イダンリネア王国。大陸の最東端に存在する、君主制を採用した巨大国家だ。
光流暦という独自の暦法を採用しており、十五年前の千年祭は水を差されたものの、それでもなお大いに賑わった。
建国の立役者は初代王と呼ばれる一人の男で間違いないが、人間が今なお滅ぼされることなく生存出来ている理由は、軍人と傭兵のおかげと言っても過言ではない。
元来、魔物に抗うことなど不可能だ。
草木の葉が虫に食われるように。
その虫を魚や鳥が食べるように。
人間は魔物に殺される。その仕組みはまるで摂理のように、自然のサイクルに組み込まれていた。
しかし、彼らは生きるために抗った。
体を鍛え、武具を発明し、ついには神秘すらも会得してみせた。
その結果、一部の人間は魔物の討伐に成功し、その生存圏を拡大、人口を増やすことに成功する。
軍人と傭兵。似て非なる存在ながらも、両者が異質な人間であることには変わりない。
風のように走り、建物すらも飛び越える。剣を一振りするだけで人間サイズの生物を両断してみせるのだから、いかに頑丈な魔物であろうと狩られる側にまわるしかない。
軍人は国と国民を守るため、魔物を狩る。その原動力は忠誠心だ。
傭兵はそうしたいがために魔物を狩る。その原動力は欲望だ。
ゆえに、両者は相いれない。結果だけを切り取れば同種のはずだが、軍人は傭兵を蔑む。
一方、彼らは他者からの評価など気にも留めず、今日も自分勝手に生きている。
まさに自由だ。
夢のような職業だ。
そんな幻想を抱ける者は、傭兵について何一つ理解出来ていない。
今日、魔物を狩れたとしても、明日は殺される側かもしれない。むしろ、狩れること自体が異常なのだ。
死地に赴き、死闘を繰り広げるのだから、生きて帰れる保証などどこにもなく、そんなことに身を投じる人間は正気ではない。
死にたがっているのか。
狂っているのか。
どちらにせよ、彼らは短命だ。一回の敗北が死に繋がる以上、長生きとは縁がない。
そうであろうと、これはあんまりだ。少年は眼前のやせ細った少女に視線を向け、静かに顔を伏せる。
(い、いったい何日、食事を抜けばこうなるんだろう……)
痛ましい光景だ。直視すら、ためらわれる。
それほどに、パオラと名乗ったこの少女は飢餓状態だ。
皮と骨だけで構成された人体がいかに不気味か、ウイルとしても痛感せざるを得ない。
先ほどまでの騒ぎが嘘のように、二人は穏やかな喧騒に包まれている。
ここはギルド会館。傭兵に仕事を斡旋する施設であり、巨大な面積は三つの区画に分けられる。
入口から見て左手側に食堂。多数の椅子とテーブルが並べられており、荒くれ者達が幸せそうに料理を食す。
対して右側が主要な機能だ。鎮座する掲示板達には羊皮紙が多数貼られており、そこには各々の依頼内容が記述されている。
受付窓口は右の最奥に設けられているのだが、そこから先は職員達の仕事場として区切られており、傭兵の立ち入りは禁止だ。
二人は食事中の大人達に紛れ、小さなテーブル越しに向かい合って座っている。
「この中に、お父さんはいる?」
わかってはいても、そう問わずにはいられない。
痩せこけた顔が周囲をゆっくりと見渡し、その後、青い髪を揺らしながら首を左右に振ったことで、答え合わせはあっさりと済まされる。
当然だ。この少女がギルド会館に現れた時点で、多少なりとも騒ぎになった。もし、父親が館内にいるのなら、そのタイミングで見つかっていただろう。
「とりあえず……」
ウイルは背もたれに体を預け、眼前の少女から別の女性へ視線をずらす。
薄茶色の制服を着たその人物は、ここで働く職員だ。注文を受け、料理を運ぶことが彼女らの仕事だが、右手と左手はコップを握っており、それらは二人の眼前にそっと置かれる。先ほど注文した飲み物が届いた瞬間だ。
ウイルは礼を述べ、片方をパオラの方へそっと差し出す。
「リンゴジュース、どうぞ」
片方のコップには、薄桃色の液体がなみなみと注がれている。その名の通り、リンゴを絞った飲料であり、それ以上でもそれ以下でもないのだが、その味は濃厚だ。
「りんご、じーす?」
