月子が泣き止み、落ち着いたところを見計らい、岩崎は抱いている腕を解いた。
「……マリーの事を……話しておきたい。構わないか?」
月子は、ドキリとしたが、岩崎の瞳は、聞いて欲しいと言いたげに向けられている。
「マリーは、花売りだった。劇場の近くで、道行く人に、花を売っていたんだ」
岩崎は、自身の欧州《ヨーロッパ》留学時代の事を話し始める。
西洋の音楽に触れたいと、海を渡り音楽学校へ入学した岩崎は、劇場で開かれる演奏会へ、足しげく通った。
生の演奏技術を身に付けたいという思いからだった。
しかし、現実は、厳しかった。
東洋人という理由からか、どこへ行っても、末席があてがわれる。はたまた、正規の入場券《チケット》を購入していても、劇場へ入ることすら拒まれる具合だった。
いわゆる、人種差別からの嫌がらせを受けたのだ。
岩崎の脳裏に、帰国の二文字が過り始める。
そんなある日、とある劇場で、入場を拒まれた岩崎に、花を買ってくれと声をかける者がいた。
「……それが、マリーとの出会いなんだ。摩りきれた靴、流行とはほど遠い地味な色のドレスを着ていた。私は、物乞いだと思ってね、黙って通り過ぎたのだよ。しかし、執拗に着いてくる。何事かと、話を聞いてみたら、みすぼらしい格好の花売りだから、誰も花を買ってくれない。家では、病気の母親が待っている。パンを買いたいのだと、皆が見下している東洋人を……私を、頼ってきた……。よほど、切羽つまっていたのだろうね……」
そこまで言うと、岩崎は、どこか遠い目をした。
それから先は、月子にも容易に想像できた。
二人は恋仲になった。そうして、芳子が話してくれた様に、マリーは、岩崎に乞われて日本へやって来た……。
ああ。と、月子は思う。
みすぼらしい着物、行くあてもなく、母親は……、病気にかかっている。
まるで、マリーの境遇と同じではないか。
岩崎にとって、自分は、マリーの代わりなのだ。
月子と、名前を呼んでくれているが、岩崎の瞳には、マリーが映っている……。
懐かしげに、それでいて、辛そうに、宙を望んでいる岩崎の姿は、月子の胸を締め付けた。
正直に話してくれたと本当は、喜ぶべきことなのに、どうして、胸が痛むのだろう。
そんなことを思えば思うほど、苦しさに襲われ、月子は、また、泣いていた。
野口のおばも、言っていた。
訳あり、だと。
これは、訳ありの見合い話。
岩崎は、家に決められた、見合い相手。
それだけの事なのに……。どうして、こんなにも涙が流れるのだろう。
月子は、声をあげて泣いていた。
「……音楽学校で学び、新進気鋭の演奏家に従事して帰国した私は、欧州《ヨーロッパ》帰りと、ちやほやされた。そして、演奏会の話も出た。父上と兄上の後押しがあったなど夢にも思っていなかった。一人前になれたと、私は喜んで、マリーを呼び寄せた。マリーは、日本に来るための船賃を作るため、借金をした。私が、大馬鹿者だったのだ。船賃も用意してやらずに……呼び寄せるなんて。読み書きも出来なかったマリーは、私からの手紙を代筆屋に読んでもらっていた。勿論、返事も代筆屋に書かせていた。小さな借金が増えていく……。それなのに、船賃は、マリーが工面して……。若かったとはいえ、私は、余りにも世間知らずだった……。そこまで、気が回らなかったのだ……」
本当は、自分本意の最低な男なのだと、岩崎は、月子の前で自身を責める。
月子の胸がキリリと痛んだ。
「月子。それが、私なのだ。そんな男なのだ。そして、君を……月子、君を泣かせている。ただ……」
言うと、岩崎は、月子の腕を掴んで引き寄せた。
あっと、月子は、小さく叫び、岩崎の動きを拒もうとした。しかし、それをわかっていたのか、岩崎は、強引に月子を抱きしめると、静かに言う。
「家が決めた見合いだからと、それだけで、月子、君を選んだのではない……。何故か、君に、月子に、私の演奏を聞かせたいと思ったのだ。私の奏でる音を、月子だけに、聞かせたいと思ったのだ」
切々と訴えてくる岩崎に、月子は、はっとした。
月子をじっと見据える、形の良い漆黒の瞳には、月子の姿しか映っていない。
岩崎が語ったのは、過去、なのだ。
今、岩崎は、確かに月子を見つめている。そう、月子との未来を……。
「こんな、私でもよければ、着いてきてもらえないか?」
岩崎の問いかけに月子は、コクンと頷くと、
「……私に……私に、旦那様の演奏を聞かせてください。私は……聞きたいのです……」
精一杯、声を絞り出す。
岩崎は、何も言わず、月子をしっかり抱きしめ、そして、
「君を泣かせた事を謝りたい。許してもらえないのなら、私の一生をかけて償いたい」
と、大仰な事を言う。
余りの言葉に、月子は、驚きつつも、包み込まれている岩崎の腕に身を任せた。
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