせかけるようにして、右手で持つ弓を引く。
ギュインと、高音が鳴り響き、岩崎は一息置くと、左手の指を、楽器の弦の上で細やかに動かし始める。
月子は、岩崎の姿に釘付けになった。