その返答が、少年に未だかつてない恐怖心を抱かせる。もっとも、勘違いの可能性も捨てきれず、ウイルは自分を誤魔化すように喋りだす。
「うん、飲んだことない? 美味しいよ。ここは僕がおごるから気にしないで。おかわりだってドンドンしていいから……ね」
そう言いながらも、色褪せた鞄に腕を突っ込み、所持金を確認する。
実は金欠中だ。先ほど、軽めの朝食を済ませたことで、所持金はほとんどなくなってしまった。
一、二本の飲料なら問題なく支払えるが、ウイル自身は水を注文している。
(う、今日稼ぐつもりでいたからお金が……)
傭兵は稼げない。
正しくは、出費が多い。
依頼を達成することで懐は確かに潤うも、そもそも報酬金額自体が決して高くはなく、武器や防具、日用品によって金はすぐに逃げていく。食事を外食で済ませようものなら、収支がマイナスで落ち着こうと不思議ではない。
(むぅ、どうアプローチしよう)
グレーの髪ごしに頭をかきながら、ウイルは顔をしかめる。
パオラは未知の飲み物を前に硬直しており、手を付けようとすらしない。状況は何一つ進展していないのだから、所持金も相まって前途多難だ。
「お父さんの名前、教えてくれるかな? わかる?」
沈黙だけは避けたい。周囲の傭兵達が代わりに騒いではいるが、二人がどちらも黙ってしまっては無為に時間が過ぎ去ってしまう。
「……ロストン・ソーイング」
「ロストンさん……ね。どこかで聞いたことあるような……。あ、傭兵なんだよね?」
「うん」
一先ずの手がかりは得られた。彼女がここを訪問した時点で父親が傭兵であることは確定していたが、それでもこの一歩は大きい。
(何か食べさせてあげたいけど、一番安い料理って何だろう?)
父親探しも大事だが、パオラの体調改善も重要だ。餓死寸前かどうかは医者でないウイルにはわからないが、素人目にも危険であることくらいは見て取れる。
そもそも、外見だけで判断するのなら、この少女は既に死んでいないとおかしい。
死体よりも肉や脂肪が少ないことから、その見た目から魔物だと間違われても不自然ではない。
(あ~、胃が弱ってそうだから、柔らかいもの……、いや、スープとかの方がいいのかな? と言うか……)
ふとした疑問が頭をよぎる。本人が目の前にいる以上、条件反射的に口が動いてしまう。
「君ってどのくらいご飯食べてないの?」
「……わかんない」
「そっか……。十日くらい?」
「とお……か?」
その瞬間、ウイルは青ざめる。先ほど感じた違和感は気のせいではなかった。そう確信してしまう。
「う、うん、じゅうにち……のことなんだけど」
「じゅう、にち?」
その返答が少年に重くのしかかる。
(この子は……、一切の教育を受けられていないんだ)
パオラは数字の概念も、日付という文化も知らない。
教わってすらいない。
文字の読み書きが出来ない子供は王国にも一定数いるのだが、彼女の教養はそれ未満だ。
唯一の救いは言葉を話せることか。ゆえに、ウイルは絶望しながらも話しかける。
「今日を、いや、え~っと……、夜眠ったら一日で、次の日が来て、また眠ったら二日で……。うん、このお話はまた今度しよう。とりあえず、リンゴジュース飲んでみて。甘くて美味しいから……」
少年に促され、少女はついにコップへ手を伸ばす。
持ち上げることも難しいのだろう、両手で掴むもすぐに諦め、顔を猫のように近づける。
「あ、おいしい」
「ゆっくりでいいからね」
その返答を受け、ウイルはかろうじて笑みを作る。
同時に、怒りと無力さが胸の奥底で湧き上がり、涙を堪えずにはいられなかった。
この子の両親への苛立ち。
たった一杯の飲み物しか与えられない虚しさ。
経済的な理由が貧困を招いたのなら、自身もそれに近いため、否定することは出来ない。
ゆえに、ただただ情けない。
子供を飢えさせた父親となんら変わりないのでは? ウイルはそんな負の感情で己を責めるも、ここはギルド会館、傭兵という荒くれ者達が集う場所。涙を流す必要などない。
「お待たせしましたー」
「え? え?」
