テラーノベル
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翌日。
空はどんよりとした鉛色で、今にも泣き出しそうな湿った風が廊下を吹き抜けていた。
昨日の音楽室での、若井との強引なキス。
その感触がまだ唇に残っているようで、元貴は授業中もずっと指先で口元をなぞっていた。
若井はサッカー部の朝練があると言って、今朝は顔を合わせていない。
「……はぁ」
ため息をつきながら中庭のベンチに座っていると、不意に視界が白く濁った。
「っ……まただ」
左目の端から、色が抜けていく。
それと同時に、グラウンドから聞こえる部活の声が、音ではなく「青い飛沫」のような視覚情報となって脳に直接流れ込んできた。
元貴は慌てて目を閉じ、こめかみを押さえる。
これは、彼だけが抱える秘密。共感覚の暴走と、それに伴う脳の機能障害。
「……無理しすぎ。だから言ったでしょ、早めに休みを入れなって」
穏やかだが、どこか冷徹な響きを含んだ声が降ってきた。
目を開けると、そこには藤澤涼架が立っていた。手には、いつものように自分の水筒を持っている。
「……涼ちゃん」
「これ、飲みな。いつものやつ」
涼ちゃんから手渡されたカップには、少し苦味のあるハーブティーが入っていた。
元貴がそれを一口飲むと、不思議と視界の歪みが収まっていく。
「……ありがとう。助かった」
「お礼なんていいよ。
それより、若井にどこまで話したの?」
涼ちゃんの問いに、元貴はグラスを持つ手をわずかに震わせた。
「……何も。ただの検査だって、誤魔化したよ」
「彼はバカじゃない。君の変化に一番敏感なのは、僕じゃなくて彼なんだから。
……昨日だって、音楽室でかなり問い詰められたんでしょ?」
涼ちゃんの瞳が、元貴の首元に残った小さな赤い痕——若井が付けた独占欲の証——を捉える。元貴は慌てて襟を正した。
「若井には言えないよ。……あいつ、真っ直ぐすぎるから。もし僕が『君の顔が分からなくなるかもしれない』なんて言ったら、あいつ、サッカーも自分の人生も全部捨てて僕に尽くしちゃう。そんなの、耐えられない」
「……君のそういうエゴが、一番彼を傷つけるんだけどね」
涼ちゃんは小さく溜息をつくと、元貴の隣に座った。
「でも、限界が来たら僕が動くよ。元貴を守るためなら、僕は若井くんに嫌われたって構わないから」
その言葉が、宣戦布告のように響いた。
その日の夜。
元貴は若井に呼び出され、誰もいない夜の公園にいた。
街灯の下、若井はどこか苛立った様子で自販機の横に寄りかかっている。
「……若井、どうしたの。こんな時間に」
「……涼ちゃんと、何話してた」
若井の声は低く、地を這うような響きだった。
「昼休みのこと? 課題の相談だよ」
「嘘つけ。アイツ、元貴の体調のこと、俺が知らない何かを知ってるだろ。
……なんでだよ。なんで俺じゃなくて、涼ちゃんなんだよ」
若井が元貴の腕を掴み、街灯の柱に押し付ける。
「若井、痛い……っ」
「痛いのは俺の方だよ! お前の全部を知りたいのに、お前はいつも一番大事なところで俺を締め出す。
……俺は、ただの『秘密の遊び相手』か?」
「そんなわけないだろ! 若井は、僕にとって……!」
言いかけて、元貴は言葉を飲み込んだ。
「……大切だから、言えないんだ」
その瞬間、若井の瞳に暗い火が灯る。
「……分かった。口で言わないなら、分からせてやるよ。お前が誰のものか」
若井は元貴の腰を引き寄せ、無理やり唇を奪った。昨日のそれよりも、ずっと強引で、絶望に近い執着がこもったキス。
元貴は逃げようとしたが、若井の体温と、彼が放つ圧倒的な「存在感」に、またしても視界が鮮やかな色彩に染まり、抗う力を奪われていく。
若井の指が、元貴のシャツのボタンに掛かったその時。
「——そこまでにしときなよ。滉斗」
植え込みの影から、静かな声がした。
若井が顔を上げると、そこにはスマホを片手に持った涼ちゃんが立っていた。
「……涼ちゃん。お前、ずっと見てたのか」
「見てたっていうか、元貴のGPSがここで止まってたからね。……滉斗、君のそれは愛じゃない。ただの暴力だよ」
涼ちゃんは一歩も引かずに、怒りに燃える若井を見据えた。
「元貴を壊したいなら続ければいい。
でも、そのときは僕が君を一生、元貴に会えない場所に追放する」
若井の拳が震える。元貴は、二人の間で息を乱しながら、ただ崩れ落ちるしかなかった。
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