僕は昇降口まで歩き、そこでメガネを洗った。
とりあえず、今考えることは宇佐美さんのこと。
麻山さんのああいうノリ、もう僕は慣れっこだけど宇佐美さんはどうだろう。
僕は麻山さんの危機管理能力が低いことを良く思っていなかった。
まあ、今まで何とかやってこれたのは本人の教師としての能力が高いから、ということもある。
多少のことは見逃してくれるかもしれない。
それでも、宇佐美さんのご両親が学校にクレームを入れてきたら冗談じゃない。
おそらく麻山さんも僕も何らかの処分が下ることになる。
それだけは避けたかった。
今職を失うと色々厄介だ。
宇佐美の機嫌を取るために、僕は自販機でコーヒーと宇佐美さんの好きそうなレモネードを買った。
駆け足で部室に戻ると、宇佐美さんは机の上に座って神妙な顔をしていた。
さっき渡したタオルを握りしめ、スカートをいじっていた。
まずい。
さっきのことをかなり気にしている。
「あ、宇佐美さん?」
「は、はい」
「スカート、大丈夫ですか?あ、もしも気になるなら、水泳部からドライヤー借りてきますけど……」
「い、いや、そういうんじゃないんです」
そう言って宇佐美さんはタオルを机の上に置いた。
「これ、買ってきたから、一緒に飲みませんか?」
「あ、ありがとうございます……」
そう言って宇佐美さんはペットボトルに口をつけた。
美味しそうに飲んでくれているのを見て、僕はほっ、と息を吐き、自分のコーヒーを飲んだ。
さて、これからどうしよう。
とりあえず、今は宇佐美さんの気を逸らすことを考えよう。
「あの、宇佐美さん」
「……は、はい」
「これから図書室にでも行って、ボードゲームでもしますか?このまま本を読むのも退屈なので……」
「だったら、オセロやりたいです」
「オセロ?」
「あ、ダメですか?」
「いや、全然いいですよ」
宇佐美さんがオセロをやるイメージは全然なかったので、僕は少し驚いた。
宇佐美さんがレモネードを飲み終わったのを確認し、2人で部屋を出た。
廊下にあったゴミ箱でペットボトルと缶を捨て、歩き出した。
「そういえば、宇佐美さんが図書部に入ってからもう3年ですね」
僕は間を埋めるために話した。
「宇佐美さんが1、2年生の時はまあまあの人数が休みの日でも来ていたんですけどね」
「そうですね。だって、わたしは部長でもなんでもないのに毎回来ていますし」
「いっそのこと、宇佐美さんが部長になってくれたらいいんですけどね。その方が私としても嬉しいですし」
「……そうですか?」
「はは、本心ですよ」
そんな雑談をしていたら、図書室についた。
カウンターには、おそらく2年生の生徒2人がゲーム機で遊んでいた。
「コラ、校則で禁止されているでしょう?」
「えー?だってさ、暇なんだもん」
「しょうがなくね?先輩だってやっているし」
「あなた達、2年生でしょ?来年で3年生になるんですから、もっとしっかりしてください」
「でたよ、先生のテンプレ」
「後輩も、ウチらのことそんな見てねーよって思ってると思うわ」
僕は先生の中でも随分と舐められている。
それはおそらく、声が小さいのと陰キャっぽい見た目のせいだろう。
裏では『ノーマル陰キャもやし』というあだ名をつけられている事を僕は知っている。
「とにかく、ダメですよ。担任の先生に報告させてもらいます。はい、没収」
そう言って僕は生徒の手からゲーム機を奪った。
「は?ふざけんなよ」
「アンタに生徒のゲーム機を奪っていいっていう権利はあるんですかぁ?」
「ってかさ、他の先生の時は別に良かったのに」
「マジで意味わかんないんだけど」
だいぶ舐められたもんだな、と思った。
これは流石に注意しなければならない。
そう思って息を吸い込んだとき、
「……すいませんでした」
と、突然謝りだした。
「次からは二度とやりません」
突然の事だったので、びっくりしてしまった。
「わかりました。次からはやらないでください。」
一応注意したが、どうしたのだろうか。
「先生、オセロ借りちゃいましょ」
すっかり宇佐美さんの事を忘れていた。
「ああ、そうでしたね。オセロ、借りていいですか?」
カウンター席の生徒はコクっと頷くと、奥の方へ走っていった。
「先に席に座ってていいですよ」
と、宇佐美さんを促して僕はオセロを受け取った。
「私が白なので、先生は黒をやってください」
オセロの駒を出しながら宇佐美さんは言った。
ゲームを始めると、僕は話すことも忘れて真剣にオセロをした。
ちょっと大人げなかったし、もしかしたら宇佐美さんは気まずさを感じているかもしれなかったが、そんなことを考えることも無くパチパチと打った。
ふと視線を上げると、宇佐美さんと目が合った。
もしかしたらオセロなんかに真剣な顔をする僕に引いたかもしれない。
なんだか恥ずかしくなって、僕はその気持ちを忘れようと話しかけた。
「あの、宇佐美さんって、大学どこを受けるんですか?」
「そうですね、夜蛍大学に行きたいなーって思ってます」
「そうなんですか。実は夜蛍大、僕が通っていた大学なんですよ」
「えっ、そうなんですか?」
「はい。結構楽しいところで、しかも建物も綺麗で、個人的にはすごく良い所だと思います」
「へぇ。先生、夜蛍大学出身なんですか……」
話はそこで途切れてしまった。
僕は次の一手を考えている宇佐美さんの顔を見た。
3年ほど部活で一緒だけど、しっかりと顔を見るのは初めてかもしれない。
面長で、日本人顔な宇佐美さんは、綺麗な鼻が特徴的だった。
こうやって見ると綺麗な和製人形のようで、とても不思議な気持ちになった。
結局オセロは僕が勝った。
「先生の勝ちですね」
「僕、オセロは得意な方なんですよ」
「また今度やりましょう」
「次は宇佐美さんが勝ってくださいね」
と、僕は笑って言った。
あっという間に部活の時間は終わった。
部室に戻り、簡単なあと片付けをした。
「あの、先生」
「どうしましたか?」
「明日、先生に国語の現代文を教えて欲しいんですけど、いいですか?」
宇佐美さんが勉強を教えてもらうように頼むのは珍しかった。
「ぜんぜんいいですよ。何時からですか?」
「塾があるので、夕方からでいいですか?」
「わかりました」
「じゃ、私はこれで」
「気をつけて帰ってくださいね」
そう言って僕は宇佐美さんと別れた。