目を丸くする少年を他所に、女性職員が両手一杯の料理を次々とテーブルへ置いていく。リンゴジュースと水しか頼んではいないのだから、ウイルには理解不能な状況だ。
職員が去り、テーブルの上が多数の皿で埋め尽くされたことタイミングでふと周囲を見渡すと、その意味を知ることとなる。
何人もの傭兵達が、親指をグッと立てる。つまりは、彼らからの差し入れだ。
(あ、ありがとうございます。だけど……)
小さく頭を下げ、好意に甘えるも、ウイルの幼い顔は引きつってしまう。
品数も量も多過ぎた。パオラのために運ばれてきた料理だが、二人がかりでも食べきることは不可能だろう。そもそも眼前の少女は極度に衰弱しており、口にしても良い食べ物は限られる。
(学校の授業で習った……。確か、胃が弱ってる時は油っぽいものがダメで、消化しやすい流動食とかが良かったはず。と、なると……)
先ほどまでは質素なテーブルだったが、今ではお祭りのように賑やかだ。
総菜パンの盛り付け。
肉と野菜を薄い生地で包んだトルティーヤ。
海の幸と野菜を混ぜ込み、炊き込むシーフードパエリア。
細切れの魔物肉を連ねた、山盛りの串焼き。
透明に近いが栄養満点、ワカメスープ。
それら以外にも料理がずらっと並んでいるのだから、その光景は圧巻だ。
「何か食べたいのあったら、好きに食べていいからね。このワカメスープは質素な見た目してるだけど、美味しいし栄養もあるからおすすめだよ。あ、でも、熱すぎるか……」
その発言通り、小ぶりのカップを持ち上げると手のひらが加熱されてしまう。ウイルなら問題ないが、パオラの容態を考慮するといくらか冷ますべきだろう。
「……これ」
「ん、はい、どうぞ」
細すぎる指がその皿を指さす。
そこには三種類のパンが乗っており、ウイルはそれを少女の目の前へ配置し直す。
「コロッケパンとカツサンドとチーズパンだね。油っぽいけど、まぁ食べないよりは……」
ソースたっぷりのコロッケを咥えたコロッケパン。
油で揚げた魔物肉を挟み込む白いサンドイッチ。
くぼ地にチーズがたっぷりのチーズパン。
どれも美味ではあるのだが、ウイルとしては少々不安だ。
「あ、やわらかい……」
パオラはコロッケパンにそっと触れ、その感触に感嘆の声を漏らす。
その反応から、彼女の境遇を察することは十分可能だった。
(柔らかい? 普段食べてたパンはもっと硬かったってこと? 僕らが食べてるようなギルドパンとかってことか……)
長旅のお供として、傭兵は日持ちする食糧を買い込む。ギルドパンはその一つであり、材料に卵や砂糖を使用せず、小麦や塩等だけで作られることから、総菜パンと比べると簡素な味だが仕方ない。
端をちぎり、欠片をゆっくりと口に運ぶパオラを眺めながら、ウイルは話題を本筋へ戻す。
「お父さんがずっと帰って来ないから、探しに来たんだよね? どのくらいか、わかるかな?」
しかし、その問いかけに対しても、少女は瑠璃色の髪ごと顔を振ることしか出来ない。
具体的な日数がわからないのか。
数字というものを知らないからか。
どちらにせよ、無駄な質問となってしまった。
(まぁ、いいや。名前がわかったからそれだけでも十分。ロストンさん……か、小耳に挟んだことはあるんだけど……)
この少年は物覚えは良いのだが、今回ばかりは思い出せない。
エルディアとの別れが尾を引いており、その後も慌ただしい三か月を過ごした。
なによりこの状況だ。多少、冷静さを欠いたとしても仕方ない。
(とりあえず……)
今は食事だ。
運ばれてきた料理は子供一人では決して食べきれない。二人がかりでも困難だ。そうであろうと食べるしかなく、ウイルは肉の串焼きや炒めご飯を心底幸せそうに口へ運ぶ。
簡単な朝食を済ませた後ゆえ、満腹感がいつ襲ってくるかわからない。それでも普段買えないような料理が目の前に並んでいるのだから、この好機を逃すのはもったいない。
(エルさんがいてくれれば、残さずペロッと食べきれそう。だけど、今はいない、僕のせいで……。だったら、その分もがんばらないと。あ、久しぶりのこれ、すっごく美味しい。何だろう? 香辛料のおかげなのかな?)
