テラーノベル
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教室に残っているのは二人だけだった。窓際の最後列に腰かけたまま、遥は一言も発さず、ただ前を見ていた。 夕陽が沈みかけて、教室の半分だけが赤く染まっている。
「……なんか言えよ」
沈黙に耐えきれず、日下部がぼそりとこぼす。
遥は応えない。ただ指先で机の角をなぞる。爪で、こつりこつりと。
「……おまえ、怒ってんのか?」
日下部の声に苛立ちよりも、焦りが滲んでいた。
遥は、ふと顔だけを向けた。目線は合わさず、それでも少しだけ笑ったように見えた。
「べつに。怒るようなこと、してないだろ?」
その声は淡々としていて、音程の揺れがなかった。それが逆に、日下部の胸をざわつかせた。
「じゃあ……なに。帰んねえの?」
「帰っても意味ないし」
その一言が、日下部の喉を詰まらせた。言い返せない。知ってる。こいつが「帰っても意味がない」と言う理由も。
けれど、それをどう扱えばいいのか、分からない。
「……おまえさ」
ようやくの言葉は、どこかぎこちない。
遥が、視線を日下部に寄せた。まっすぐじゃない。どこか底のないような瞳。
「なに、それ。哀れんでる?」
挑むような声音だった。
「かわいそうだなって、思った?」
日下部は口を開きかけて、閉じた。そしてまた開いた。
「……思ったら悪いのかよ」
それが精一杯だった。不器用な言葉しか出てこなかった。
遥は、目を細めた。ほんの少し唇を緩める。微笑みでも嘲りでもない、どこか空白のような顔だった。
「ふーん。じゃあ、どうするの? 可哀想な子にさ、触れる?」
その言い方には、「試し」が含まれていた。
自分をどこまで扱えるのか。
どこで離すのか。
壊れたものとして見下ろすのか。
それとも——。
日下部は応えなかった。いや、応えられなかった。立ち尽くしていた。
けれどその肩に、わずかに力が入るのを遥は見ていた。
その沈黙の中、遥が小さくつぶやいた。
「……バカだな、ほんと」
その声は、日下部の耳に届いた時、かすかに震えていた。
かすかに、でも確かに。
そして——日下部が不意に近づいた時、その手はぎこちなく、優しさとは呼べないような強さで遥の手を握った。
遥は、振り払わなかった。
その瞬間だけ、日下部の瞳が、ふだんよりずっと幼く見えた。
怒鳴りも、睨みも、慣れた強がりもなく。
まるで、何かを大事にしようとして、でもその方法を知らないまま、必死で腕を伸ばしている子どものように。
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