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岩崎の指は、規律正しく弦を押さえて行く。
各々の指先は、旋律に沿って、細やかな動きを見せる。
同時に、少し体を屈めながら、岩崎の右手は、握る弓を弦へ滑らせて行く。
奏でられる響きは、月子にとって、まさに、西洋、だった。
初めて耳にする音の連なり、重低音から、高音へと、静かに発せられる奥行きのあるものは、どこか、別の国へ誘ってくれた。
月子は、岩崎の弦を滑るように動く指と、それにあわせ、体をくゆらせながら弓を引く姿から目が離せないでいる。
それだけのこと、から、どうして、こんなにまで重圧ながら、きめ細やかで、澄んだ音色が出てくるのだろう。
幼い頃、義父と聞いた、客寄せのバイオリンは、確かに楽しかったが、もっと、軽薄で、ここまで、聞きたいと思えるものではなかった。
そして、岩崎は、目を閉じ、時に、歌うように口を動かし、流れ出る音色を確認している。
……すごい。
それしか、月子には思い浮かばないほど、繰り広げられている演奏は、衝撃的なものだった。
岩崎が、ゆっくりと弓を引いた。
とたんに、部屋は静寂に包まれる。
パチパチと、男爵夫妻が拍手して、何か喋っているが、月子の頭は、ぼっとして、演奏が終わったと、一礼している岩崎を、静かに眺めることしか出来ないでいた。
「あら、月子さん、どうしたの?黙りこんじゃって」
側に立つ芳子が、不思議そうに声をかけて来るが、その視線は、お咲にも向けられている。
「あらあらまあまあ、二人して、ぼーぜん、って、やつね」
ほほほと、上品に笑う芳子に続き、お咲が、口を開いた。
「びーびーびー、びびびーびびびー」
目を皿のように見開き、明らかに興奮ぎみのお咲は、我慢しきれないとばかりに、岩崎が奏でた旋律を口走る。
「あら!嘘っ!京一さん!」
「なんと!お咲!続けなさい!」
男爵夫妻の驚き声に、お咲は、戸惑いつつも、びーびーと、唄いきる。
「京介!お咲は、凄いぞ!お前!弟子にしろっ!」
「そうね!すごいわ!一度聞いただけで、完璧に唄いきるなんて。やっぱり、カエルのお陰なのかしら」
「義姉上《あねうえ》カエルとは?」
ああ、それが、と、芳子は、岩崎へ、お咲の遊び相手は、田んぼにいるカエルで、いつも、鳴き真似をしていたのだと、お咲本人から聞いた事を伝えた。
「……いや、カエルという訳ではなく……なんというか、生まれ持ったもの、絶対音感的なものを、お咲は、持っているんじゃないでしょうかねぇ……」
「ならばこそだ!京介!才能あるものをみすみす放置しておくのか!もしや、これは、和製クララ・シューマンの誕生かもしれん!」
それは……と、岩崎は、渋っている。
「月子さん。これが、音楽家というものよ。慣れないでしょうけどね、そうですね、そうですよね、と、側で頷いていればいい。ただ、根気は、かなりいるけれど……。あなたになら、京介さんも、ついでに、お咲ちゃんも、まかせられると思う……」
どうかしら?と、芳子は、月子をじっと見た。
「……あ、あの、私には、難しくて……お話も分かりませんし……」
「だからこそ、あなたなの。京介さんの側で、ぶつぶつ言ってる事を、黙って聞ける人でないと……。あなたなら、適任だと思う」
芳子の言葉に、男爵も、
「月子さん、どうだろう?こんな、面白味のない男だけれど、だからこそ、君が、うってつけだと思うんだよ」
と、目を細めながら、月子へ言った。
「……面白味のない……とは……」
岩崎は、不服そうに呟くが、芳子は、それを聞き逃さなかった。
「じゃあ、面白い話を月子さんとするつもりなのね?京介さん?」
それは、と、口ごもる岩崎と、えっ、と驚く月子の二人を、芳子も、男爵も、嬉しそうに眺める。
「ご歓談中では、ございますが、そろそろお時間でございます」
執事の吉田が現れ、男爵夫妻へ一言助言する。
たちまちに、芳子が、弾けた。
「そうよ!西条家へ行かなくちゃ!」
「おお、そうだ!いくらなんでも、黙ってこのまま、月子さんを預かる訳にはいかんからな。そうだろ!京介!」
兄に、発破をかけられ、岩崎は、はぁ、と、小さく答えた。