白い生地で具材を包むこれはトルティーヤと呼ばれる料理だ。シンプルではあるのだが、肉と野菜が調味料で整えられており、刺激的な味付けにハマる傭兵も少なくない。
質疑応答は一旦中断し、二人は静かに食事を進めるも、幸せな時間はあっという間に終わりを告げる。
「……おなか、いっぱい」
(え、もう⁉)
その発言はウイルとしても想定外だ。
パオラはコロッケパンをむしりながら食していたが、未だ端の部分だけであり、主役のコロッケには届いていない。
(こ、この子……、胃がもうダメなんだ……。だったら、最終手段しかない)
食事でどうこう出来る状況ではない。改めてそう思えたのなら、次の段階へ移行する。
「お兄ちゃん、今から残りの分を食べきっちゃうから、それまではこのワカメスープかリンゴジュース飲んでてね」
「……うん」
すぐに出発してもよいのだが、せっかくの機会ゆえ、残さず食べる。本気を出せばそう時間はかからず、ウイルは傭兵としての根性を見せつけるように、けれども丁寧に皿の上を片付けていく。
傭兵らしからぬ行儀の良さは、紛れもなく両親のおかげだ。
過去には教育機関にすら通っていた時期さえあった。そういった点は周囲の同業者にはない強みであり、教養や知識が少年を救ったケースも稀にだが存在する。
「ふぅ、食べぎれだ……。お父さんを探す前に、君のこと、お医者さんに診てもらおう」
「……おいしゃ、さん?」
「うん。元気にしてくれるお姉さんだよ。苦~いお薬出されるかもだけど……、それはまぁ、我慢してね」
出発だ。
ウイルは同胞らに礼を述べ、ギルド会館を後にする。
パオラの体調は想像以上に深刻だ。そんなことは見た目からでも判断可能だが、だとしたらなおさら傭兵の領分ではない。
歩くことさえ辛そうな少女を抱え、少年は前へ進む。
これは自分にしか出来ないことだ。そう自負するも、決して自惚れではない。
城下町には医者が何人かいるのだが、ウイルは彼らを目指さず、切り開かれた山へ真っすぐ向かう。
そこは特権階級が住まう特別な区画。一般市民は足を踏み入れることさえ禁止されており、傭兵もそれは同様だ。
「あ~、天気崩れそうだね。まぁ、間に合うか」
青いはずの空が、白い雲で覆われかけている。大通りを歩く人々もどこか心配そうだ。
「……おとうさん、どこ?」
「う~ん、まだわからんないかな。だけど、僕がちゃんと探してあげる。こう見えて、魔物探しだけはすっごく得意なんだ。だから、お父さんもきっと見つかるよ」
「……うん」
救われる側から、救う側へ。
少年の新たな一歩は、ここから始まる。
◆
白茶色の部屋には埃一つ見当たらず、消毒液のツンとした匂いはここが清潔であることの証だ。
机や棚には薬品や医療道具が鎮座しており、一方でその席に主は見当たらない。
しかし、無人ではなく、小さな椅子に腰かけ、ウイルが置物のように待機している最中だ。
「お待たせ。二十五年生きてるけど、ここまで酷い患者は初めてだよ」
唯一の扉がカチャリと開き、白衣の女性が威風堂々と現れる。
「ど、どうでしょう……」
少年の声は弱々しい。相手が年長者ということもあるが、今の発言に身構えてしまった。
女の名はアンジェ・ドクトゥル。この病院を四年前に引き継いだ、若き医者だ。
桃色の長髪を揺らしながら椅子に腰かけ、大きく息を吐き出す。白衣の下は黒いセーターを着こんでおり、長いズボンも同色だ。
この瞬間、ウイルは硬直する。彼女の眼鏡ごしの眼光はそれほどに鋭く、悪い予感しかしない。
「もっと早く連れてきてくれれば、助かったかもしれないね」
「え……」
言葉が続かない。その意味を十分に理解出来てしまったからだ。
「どこで拾って来たのかは知らないけどさ、遅すぎだよ。今回ばかりは、延命すらままならない。事情は……、話してくれるんだろうね」
パオラは別室のベッドで寝かしつけられた。
つまりは、この診療室には二人だけ。一切の隠し事は不要だ。
ウイルは経緯を説明するも、終始、手の震えを止めることは出来なかった。
それほどにショックだ。出会ってまだ一時間足らずの間柄だが、それでも胸が張り裂けそうだ。
「いたたまれないね。だとしたら、あの子は自分が死ぬことを感覚的に察知したのかも」
「それはどういう……」
「子供ってのはね、体調を崩すと無意識ながらも大人に甘えるの。本能がそうさせるのでしょうね。だから、家を飛び出して、父親を探した……と。会いたい、助けて、って感じかしら」
医者の予想でしかないが、ウイルはそれを否定出来ない。出来るはずもない。
そうなのだろう、と共感してしまったら最後、涙がじわりとあふれ始める。
「アンジェさんの診療で……、どうにか、なりませんか?」
そう懇願するも、彼女は返答までに一呼吸の間を必要とした。
「……言葉足らずなあの子から、一つ情報を得られたの。誤差はあるでしょうけど、あの子がこの一年間で食べたパンの個数、知りたい?」
「え? いったい何を?」
