「あのさあ。会いたいってんなら我慢すんなよばーか」
泣きそうな顔をするおまえの前で、おれは、腕を広げてやる。――飛び込んでこい、晴子。
おまえは、おれのものだ。
あいつが傍にいなくて、苦しんでいるおまえを、守るために、存在している。――存在意義を、見つけてくれたおまえには、いくら感謝してもしきれない。
「馬鹿とは……なによぅ」涙を拭うおまえは、いますぐ抱きしめたいくらいに可愛い。「別に……そりゃ、寂しいっちゃ寂しいけど……でもそんなの、智ちゃんも、おんなじなんだから……知らないひとばっかりの環境で頑張っているの。だから――甘えちゃ駄目なの」
――そういうところがいじらしいんだよな、おまえは。
暑苦しい夏を迎えた。日本の夏は、どうして、こんなにも暑いのだ。
メイのために、おれが不在のあいだも、一日中冷房を入れている。からからから……と、飽きもせず回し車で遊ぶさまがユーモラスだ。ちったぁ学習しろよおまえ。
朝江さんの運んできたかき氷を旨そうに食べるおまえは、音に釣られてか、メイへと視線を移す。窓際でちりん、と風鈴が揺れている。――おまえの存在が、おれを幸せにしてくれているんだ、晴子。
誰にも必要とされていないおれに、生きる意味を教えてくれたのは、他ならぬ、おまえだった。
『言いたいことを言うの。やりたいように――やりなさい』
あのひとに置き去りにされたのも、こんな暑い夏の日だった。
かき氷をしゃりしゃり食べながら、おれは、過去へと思いを巡らせる。
* * *
気が付いたときには、周囲から気味悪がられていた。
おれの、幼少期は、そんなだ。
顔を見て目を見れば、相手がだいたいなにを考えているのかを読み取れる。自然と、声が聞こえてくるのだ。――お腹空いたー。疲れたー。あいつ、まじ、うざ。ほんと死ね。
いろんなひとのノイズが流れ込んできて、気持ちが悪くなる。そういうとき、おれは、シャットアウトした。シャットアウトの方法も、自分で編み出した。なるべく他人と目を合わさないようにするのだ。そうすれば、おれの安息の地は、守れる。
自分が異常だと気づいたのは、周囲の反応を介してであった。
例えばだ。なにげなく、集団のなかにいるとして、そいつの目を見れば誰が好きで誰が嫌いなのかが分かる。
おれは、素直に、声に出す。
「かいくん、にこにこしてるけど、ほんとは、あつきちゃんのこと、だーいっきらいなんだよ」
保育士も、おれの対応にはほとほと手を焼かされたようだ。みんなで仲良くする世界観を作り上げたいというのに、生意気なガキが邪魔をするのだ。営業妨害――ならぬ、職務妨害といったところか。
何度か周囲との軋轢を経験し、やがて――おれは、自己を閉ざすようになった。
おれの父親である石田泰隆は、父親が亡き後、店を継ぎ、日中は職人として働き、以外の時間は経営者として働く、気ぜわしい日々を過ごしていた。
結婚したのも、祖父が亡くなり、店を継いだ直後だったと思う。
いくら朝江さんが商売上手とはいえ、和菓子作りの技術を持たない彼女がひとりで『葉桜』を経営するのには無理があり、また、おれの父も、いずれ店を継ぐことを見越して、フランスで修業したり、東京の店で働いたりと、準備を続けている段階だった。
祖父は、脳溢血で突然死だった。苦しむことがなかったから、ある意味、幸せだったのかもしれないと、朝江さんは寂しそうに語る。
父は、見合いで結婚をした。相手の女性は、家事手伝い――と言えば、聞こえはいいが、要は短大卒業後、仕事に就くこともなく、実家でだらりのんびりしているところを、親に発破をかけられたそうな。
そうして、おれの母親である秋葉(あきは)は、石田家へとめでたく嫁ぎ。最愛の我が子を授かり、めでたしめでたし。これがおとぎ話ならばハッピーエンドが訪れるところだ。
しかし、これは、おとぎ話などではない。
世間知らずの秋葉は、料理のりの字も知らなかった。これには、朝江さんが、ほとほと呆れた。――あなた、石田家に嫁いできたからには、ちゃんと、石田の味を引き継いでくれないと、ねえ……。
生まれながらに不器用な人間は、いるのだ。
ひょっとしたら、秋葉よりも、おれの知能のほうが勝っているのかもしれない。愚図で、のろまで、なにをやらせても要領が悪く。喋り方ものんびりと、性格もおっとりとしていて、ちゃきちゃきした姑の朝江さんに言い負かされている姿を、何度も目撃した。ひとりで、全員分の夕食作りを任されるのに、時間に、遅れ、ちくちく朝江さんに嫌味を言われる――背中を見るだけで、母のこころが泣いているのが伝わった。
おれは、秋葉が苦しんでいるのを分かっていた。目を見れば、聞こえてくるのだ。――どうして、わたしのことを、誰も分かってくれないの。苦しい。苦しい……。こんなにも、頑張っているのに……!
