テラーノベル
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放課後の旧校舎は、まるで世界から切り離された空白地帯のようだった。
西日が長く伸びて、音楽室の床に並んだ机の影を歪に引き延ばしている。
その一番奥、埃の舞う光の中に、大森元貴はいた。
「……遅い」
元貴がピアノの椅子に座ったまま、振り返らずに言った。
ガラガラと音を立てて扉を閉めたのは、サッカー部のジャージを羽織った若井滉斗だ。
「わりぃ。部活、顧問が長引かせてさ。……待たせた?」
「別に。譜面書いてたから」
元貴の声はいつも通り淡々としている。
けれど、若井には分かっていた。
元貴が手元にある五線譜の同じ箇所を、何度も消しゴムで擦りすぎて紙を薄くしてしまっていることを。
それは彼が焦っているとき、あるいは―― 「何か」に怯えているときの癖だ。
若井は自分のカバンを床に放り出すと、迷いのない足取りで元貴の背後に歩み寄った。
そして、華奢な肩を後ろから包み込むように抱きしめる。
「若井、……やめろって。誰か来たらどうすんの」
「誰も来ないよ。涼ちゃん、今日は図書委員の当番だってさ」
「涼ちゃんがいないなら、なおさら……っ」
元貴の言葉は、若井の指が彼の顎を上向かせたことで遮られた。
若井の瞳は、クラスで見せる無邪気なそれとはまるで違う。
深い海のような、熱を孕んだ執着の色。
「元貴さ、最近俺のこと避けてるだろ。……今日も、病院行ってたよな?」
その言葉に、元貴の肩がびくりと跳ねた。
「……なんで、それを」
「見たんだよ。
校門で迎えに行こうとしたら、タクシー乗ってくのが見えた。……どこ悪いんだよ。
言えよ」
若井の指に力がこもる。
元貴は視線を泳がせ、やがて諦めたように吐息を漏らした。
「……ただの検査。若井が心配するようなことじゃない」
「嘘だ。元貴が嘘つくとき、左の眉が少し上がるの、俺が知らないと思ってんの?」
若井は逃がさないと言わんばかりに、元貴の唇を自分のそれで塞いだ。
それは甘い接吻というより、相手を縛り付けるための契約のような、激しい口づけだった。
「ん……っ、んん……」
元貴の手が若井の胸元を押し返そうとするが、やがて力なくそのシャツを掴む形に変わる。
元貴の体は、若井の体温に触れるたび、まるで氷が溶けるように脆くなっていく。
「……はぁ、……わか、い、苦しい……」
「……お前が全部話すまで、離さない」
若井は元貴の耳元で低く囁いた。
その声には、愛おしさと同時に、底知れない危うさが混じっている。
元貴はこのとき、心の中で小さく謝っていた。
(ごめん、若井。……君にだけは、絶対に言えないんだ)
元貴が隠しているのは、単なる病気ではない。
彼が時折、左手の感覚を失い、音が「色」として見えてしまうという、脳の異変――そして、それが進めば、いつか若井の顔さえ認識できなくなる可能性があるということ。
「若井……」
「何?」
「……大好きだよ。……それだけじゃ、ダメ?」
元貴が消え入りそうな声で、若井の首筋に顔を埋める。
若井はその愛の言葉に一瞬だけ表情を和らげたが、その腕の力は緩めなかった。
「……ダメだ。お前の全部、俺が把握してなきゃ。……元貴は俺のもんだろ」
沈みゆく太陽が、二人の影を一つに重ねていた。
音楽室の隅、ピアノの下に刻まれた古い傷跡。
それが、これから始まる残酷なカウントダウンの序章であることを、若井はまだ知らない。
一方その頃、図書室の窓から音楽室を見上げていた藤澤涼架は、手元のハーブティーを一口飲み、悲しげに瞳を伏せた。
「……始まったね。二人の、壊れた協奏曲が」
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