「母親はいないらしくてね。あ、なら情報は二つか。それはそれとして、父親から与えられた食事はずーっとパンだけ。その数、当ててみて」
非生産的なクイズだ。そもそもこの状況には不適切でさえある。それでも女医が真正面から問いかけてきたのだから、ウイルは恐る恐る口を開く。
「百……八十個」
つまりは二日に一個のペースだ。
パオラの飢餓状態からそう逆算したのだが、現実はあまりに残酷だった。
「ハズレ。十から二十」
「あ、ありえない!」
その回答が少年を椅子から立たせる。
パオラの生死を問答している最中において、その解答は冗談であってもつまらない。
一年間で食べた食事はパンだけ。その数は十個から二十個。
そのようなことはウイルの言う通り、ありえない。
パン一個で命が一か月も繋がるはずもなく、そんな食生活を一年以上も強いていたのなら、それはもはや殺意の元で行われた虐待だ。
「だから、あの子は助からない。悪いけど私程度じゃ、ううん、現代医学じゃ手の施しようがない」
医者にそうまで言われてしまっては、ウイルは力なく座り直すしかない。
「な、なんで……」
「あの子の父親を探すのよね? 会って聞いてみたら? あ、その時は私にも教えてね。どんな心情に至れたらそこまで非人道的なことが出来るのか、医者として知っておきたいの」
うなだれるウイルと、平然と胸を張るアンジェ。
いかに傭兵が魔物を殺そうと、それはあくまでも魔物だ。ウイルはその若さで人間の死体をいくつも見てきたが、今回ばかりは耐えられない。
「あの子は……、パオラは後どのくらい……」
「おそらくは、夜を越せない。そういう状況。むしろ、今まで生きてこれたことが奇跡なのよ。あー、軽く診断してわかったことが二つあるのだけど、聞きたい?」
その問いかけに、返事は続かない。少年の思考はほとんど停止しており、新たな情報を受け入れることなど不可能だ。
「あの子、身長から四、五歳のように見えるけど、実年齢はおそらく九歳前後」
「な……⁉」
「体重に至っては……たったの十キロ。一歳児程度ってとこかしらね」
限界だ。ウイルは現実を受け入れられず、大粒の涙をこぼし始める。
その様子を見守るアンジェは冷静そのものだが、実際にはそう見えるだけだ。
「あの子は死ぬことで解放されるのよ。地獄のような虐待から。何年間、そんな生活が続いたのかしら。想像もしたくないけど」
月に一、二個のパンだけを与えられ、家の中で次の食事を待ち続ける日々。そんなものは拷問以外の何者でもなく、通常ならば早々に死んでしまう。
栄養失調を伴う餓死。それが父親からの解放だったはずだが、パオラはなぜか九年間も生き続けてしまった。
死は救いなのか?
そんなはずがない。それをわかっているからこそ、ウイルは静かに怒り狂う。
「……殺す。絶対に探し出して、殺す」
その瞬間、放たれた殺意が空気を凍らせるばかりか、病室を飛び出し周囲へ伝播してしまう。
息苦しいほどの重圧にはさすがのアンジェも意識を失いかけるも、この現象はそれだけでは終わらない。
(う、何……? この子の周辺が揺れてるの?)
少なくとも、女医の目にはそう映った。
ウイルを取り巻く空間が渦巻くように歪んでいるのだから、本来ならば目の錯覚のはずだ。
「息苦しい……。ちょ、ちょっと! 私まで殺す気⁉」
悲鳴にも似たその声が、少年を正気に戻す。
「あ、え? す、すみません! ついカッとなって……」
赤い目を泣きボクロごと擦りながら、ウイルは頭を下げる。
「あなた、何をしたの?」
「えっと……、実はよくわかってないんです。殺気が鋭いって言われたことがあるので、そのせいかもしれないです」
それだけではない。ただの医者ですら、少年の発言に首を傾げる。
なんにせよ、本人に自覚がないのだから、この件については追及を諦める他ない。
「このタイミングだと言いづらいのだけど、そもそもあの子の生命力次第だから聞き流してくれていいんだけど。実は、手がないことも……ない」
「本当ですか⁉」
「ええ。だけど、可能性はゼロに等しい。それだけは年頭に置いて聞いて頂戴」
長い前振りが終わり、本題に突入する。それを理解しているからこそ、ウイルは腫らした目を輝かせずにはいられない。
「飢餓の特効薬なんてない。だけど、この世界には医療とは別の薬が存在する」
「錬金術……」
「ええ。あなた達も愛用している、エリクシルとかがそうね」
「高価過ぎて、ここ何年か使った記憶がないですけど……」
エリクシル。錬金術によって発明された妙薬だ。負傷者に振りかけるだけで傷を癒すことが出来てしまう。その効果ゆえ、傭兵なら常備したいところだが、ウイルの言う通り、高額ゆえにそれは難しい。
「欲しいのなら一本くらいあげるわよ?」
「本当ですか⁉」
「その代わり、私と結婚して」
「話を進めてください」
「どこまで進めたかしら? 結婚のくだり?」
「錬金術で治せるかも、です。しつこいな、この人……」
話が脇道に逸れたが、軌道修正も一瞬だった。
「いつだったか、あなたに薬の材料集めを依頼したことがあったでしょ?」