朝江さんや父のいる場所で、嘆きを曝け出すわけにはいかない。母の事情は分かっており、だから、おれは、部屋でふたりきりのときに、決まって母に訴えた。
「――お母さん。お母さん……!」母の嘆きがおれの胸を締め付ける。「お母さん……泣かないで。ぼくは、お母さんの味方だよ……!」
父は父で、忙しかったのだと思う。自分の妻と姑の間に入って仲違いを解消する余裕がなかったのだと思う。父は、女の苦しみを分かるには、若すぎた。
朝江さんは朝江さんで、昔っからこの店を経営しているわけだから、従業員皆を、自分の味方につける技量と能力を持っていた。――やがて、秋葉は、孤立した。
誰も、彼女のことを、分かってやらなかった。――おれ以外。
表面上はにこやかに接客してはいるが、こころのなかで、秋葉は泣いていた。泣いていたに違いない。おれは、彼女の目を見ていたから、彼女のなかに、なにが起こっていたのかを知っている。
頑張ったつもりだった。だが、彼女の胸には届かなかった。
頭のおかしい少年、というレッテルを貼られたおれに、秋葉は、怒りを隠さなかった。
殴られたこともあった。何度も何度も。父や、朝江さんの見ていない隙を狙って。それで、母のこころが癒せるのなら、それでいい――とおれは思っていた。
あのときまでは。
後から聞いた話だ。ベッタベタな話だが――出入りの配送業者と懇意になり、秋葉は、おれを、捨てた。
蝉のよく鳴く暑苦しい夜だった。戸建てゆえ、部屋は、蒸す。暑苦しさに夜中、おれは、目を覚ましたのだが――そこには、滅多に着ない、よそゆきのワンピースに着替えた母の姿があった。
ひょっとしたら、秋葉よりも、おれの知能のほうが勝っているのかもしれない。愚図で、のろまで、なにをやらせても要領が悪く。喋り方ものんびりと、性格もおっとりとしていて、ちゃきちゃきした姑の朝江さんに言い負かされている姿を、何度も目撃した。ひとりで、全員分の夕食作りを任されるのに、時間に、遅れ、ちくちく朝江さんに嫌味を言われる――背中を見るだけで、母のこころが泣いているのが伝わった。
おれは、秋葉が苦しんでいるのを分かっていた。目を見れば、聞こえてくるのだ。――どうして、わたしのことを、誰も分かってくれないの。苦しい。苦しい……。こんなにも、頑張っているのに……!
朝江さんや父のいる場所で、嘆きを曝け出すわけにはいかない。母の事情は分かっており、だから、おれは、部屋でふたりきりのときに、決まって母に訴えた。
「――お母さん。お母さん……!」母の嘆きがおれの胸を締め付ける。「お母さん……泣かないで。ぼくは、お母さんの味方だよ……!」
父は父で、忙しかったのだと思う。自分の妻と姑の間に入って仲違いを解消する余裕がなかったのだと思う。父は、女の苦しみを分かるには、若すぎた。
朝江さんは朝江さんで、昔っからこの店を経営しているわけだから、従業員皆を、自分の味方につける技量と能力を持っていた。――やがて、秋葉は、孤立した。
誰も、彼女のことを、分かってやらなかった。――おれ以外。
表面上はにこやかに接客してはいるが、こころのなかで、秋葉は泣いていた。泣いていたに違いない。おれは、彼女の目を見ていたから、彼女のなかに、なにが起こっていたのかを知っている。
頑張ったつもりだった。だが、彼女の胸には届かなかった。
頭のおかしい少年、というレッテルを貼られたおれに、秋葉は、怒りを隠さなかった。
殴られたこともあった。何度も何度も。父や、朝江さんの見ていない隙を狙って。それで、母のこころが癒せるのなら、それでいい――とおれは思っていた。
あのときまでは。
後から聞いた話だ。ベッタベタな話だが――出入りの配送業者と懇意になり、秋葉は、おれを、捨てた。
蝉のよく鳴く暑苦しい夜だった。戸建てゆえ、部屋は、蒸す。暑苦しさに夜中、おれは、目を覚ましたのだが――そこには、滅多に着ない、よそゆきのワンピースに着替えた母の姿があった。
おれは、母の目を覗き込んだ。薄闇のなかに紛れてはっきりとは見えなかったが、なにかしらの感情が、光っていた。
「……圭三郎。ごめんね……」母は起きあがったおれの頭を撫で、「いい子で……待っていてね。お母さん、いつか必ず、あなたのことを迎えに行くから……」
おれは静かに答えた。「――はい。分かりました……」
「言いたいことを、言うの。やりたいことを、やるの。誰がなんと言っても。……強くなってね。圭三郎。お母さんも、頑張るから……」
「はい。分かりました」
あれから、何度も夏を数えた。
それきり、消息を絶った母が、迎えに来る気配は、微塵もない。
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