「はい。死にかけたのでハッキリ覚えてます」
「それは初耳なんだけど……。まぁ、いいわ。その時の試作品は結局おじゃんになっちゃったけど、それでも貴重なデータは得られたの。私の医学の知識と錬金術が合わされば、エリクシルよりも、もっとすごい薬品が作れる……はず」
女医の熱弁にはウイルも生唾を飲んでしまう。
「それでパオラの命が助かるかも……」
「可能性はかなり低いけど……。ううん、普通ならゼロなんだけど、あの子は普通とは違う。だから、本当の本当に本人次第よ」
いささか頼りないが、今はそれだけが突破口だ。
「それに加えて材料が必要、ということでしょうか?」
「ええ。この方法を最初に提示しなかった理由、それは今から集めるとなると、絶対に間に合わないから」
希望を持たせたくなかった。そもそも幻想でしかないのだから。
ゆえにアンジェは明かすつもりなどなかったのだが、ウイルの痛ましい姿を見てしまった以上、可能性に賭けたくなってしまった。
「間に合わない? いざとなれば、ギルド会館にいる誰かが持ってるかも……」
「その可能性はないの。なぜなら、片方は場所が場所だから。もう片方は、今まで見向きもされなかった素材だから」
ウイルの疑問は膨らむばかりだ。女医の歯切れの悪さが原因だが、今は大人しく待つしかない。
「一つ目は、以前あなたに取って来てもらったアレ。ラゼントカゲの尻尾……」
「あ、良かった。それなら持ってます」
「……は?」
この瞬間、病室の空気が完全に静止する。
鞄から指定された物品を取り出したウイル。
差し出された大きな尻尾を見つめるアンジェ。
妙な雰囲気が何秒も続いた頃、傭兵は不思議そうに口を開く。
「ここ最近、特訓のためにラゼン山脈へ通ってたんです。これはその戦利品です。アンジェさんにまた頼まれるかもと思って、一個だけ持ち帰りました」
平然と言ってのけるが、この医者でさえ今の発言が非常識だと理解している。だからこそ、開いた口がふさがらない。
「え、ちょっと……。一年前は二人がかりで苦戦したんでしょう?」
「そうですね。だけど今なら僕だけでも。ラゼントカゲ自体、戦い慣れればいなしやすい相手だと思いますし」
「い、いやいや。これはありがたく受け取るけども……。傭兵組合でさえ、禁止区域にしたがっている場所よ、あそこ。だから私も、直接あなたに依頼したって経緯があったのに」
ラゼン山脈。イダンリネア王国から遥か西にそびえ立つ山々だ。生息する魔物は際立って危険なため、足を踏み入れる者はいない。傭兵や軍人でさえ、例外ではない。
「あぁ、あそこに関する依頼は受け付けてくれないんですよね? と言うか、無茶な場所とわかってて、一年前、僕のこと顎で使ったんですか……。やっぱり怖い、この人……」
青ざめるウイルだが、それはアンジェも同様だ。彼女は医者でしかないが、その教養や知識量は人並み外れている。
ゆえに、理解出来てしまう。この少年がいかに突出した傭兵だということを。
「もしかしたら、あなたくらいじゃない? あそこから生きて帰って来れらるの」
「そんなことないと思います。僕が知るだけでも十人くらいは……。ところで、必要なものがもう一個あるんですよね?」
「え、ええ。スケルトンの……頭蓋骨なんだけど。こっちは夜まで待たないといけないから、そういう意味で間に合わないの。調合には数時間は必要だから……。ね、無理でしょう?」
スケルトン。魔物の一種だが、その中でもとりわけ異質な存在だ。全身が骨だけで構成されてあり、この時点で生物とは言い難い。生息域は大陸全域ながらも日没後にしか姿を見せず、ゆえにアンジェはこの手段を諦めている。
つまりは、間に合わない。一分一秒を急ぎたい状況にも関わらず、夜まで待たなければならないのだから、探索、討伐、入手、帰還、調合の全工程が終わる頃には夜が明けてしまう。
そのはずだが、少年は一切怯まない。
「だったら、ヘムト採掘場で取ってきます。あそこなら、昼間でもスケルトンが闊歩してますから」
傭兵にとっては常識なのだが、いかに博識なアンジェであっても、この情報までは知らなかった。ゆえに目を丸くしてしまうのだが、だとしても腑に落ちない。
「ま、待って。仮にそんなところまで行くとなると、何日かかると思ってるの? 傭兵に護衛されながらでも、商人だったら一週間は見込む距離よ?」
往復なら二週間前後か。王国からヘムト採掘場はそれほどに離れており、だからこそ、今からの収集など不可能だ。
「多分、大丈夫だと思います。半日もかからないはずです。骨の頭、何個必要ですか?」
屈託ない返答が、女医の顔を引きつらせる。眼鏡もわずかにずり落ちたが、彼女に直す余裕などない。
「三個……。あ、念のため、五個くらい……」
「わかりました、行ってきます!」
アンジェラ・ドクトゥルの常識が壊された瞬間だ。
傭兵。魔物を狩り、生計を立てる者達。最も常識から外れた集団であり、壊れているからこそ、人外の脅威に戦いを挑めるのかもしれない。
あるいは愚かなだけなのか。
「は、はは……。ジジイの後釜として貴族連中にもてはやされてきたけど、世界の広さに比べたら私なんてまだまだ若造ってことか。いや、実際問題若いけど……」
この女性は紛れもなく名医だ。この国一番の腕利きであり、だからこそ偉大な祖父の跡を継ぐことが出来た。
そんな彼女でさえ、今は笑うしかない。
先ほどまでこの部屋にいた少年。見た目こそ十六歳よりも幼く見えるも、一人前の傭兵として誰かの役に立てている。
少なくとも、アンジェにはそう思えてならない。
だからこそ、年齢差など気にもせず惹かれてしまった。跡継ぎのために始めたアプローチだが、間違っていなかったと再認識しつつ、彼女もまた、この部屋を後にする。
今は待つしかない。
無人となった空間は、打って変わって静けさを取り戻す。
消毒液のツンとした匂いが待ちこめるも、それこそが病室のありようだ。
命を救えるか否かは彼の双肩にかかっている。
その少年は走る。緑の草原を、誰よりも速く駆け抜ける。
◆
冷気をまとった錆の匂い。
反響する不気味な足音。
粘っこい空気はどこまでも淀んでおり、一寸先は黒色よりも真っ暗だ。
それでもなお、少年の足取りは鈍ることを知らない。洞窟のようなその場所を、軽快なステップで突き進む。
その姿は汗まみれだ。灰色の髪は滴っており、その蒸気が湯気のように立ち昇るも、錯覚ではない。
ここはかつての採掘場だ。現在は廃鉱となっており、坑夫達の姿はどこにも見当たらない。
ヘムト採掘場。今は魔物の巣窟でしかなく、それゆえに立ち入る者はほとんどいない。
ウイルは鞄からランプを取り出し、周囲を照らしながら薄気味悪い通路を道沿いに進む。
倒れたトロッコも、そのために設置された線路も、もはや過去の遺産だ。この地で採掘が再開される見込みはなく、風化もせずにこのまま残り続けるのだろう。
(何年ぶり? あの頃はここの雰囲気に怖気づいて、エルさんの後ろを離れられなかったっけ? ここって普通に怖いし……)
なつかしい思い出だ。不甲斐ない記憶でしかないのだが、少年の顔はわずかにほころぶ。
(一、二、五……、けっこういる)
視界は未だ不明瞭だ。手元の灯りだけでは遠方まで見通せず、開けた広間にたどり着けはしたものの、見える景色は寂れた発掘場のそれでしかない。
無人だ。
正しくは、ウイルしかいない。
そのはずだが、この傭兵は魔物の存在を感知出来ている。
(よし、順番に片づけていこう)
辿り着いた広間は三方向へ分岐している。
右と左と真正面。来た道を含めれば四つだが、ウイルは迷うことなく直進を選ぶ。
無音の暗闇はそれだけでも身がすくむ恐怖だ。何が潜んでいるのかわからない以上、本能的に身構えてしまうものだが、この傭兵は腰の短剣に手を伸ばそうとすらしない。
聞こえてくる音は、自身の足音だけ。それが反響し、四方から届くのだから、その不気味さは本来ならば人間を委縮させる。
駆け足で突き進むこと数分、洞窟のような通路に十字路のごとく分岐点が生まれたその場所で、少年はピタリと足を止める。
(あっちも僕に気づいてくれた。だったら、ここで狩ろう。数も十分)
カタカタと聞こえ始めた異音。石よりも軽い何かがこすれるような、叩き合うような、そんな騒音が正面と左右から近寄って来ている。
もはや耳を澄ます必要などない。
足元に置いた光源は未だその姿を捉えないが、状況としては囲まれた状態だ。
そして、その瞬間が訪れる。
暗闇から現れた真っ白な人骨。全身骨だけの存在ながらも、それは悠然と二足歩行を行っており、右手には棍棒のようなものをしっかりと握れている。
皮膚や肉すらまとっておらず、眼球も内臓も見当たらない。生物としてはありえないが、これは魔物、常識など適用されない。
スケルトン。この鉱山を縄張りとする異形であり、医者から指定された獲物だ。
正面から一。
右手側からも一。
左方向からは三。
合計五体のスケルトンが、侵入してきた人間の血肉を引き裂かんとばかりに歩み寄る。
カタカタという乾いた音の正体は、それらの骨が稼働した際の衝突音だ。もしくは、顎を上下させてむき出しの歯をぶつけていたのかもしれない。
(それじゃ……)
数の上では劣勢だが、ウイルは眉一つ動かさず、光の中心で顔を正面から右へずらす。
その途端、視界は標本のような人体骨格で埋め尽くされる。それは既に右腕を振り上げており、茶色い鈍器で殴りかかる瞬間だった。
一手遅れた。
この少年は未だ、武器を抜けてすらいない。
ゆえに反撃など間に合わず、避けることすら絶望的だ。
少なくとも、この魔物はそう捉えていた。
迫る棍棒。それは人間の頭蓋骨を容易に砕けてしまう。凶器が硬いということもあるが、白骨の腕に、それほどの腕力が伴っているためだ。
そうであろうとこの傭兵には関係ない。細い左腕が、いともたやすく受け止めてみせる。
間髪入れずにもう片方の腕が、スケルトンの肋骨と背骨を粉みじんに打ち砕けば、一体目の討伐は完了だ。。
(次!)
崩れ行く個体に目もくれず、左へ跳ねて二体目へ。
一方的だ。人間の接近に気づくことすら出来ずに、それは両腕ごと胴体を蹴り抜かれ、下半身と肩から上だけをその場に残して活動を停止する。
残りの三体はこのタイミングで侵入者の強さを感じ取るも、現状把握としては遅すぎた。
攻撃にも防御にも転じることすら出来ずに、一体ずつ、頭部以外の部位を打撃で破壊され、次々と朽ち果てていく。
人間は狩られる側のはずだ。
カラカラと響く音にはそんな恨み節が宿っているようにも聞こえたが、当人達は物曰く屍と化しており、確認のしようがない。
圧勝だ。
一方的な狩猟だ。
ここの魔物が弱いのではない。
この少年の実力が上回っていた。それだけのことだ。
指定された素材を必要数集めることが出来たのだから、後は持ち帰るだけ。ウイルは不気味な頭蓋骨を次々と拾い上げ、鞄にしまい込む。
(これで最後)
嬉しそうに五つ目の頭へ手を伸ばした、その時だった。
風切り音を生み出しながら、錆びた剣が少年の頭に振り下ろされる。
中腰の人間に切りかかる行為は非常に簡単なのだろう。闇に潜んでいた六体目のスケルトンが、意気揚々とウイルの頭部を斬りぬいてみせる。
吹き荒れる、赤い鮮血。
そんな光景を見られるという淡い期待が、眼球なき魔物にそのような幻を見せる。
「さて、と……」
斬られたという事実は覆せない。
しかし、損害を被った側は真逆だ。。
少年の頭は当然のように無傷。
代わりに、片手剣の方がパキンと折れてしまった。
この傭兵は初めから気づいていた。二体のスケルトンが前後から歩み寄っていることを。
用事が済んだため無視していたのだが、ちょっかいを出された以上、反撃を開始する。
唖然と立ち尽くす魔物の頭部を殴るように剥ぎ取り、左足を支点として勢いそのままに左回転、背後から迫るもう一体を回し蹴りで打ち砕いてみせる。
(五個で良いって言われてたけど……。この二個もついでということで)
多すぎるからと言って困ることはないだろう。そんな予想の元、ウイルは追加の頭蓋骨を二個とも回収し、素材集めを完了させる。
(さぁ)
帰還だ。
現在地はヘムト採掘場。イダンリネア王国までの道のりは遠く、悠長に休んでいる場合ではない。
この仕事には命がかかっている。
パオラ・ソーイング。まるでスケルトンのようにやせ細った、小さすぎる少女。受け答えは可能だが、文字の読み書きはおろか、数を数えることすら出来ない。
そんな彼女に手を差し伸べた少年の名は、ウイル・ヴィエン。家を飛び出し名前を変えたが、今ではすっかり馴染んでいる。四年も共にしてきたのだから、当然と言えば当然だ。
光流暦千と十五年。
二人はこうして巡り会った。
きっかけは酷く残酷だが、この先に待つものが幸か不幸か、それは二人次第だ。
運命の歯車は静かに回る。観客は既に着席しており、その行く末を見届けたいのだろう、目を輝かせている。
生きるか、死ぬか。
殺すか、殺されるか。
救えるか、間に合わないか。
それは、少年の双肩にかかっている。
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